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File:4 ある極秘部署の憶測



 警視庁。PM12:28。


 会議室のドアが勢いよく開く。

 飛び込んできたのは野村だ。蕗二を無視して隣を通り過ぎ、机の向こうへと回り込んだ。


「どうした野村」


 野村は答えない。ただ青い顔をして、入り口をじっと見つめている。蕗二がドアを睨みつけると、またしても大きく開いた。


「やあ警部補、切り札の到着だ!」


 まるでスターが到着したように、両手を広げて意気揚々と片岡が入ってくる。蕗二は堪えきれず大きな溜息を吐いた。


「あのな……もう少し緊張感を持ってくれ」

「緊張感? 私はいつも大真面目だよ?」


 食えない笑みを浮かべる片岡に、二度目の溜息を吐きながら、ドアの隙間からなぜか首だけを覗かせる竹輔に視線を向ける。


「んで? 竹は何してるんだ?」


 ドアを塞いでいる様だが、竹輔のぽっちゃり体型があいまって、かなり窮屈そうに見える。


「えーっとですね……蕗二さんって、犬嫌いでしたっけ?」

「なんだよ突然。どっちかと言うと好きだけど?」

「じゃあ、大丈夫かな?」


 会話が噛み合わず、首を傾げると竹輔がドアを大きく開ける。すると待っていたかのように、滑り込んできた白い塊に思わず目を見開く。

 大きな白い犬だ。ぴんと天を向く三角の耳、真っ黒くツヤのある鼻、琥珀色の目がこちらを見つめる。肩甲骨から背中にかけて黒っぽい毛がケープのように逆三角形の模様を描いている。そして、犬にしてはやけに大きい気がした。


「狼?」


 自分の口から出た言葉に一人納得する。そこで机の向こうで身構えたままの野村にピンと来た。


「そっか、野村は犬嫌いだったな?」

「嫌いって訳じゃないけど、生きた動物はまだ無理ってゆーかぁ? ちょーっと頑張ってるですけどぉ、心の準備的なのがないとー、マジげろっちゃうのでぇ……」


 おえっと舌を突き出した。中途半端な敬語を使うあたり動揺がうかがえる。あの事件以降、生きた人間や動物に触れない体質を改善すべく彼女なりに努力をしているようだが、トラウマの克服はそう簡単ではないだろう。


「てか、なんで犬連れてきたんだ?」

「いや、その……」

「あなたが急かすからですよ」


 竹輔の脇を通り抜けるようにドアを潜り抜けたのは、Tシャツに半パンと今まで見た中でもかなりラフな姿をした芳乃ほうのだ。相変わらずの不機嫌そうな表情で蕗二を見上げる。


「たまたま近くに居るからって、問答無用で呼び出す神経はどうかと思います」


 同意するように白い犬がくしゃみをする。芳乃の左手は縄のようなものを持っていて、その先は毛に埋もれて見えにくいが、犬の首元を一周するチェーンと繋がっていた。この大きな白い犬は芳乃が連れてきたようだ。


「じゃあ、犬の散歩中だって言えよ。つか、犬飼ってたのかよ」

「状況も確認せず一方的に用件を押し付けてきたのはそっちですよ。それに、いぬを飼っていようがいまいがぼくの勝手ですし、なんであなたにいちいち報告しないといけないんですか」

「ほんっっっと! お前はもうちょっと愛想とかねぇのか!」

「前から思ってたんですが、刑事さんは愛想振りまいて欲しいんですか? 控えめにいっても気持ち悪いんですけど。刑事さんこそ警察と思えないくらい態度悪いんですから、改めたらどうですか?」

「ああ言えばこう言いやがって!」

「あああああああもう! なんで顔を合わせれば喧嘩するんですか!?」


 蕗二と芳乃の間に割り込んで、竹輔は二人を引き剥がす。それでも睨み合っていたが、蕗二が大げさな溜息を吐き、頭を掻きむしる。


「わかったわかった、居ていいから。邪魔にならないとこに居てくれ」


 猫を追い払うように手を振る蕗二をさらに不機嫌そうな顔で睨み、「シグマ」と短く声を発した。

すると白い犬は大きな耳をぴんと立たせ、芳乃を見上げる。芳乃はシグマと呼んだ白い犬と目を合わせると、背負っていた小型のリュックから丸めた布を取り出し、部屋の端に足を向ける。そして、おもむろに布を床に広げた。シグマは、わかっていると言わんばかりにすぐに布の上に寝そべった。「Good boy!」と軽く二回頭をなで、次に「Stay」と顔の前に手のひらを突き出した。シグマは首を上げたまま、静かに伏せた体勢を維持し続けた。芳乃が背を向けても、動く気配はない。


「すげぇな。中に人間でも入ってんのか?」

「シグマが賢いんです、あなたより賢いですよ」

「一言余計なんだよお前は!」

「んんッ」


 竹輔がわざとらしく喉を鳴らした。蕗二はしぶしぶ席に着き、芳乃もそっぽを向いたまま席に着いた。


「それでは、今回皆さんをお呼びしたのは」

「犯行予告が届いたらしいね? しかも、大勢を犠牲にするらしい」


 竹輔の言葉を遮り、眼鏡の奥で目を細めて愉快そうに片岡が笑う。すると、落ち着きを取り戻した野村が、今度は大げさに驚いてみせる。


「えつ、マジー!? それ、やばくなーい? それって誰でもいいって奴??」

「まあ、どこの誰かと指定はされてないからね?」

「なにそれぇ! 許せなーい!」

「ただの構ってほしい暇人なんじゃないですか?」


 頬を膨らませて怒る野村に、芳乃が溜息混じりに呟く。


「今、警視庁ではサイバー犯罪対策班が捜査に当たっているが、恐らくたどり着けないと、菊田さんから応援要請が来てる」


 蕗二が補足を加えれば、片岡は口の端を吊り上げたまま頷く。


「うん、その勘は正しいだろうね。じゃなきゃ、私たちはここへは呼ばれない」


 机を指先で叩く。机に肘を突いて考えるように天井を見ていた野村が、大きく身を乗り出した。


「ねぇねぇ、そんなに難しいの? ネットの犯人捜すのって。藤っちなら簡単にできちゃうんじゃないのー?」


 野村は片岡の左人差し指に嵌まる黒い指輪を指差す。


「心外だ」といつもなら即答する片岡が、眼鏡を鼻上に押し上げ、なぜか思案するように腕を組んだ。


「もし、予告犯が『ただの構ってちゃん』なら、すぐにサイバー犯罪対策班とやらが見つけ出すだろう。だが、それなりのハッキングやウイルスの知識さえあれば、他のサーバーを踏み台に、またはパソコンを乗っ取って遠隔操作すれば、犯人を特定することが格段に難しくなる」


 言葉を止めた片岡は、腕を組んだまま首を一周ぐるりと回す。伸ばされた首の骨が小さく音を立てた。そして、溜息のような鼻息を吐く。


「実は今、ハッカー(我々)の界隈では、予告犯を特定しようとする側と、それを阻止する側と分かれてサイバー戦争をしている」


 片岡以外の全員が驚きの声を上げる。


「どういうことだよ」


 噛み付くように蕗二が低い声を出すと、片岡は両手を上げる。


「怒らないでくれ。簡単に言えば、この予告犯が本当に人を殺すのか、エンタメとして非日常を愛し、楽しむ者が一定数いて、しかも団結している。実際、予告犯を追った優秀なハッカー(友人)が、システムや機械を破壊され、居場所を特定されかかった。私でもむやみに突っ込めば、機械一つを犠牲にする程度では済まない状況なんだ。もはや、犯人を特定するどころの話じゃない、わかってくれ」


 片岡は眉をひそめ、人差し指にまる黒い指輪型端末をかばうように握る。蕗二は思わず舌打ちをする。片岡の言うことに一理あった。ネットだけの話じゃない。実際、現場に行けば、なぜかいつも野次馬が現れ、連日マスメディアが騒ぐ。そう、一定数の人間はその状況を楽しんでいる。被害者の気持ちを知らずに、好き勝手にあれこれ推測して、まるで知ったように持論さえ展開してみせる。

不快感が腹底を煮え立たせ、怒りへと変わる。それは蒸気のように頭に上り、脳みそを沸騰させようとする。熱は仕舞いこんでいた過去の憎悪を呼び起こす。

 父の怒声、咽返むせかえるほど濃い血の臭い、耳につく甲高い笑い声、網膜を焼く青い光り……

 蕗二は熱を追い払うように、無理やり息を吐き出した。


「犯人の、目星はもうついてる。これから、【俺たち】で非合法的に接触して、犯人かどうかを確かめる」


 蕗二の言葉に片岡が口の端を持ち上げ、野村は手を叩いた。


「いいねぇ。極秘部署らしいじゃないか」

「うーん! 超わくわくしちゃーう!」


 はしゃぐ片岡と野村を呆れたように見つめる芳乃に、机を指先で叩いて注意を引く。


「芳乃、視てくれるか」

「やらなきゃ返してくれないじゃないですか」


 再びそっぽを向き、勝手にしろと言わんばかりにため息をついた。蕗二はこめかみが引きるのを感じたが、音もなく舌打つことで収め、白い長机を三回ノックする。液晶モードとして切り替わった机の上、蕗二の手元に広がった畦見あぜみの情報を片岡の前にスライドする。


「片岡はこの男の正確な現在地を調べてくれ。場所によって、作戦を考える」


 片岡がすぐ左手の黒い指輪を叩いた。指輪型端末が空中に画面を展開するのを見届ける。ふと、隣で竹輔が不安そうに眉間に皺を寄せているのに気が付いた。


「どうした?」

「いえ、なんとなく嫌な予感がして……」


 肩を縮こませる竹輔に蕗二は瞬いた。

 竹輔が慎重なのは珍しいことではない。蕗二は竹輔の肩を軽く拳で小突いた。


「心配すんな、いつも通りだよ」


 この【部署】に異動してから解決してきた事件は、全てイレギュラーな事態の連続だった。それでも、解決してきた。今回だってそうだ。大丈夫だ。

 そう笑う蕗二に、竹輔は困ったように笑い返した。







 人気の少ない公園。真夏の、それも平日の昼間と言うこともあり、噴水もない小さな公園は、餌を求めて首を揺らしながら歩く鳩か、健康の為に早歩きで歩いている老人が目に入る程度だ。

 唯一木陰になっている、三人ほどが腰を下せる木製のベンチの端に、初老の男が一人座っている。

 首筋に玉の汗を滲ませているが、拭いもせず虚ろな目で足元を見つめている。視線の先で、黒いありが何かに群がっている。蟻の隙間から見えたのは、腹を見せている蝉だ。顎で足の関節を噛み砕かれ、羽を千切られ、徐々にバラバラになっていく。男は表情を一つも動かさないまま、蝉が解体されていく様子を見つめていた。

 ふいに、何かが男の足をつつく。

 肩を跳ねさせた男が反射的に足を引っ込める。確認すれば、白く大きな犬がこちらを見上げていた。


「すみません」


 顔を上げると、黒い髪の少年が立っていた。少年は頭を下げ、男の反対側に腰掛ける。犬に繋がる縄のように太いリードを軽く引くと、犬は大人しく少年のそばに寄り、その足元に座り込んだ。

 少年が背負っていた小型のリュックからペットボトルとシリコン製の折りたたみ皿を取り出し、なみなみと水を注ぐと犬に差し出す。口を開けて舌を垂らしていた犬は、嬉しそうに喉を鳴らして水を飲む。その様子を見ていた少年が、不意に男に視線を向けた。男の警戒する視線が自然と少年を刺してしまったらしい。


「いぬ、嫌いなんですか?」


 少年が汗のしたたる前髪の間から、こちらを見ている。強くなる日差しとともに、濃くなる影に沈むように、少年の目は黒く黒く、ぽっかりと開いたうろのように男を見ている。それに不安感を感じ、体を震わせる。剥き出しの腕を擦るとざらりとする。見れば、鳥肌が立っていた。


「すみません、そっちに行かないようにするんで」


 少年は左手を上げ、しっかりとリードを握っていることを男に見せる。男が縄に視線を向けたのを確認して、少年は男に興味をなくしたように、ペットボトルに入った水をあおった。

 男は口を閉ざしたまま、居心地を正す。ベンチから立ち去るには、なぜか敗北に似た嫌悪感があったのだ。大型犬を連れている割に、線の細い少年だからかもしれない。喉が上下するたびに、陽に焼け赤らんだ肌を汗が滑り落ちていく。

 しばらく少年の様子を観察していたが、水を飲み干した犬が顔を上げたと同時に目を逸らした。琥珀色の眼が男を見て、舌なめずりをする様子がこちらの喉を狙っているように見えたからだ。それはただの被害妄想で、舌なめずりをしたのは、口の周りを濡らす水を舐め取っているからで、睨んでいるように見えるのは犬の容姿が狼に似ているせいだ。

 男は右足を小刻みに揺らしながら、少年が立ち去ることを強く願った。

 頭上で、木々が大きく揺れる。夏の暑さを纏った風が、男と少年の間をすり抜けていく。湿気を多く含んだ熱気は息苦しさを感じる。葉のざわめきに混じり、大きな呼吸音がした。


「じゃあ、ねこは嫌いですか?」


 鼓膜を叩いた声に、男はいつの間にか閉じていた瞼を持ち上げる。

 少年と眼が合った。そこで気が付く。少年はさっきまで、わずかに目をらしていたのだ。それが今、ピントを合わせたようにはっきりと視線を合わせている。

「嫌いではないですか? だったら、動物の死体をゴミみたいに捨てるのはどうかと思いますけど?」

 少年の黒い目は、まるで氷を張ったように、恐ろしく冷えた眼に変わっていた。

 背筋に冷たい汗が伝い落ちる。否定の言葉を舌に乗せようとした瞬間、氷の眼がさらに温度を下げた。


「捨てましたよね、多摩川の河川敷に。あと、公園の茂みの後ろ……最初は、ゴミ箱に捨てましたか?」


 思わずバネ仕掛けのように飛び上がり、少年から距離を取った。だが、それ以上動くことはできなかった。氷の眼が足元を凍らせたのだ。


「もう、逃げられないですよ」

 肩に手を置かれる。いつの間にか背後に、スーツを着た背の高い男が立っていた。震えるこちらを覗き込むように隣に立つと、スーツの内ポケットから手帳を引き出し、ちらりと開いた。中には金色の桜・旭日章きょくじつしょうと警官服を着た男の顔写真が入っていた。


「警察だ。貴方には猫の死体を捨てた疑いがある。お話聞かせていただいても?」


 少年が立ち上がる気配に、体を跳ねさせる。正面に立っている。見たくない、逃げろ逃げろ。心が大声で悲鳴を上げているのに、吸い寄せられるように視線は少年を捕らえた。指先が痺れるほど、冷たい眼がこちらを覗きこむ。


「あれ?」


少年らしい驚いた声が上がり、細められていた目が限界まで見開かれた。


「あなたじゃ、ないんですか?」









「あなたじゃ、ないんですか?」


 動揺が隠せないでいる芳乃ほうのに、蕗二も目を見開いた。

 芳乃が発した言葉の意味を、理解できない。答えを求めて、蕗二は男・畦見あぜみうつむいた後頭部を見つめる。


「……こです」


 食いしばった歯の隙間から漏れ出た声。まるで秘密を暴露するように、ひそめられた声だった。


「猫を殺したのは、息子です」


 顔中から冷や汗を流しながら、畦見は拳を握り締めている。


「息子とは、直接、会っていません。ただ、捨てろと、指示されて……」


 畦見があえぐように途切れ途切れにつむぎ出す言葉に、蕗二は苛立ちをあおられる。


「言い訳はいいんだよ」

「本当です! 信じてください!」


 慌てて顔を上げた畦見は、蕗二にすがりついた。畦見の耳元で青い光が強く光を反射し、蕗二の目を焼く。ジャケットを掴む手を振り払い、畦見の胸倉を掴み返す。


「なら! あの時、あんたの同僚を殴って殺したのは、あんたじゃなく息子だって言うのか、あ!? 」


 首を絞めるように、手に力を込めると悲鳴が上がる。それが気に入らなかった。畦見の体を揺すり、声を叩きつける。


「自分のやったとこを息子に押し付けて、自分はのうのうと逃げるのか!」


 目の前が赤くなっていく。鉄錆の臭いが鼻を掠めた。サイレンの音、上がる悲鳴、青い光。


「全部あなたが仕組んだんだろ! 答えろ!!」

「蕗二さん!」


 手首と肩を強く掴まれる。視線だけを向ければ、険しい顔の竹輔がこちらを見ていた。食い込む指に促され、赤い視界が色を取り戻していく。いつの間にか振り上げていた拳を開く。くっきりと爪の痕が残る掌。ゆっくりと腕を下ろせば、畦見の胸倉を掴みあげていた手からも力が抜けた。支えを失った体は崩れ、ぺたりと地面に尻餅をついた。竹輔は蕗二の瞳が理性的な光が戻るのを見届け、ゆっくりと手首を離し、蕗二の肩を二度労わるように叩いた。そして、足元で苦しげにむせ返る畦見の前に膝を突く。


「畦見さん。本当のことを、お話ください。一体、何があったんですか?」


 竹輔が畦見の背中を撫で下ろす。呼吸を促され、次第に落ち着きを取り戻したのか、畦見は竹輔に視線を合わせると、恐る恐る口を開いた。


「猫の、死体を捨てたのは、ほ、本当です。でも、お、おれは殺してない。息子の言うことを聞かないと、今度はおれが殺される。だから、仕方なく……」

「なぜ、息子さんに殺されるんですか? そんなの、ただの脅しかもしれませんよ?」


 気遣う声に、畦見は必死に首を横に振った。


「あ、あの時……三年前、家に強盗が、入ったのは、おれのせいです。おれが、うっかり、同僚に話してしまって……あいつが金に困ってるの、知ってたんですが……」

「浮かれてしまったんですね?」


 竹輔の柔らかい声に、畦見の頭が縦に大きく揺れる。


「ど、同僚が家に、しかも、窓を割って入ってきたんです。しかも、ナイフを突きつけて……か、『金を出せば、命だけは助けてやる』って。でも、お金は銀行に預けてて、い、家にあるわけないじゃないですか。そう言ったら、あいつ、ナイフを振り上げて……まさかそんな事をする奴だなんて、お、思いもしなかった」


 自分を守るように、畦見は腕を体に巻きつけた。


「……殺されると、思ったら、突然あいつが倒れたんだ。む、息子が、息子があいつを後ろから殴ったんだ……! 助けてくれた! でも、あの時から、息子は変わってしまった! 『助けてやった恩を仇で返すのか、言うことを聞かないと殺す』と、め、目の前で猫をこ、殺して……! ど、どうか、息子を、息子を止めてください! あいつは、もう、化け物です……!」


 畦見は頭を抱え込んで、嗚咽を漏らした。立ち上がった竹輔は、戸惑った視線を蕗二に向けた。蕗二も額を押さえ、唸り声を上げるしかなかった。

 まず、三年前の、渡部の関わった正当防衛の事件。これは偶然起きたものだ。金に困っていた同僚に、宝くじが当たった畦見がうっかり金の話をする。金に目が眩んだ同僚は、殺してでも金を奪う気で強盗として畦見の家に訪れる。そして、父を守る為に、息子は強盗を後ろから殴った。そして、打ち所が悪くて死んだ。事件は畦見親子の都合よく幕を閉じる。しかし、息子の本心は違った。父を守ろうとして殴ったのではなく、強盗の背後に立った時点で殺意を抱いていた。そして殺人鬼として目覚め、命を救われた借りがある父を脅し、準備を整え、今度は大量殺人を計画する。

 そう、畔見の話は『整いすぎ』ている。まるで映画でも見ている気分だ。だがこの状況で、畦見は嘘をつくことができるだろうか? いや、それについて考えるのは後にしよう。今重要なのは、犯行予告をした犯人を見つけ、逮捕することだ。蕗二は左手を持ち上げ、腕時計を確認する。細かい傷だらけのアナログ時計は、14時22分を指していた。


「あんたが、猫を殺していないとしても、息子さんについて聞きたいことができた。ここで雑談するには暑すぎる。クーラーの利いた部屋で、冷たいお茶でも飲みながらお話しましょう」


 畦見を助け起こすべく、手を伸ばす。胸倉を掴まれた時の恐怖がまだあるのだろう、畦見は躊躇ためらっていたが、竹輔に促され、蕗二の手を掴んだ。


「ああ、そうか」


 その手が、突然叩き落とされる。蕗二と畦見の間に、なぜか芳乃が立っていた。


「だから≪ブルーマーク≫が付いてるんだ」


 突如、冷たい声に殴られる。真冬の朝のような冷たい空気が細い針となり、肌に突き刺さっていく感覚に息を詰まらせた。


「あなたは嘘をついている」


 感情が抜け落ちたような芳乃が、畦見を見下ろしている。だが、眼だけが別物だった。瞬かない氷の眼は、畦見の体から徐々に体温を奪っていく。


「ひとつ。同僚にうっかり漏らしたお金の話。あれはわざとですよね。本当は、お金に苦しむ同僚が、さらに悔しがる姿を見たかった。誤算といえば、強盗に入ってきたことでしょう? そんな根性あるように見えなかったですもんね」


 氷の眼に鋭い光が差す。竹輔が堪えられず、よろめくように畦見から離れた。一人、氷の眼に晒された畦見は凍えたように奥歯を鳴らす。


「ふたつ。息子さんは、確かにあなたを助けた。でも、あなたは頭を殴られた同僚が死ぬ可能性が高いことを見越し、手当てもせず、警察に突き出した。そして、息子と口裏を合わせて警察に嘘までついた」


 ふと、首を傾けた芳乃は感心するように、瞬きをひとつする。


「あなたは嘘をつくのも、芝居をするのも上手いですね。さっきも、この二人の刑事さんに嘘をつきましたが、嘘を見破りにくいように誘導しました。ぼくがいなければ、完璧だったでしょう」


 畦見が喘ぐように口を動かしたが、喉から隙間風に似た呼吸音が出るだけだ。それでも芳乃には畦見の言葉が視えている。


「嘘だと思うなら、今あなたが何を思っているか、当ててみましょうか?」


 芳乃が畦見に覆いかぶさるように、体を屈めた。


「あなたは今、ぼくを殴りたいでしょ?」


 瞬間、畦見の眼が痙攣けいれんする。目を逸らそうと足掻くように。だが、容赦なく氷の眼が覗き込む。


「そうですよね。今すぐ、怒りに任せて殴りたい。たとえぼくが泣いても許してと言っても、顔が腫れ上がるまで殴りたくて堪らない。うまく警察を騙せた芝居が、ぼくのせいで全部ばれたんですから? でも、それを理性で押さえつけています。すごいですね? 警察がいなくても、ぼくが殴って良いと言っても、あなたはぼくを絶対殴らないでしょう。でもひとつだけ、その理性を飛ばせるものが、あなたなら簡単に、しかも合法で手に入る」


 畦見が堪えられないと目尻から涙を溢れさせるが、嘲笑あざわらうように芳乃の声は止まらない。


「お酒。そう、あなたは仕事場で溜めたストレスを、お酒で開放して、家族に向かって発散していたんです。暴力に耐え切れず、奥さんは出て行った。残された息子さんをあなたはさらに、暴力で支配したんです。あの時、強盗に入ってきた同僚をとっさに殴りつけたのは、あなたを守る為です。でも、息子さんはそのとき、初めて気が付いた。自分は人を殺せることに。そして、同時にあなたを殺せることにも気が付いた」


 吹き込むように、わからせるように、淡々と。足先から凍りつき、ゆっくりと絶命する様子を見届けるように、氷の眼は畦見を覗き続ける。


「ここまで言えばもう、ぼくが言いたいことのみっつめは、わかりますよね?」


 芳乃の手が持ち上がる。狙いを定めるように、人差し指が立てられる。


「息子さんが化け物になったのは、あなたのせいですよ? 殴り、蹴り、暴力で言うことを聞かせてきた。あなたが、その手で教えたんですから。あの時に変わったんじゃない。すでに、化け物の卵が生まれていた。そして、それを羽化させたのは間違いなく、あなたです」


 芳乃の指先が畦見の胸の真ん中、心臓の上で止まった。


「あなたも化け物です。あなただけ『まとも』な振りをするな」


 芳乃の指が離れると、畦見の体から力が抜けた。凍死したように動かない。それを見下ろしていた芳乃が、肺から追い出すように、白い息を吐いた。氷の眼がゆっくりと閉じられる。

 途端。わん、と蝉の声がぶつかってきた。汗が雑巾を絞ったように噴き出し、まるで水を被ったように次々と流れ落ちる。北極から南国へ一瞬でワープしたような感覚だ。眉を通り抜け、瞼の上をすべり、睫に溜まる汗を袖で拭う。同じく汗をハンカチで拭った竹輔は、額をハンカチで押さえつつ、畦見の肩に手を置いた。


「動物愛護法違反、並び親族への暴行容疑で、緊急逮捕いたします」


 竹輔が畦見の腕を引き、立ち上がらせる。畦見はなんなく立ち上がったが、白い顔をしていた。放心しているようで、ふらつく畦見の体を竹輔は支える。もう、手錠を掛けなくても逃走する可能性はない。蕗二が反対側から畦見を支えようと手を伸ばすと、竹輔が首を振った。


「蕗二さんは、芳乃くんを」


 そう言われ、芳乃を探す。姿がない。まるで雪のように解けて消えた。

 ぞっとした瞬間、白いものが動いた。シグマだ。大きく長い尻尾を揺らしながら近づいたのは、蕗二のすぐ脇にあったベンチに座って膝に頭を押し付けるように、上半身を折っていた芳乃だ。シグマは芳乃の黒い髪に鼻先を埋めて、心配そうに鼻を鳴らす。


「おい、大丈夫か?」


 覗き込めば、両手を眼に押し付けていた。背を擦れば、汗で冷えているのかひやりとする。

 何か買ってくるべきだろうか。蕗二が頭の中の地図を広げていると、擦っていた背が大きく動く。手をどければ、芳乃が上半身を起こした。虚ろな目が瞬きを取り戻していたが、突然我に返ったように顔を歪めた。


「暑い……」


 シャツの裾で顔の汗を拭う。太陽は頂点を過ぎたところだ。いくら木陰と言っても限界はある。蕗二もさっきから拭ってもきりがないほどしたたる汗に舌打ち、堪らずジャケットとネクタイははずす。第一ボタンをはずし、襟口を指で引っ張って風を起こしてみるが、効果があるかは微妙なところだ。


「落ち着いたら行くぞ、いつまでもこんな所にいたら干からびちまう」

「刑事さんこそ、落ち着きましたか?」


 不意に投げつけられた声に眉を寄せる。


「は? なんだよ」

「いつもより強引じゃないですか? ぼくが知る限り、犯人より先にあなたが拳を振り上げたことはありませんでした」


 汗を拭い終え、シャツの裾を整えた芳乃が、こちらを見上げた。


「何を、焦っているんですか?」

 黒い眼の奥へ吸い寄せられる。夜より暗い奥底から手を伸ばされる。芳乃の耳元で、青い光が強く光った。青い光が網膜を焼く痛みが、頭に突き刺さった。

 轟音、悲鳴、突き飛ばされる体、傷だらけの自分の手、振り上げられた真っ赤なナイフ、父の怒声、咽返むせかえるほど血の臭い、温かい父の体が冷えていく。指の間から溢れる温かい赤が目の前を染め上げて頭の中を埋め尽くすほどの大音量のその向こうで男がこちらを笑う笑う笑う――


「視るなッ!」


 喉を突き破る叫び。芳乃を突き飛ばし、ベンチに倒れた頭を掴むように目を塞いだ。

 手を離すべきだ、わかっているのに手を引き剥がそうと爪が立てられても、手を離すことができなかった。

 頭の奥にこびり付いたあの日の、怒りと憎悪と後悔が入り混じった恐ろしくみにくい俺が、怒り狂っている。

 ≪ブルーマーク≫さえいなければ、父さんは死ななかった。

 全部奪われた。絶対に許さない。

 殺してやる。

 殺してやる!


「ちょっ! 何やってんの三輪っち!」


 野村の大声にびくりと体が跳ね、手が緩む。芳乃の手が強く振られ、乾いた音とともに手が払われる。

 わずかな痛み。咎めるような大音量の蝉の声に戸惑った。

 自分が何をしたのか、思い出せない。ただ、さっきまで頭の中を掻き回していた怒りが、潮が引いたように消え失せていた。


「すまん……」


 いつの間にかベンチに押さえつけていた体を開放し、助け起こそうと手を伸ばす。

 だが、蕗二の手を避け、芳乃は一人で体を起こした。


「いえ……ぼくも、不躾ぶしつけな事をしました」


 うつむいたまま、かすれた声で芳乃が言う。

 一線を引かれたような気がした。それにますます焦りのような、どうしようもない罪悪感が強く残る。

 どうしたらいいか分からない。すると、大きな溜息が聞こえた。


「やれやれ全く。通りがかりの人が見たら通報沙汰になってしまうよ? 夫婦喧嘩は犬も食わないとは、まさにこの事だ」


 片岡が呆れたように蕗二と芳乃を見下ろし、右手に握っていたリードを芳乃に渡す。どうやら異変を察知したシグマが片岡と野村を呼びに行ったようだ。犬にまで心配されるほどだったらしい。


「いや、夫婦じゃねぇから」


 居た堪れず、かろうじて子供のように反論すれば、不服とばかりに芳乃も声を上げる。


「夫婦以前に、百歩譲ったって刑事さんは対象外ですし、どうしても付き合わなきゃいけないんだったら、シグマを選びます」


 突然指を差されたシグマが首を傾げた。


「おいこら、なんで犬と比べるんだよ。比較にならねぇだろうが」

「馬鹿ですか、犬以下ってことですよ」

「うるせぇ、このどチビ……おい蹴るなって、痛ッテ!! こらバカ犬! ケツを噛むな!」

「もーう、喧嘩は涼しいところでしてよぉ! お化粧取れちゃうじゃーん!」


 野村が蕗二のジャケットを蕗二の顔面に向かって投げつける。至近距離、しかも芳乃の足とシグマに気を取られていた蕗二の顔面に見事直撃する。汗で張り付くジャケットを顔から剥ぎ取れば、野村が芳乃とシグマを連れて、公園から出ようとする背中が見えた。


「悪いな、その……気を遣わせて」


 そばで眼鏡を外し、顔の汗をハンカチで拭っていた片岡が肩を上下させた。


「何、これくらい気にすることではない。それに芳乃少年も、この程度で引きるタイプではないよ。君のほうが、体格の割りに繊細せんさいだ」


 眼鏡をかけ直し、片岡はジャケットと一緒に投げられ地面に落ちたネクタイを拾い上げる。ネクタイを叩き、土埃を払った。


「いや、だったらもうちょっと丁寧に扱えよ。お前ら、俺の扱い雑すぎるだろ」

「まあ、雑に扱っても平気そうだからね?」


 楽しげな笑みを隠さず蕗二へと返す。ネクタイは器用にも蝶々結びになっていた。

 声をあげて笑いながら走り去る片岡を、蕗二は猛然と追いかけた。










 畦見を近くの警察署に預け、畦見の息子・畦見あぜみ聖人(きよと)の提出している住所に向かった。畦見聖人は、前回の≪マーク判定≫で判定を下され、≪ブルーマーク≫が付いたところだった。おかげで竹輔が調べた≪リーダーシステム≫の記録と、片岡の調べた防犯カメラの映像から、住所に偽りがないこと、現在在宅中ということもわかった。

 二階建てアパートの一階、道路側から見ると一番奥の角部屋。万が一の逃走を防ぐ為、竹輔と片岡が裏手に回り、蕗二がインターフォンのボタンを押し込んだ。電子音が二回鳴る。だが返事はない。


「畦見さん、すみません、開けてもらえませんか」


 ドアを強めにノックする。それでも返事はない。蕗二は液晶端末を操作し、竹輔と音声電話を繋ぐ。


「竹、裏手に動きは?」

『いえ、全くありません。電気もつきません』

「ダメか……竹、片岡を見張りに立てて、大家さんに鍵もらってきてくれ」

『了解』


 通話を切る。ウォン。突如とつじょシグマが低く吠えた。三角の耳を真っ直ぐ立てて、鼻に皺を寄せて、歯を剥き、喉奥で唸りを上げる様子は狼そのものだ。


「こらシグマ、しー!」


 芳乃が口の前に人差し指を立てる。シグマは芳乃の言葉に驚いたように身体を跳ねさせる。しかし、抗議するように耳を後ろに寝かせ、ピーピーと鼻を鳴らして芳乃とドアを何度も見る。

 それに野村が片眉を上げた。何かを考えるように人差し指を顎に当て、ふとドアに近づいた。真剣な目つきで、ドアの繋ぎ目に鼻を押し当てるように嗅ぐ。


「ねぇねぇ、三輪っち。もうドア開けちゃおーよ。三輪っちならドア壊せるでしょー?」

「はあ? あのな、警察がドアぶっ壊すってのはな、よっぽどの緊急時以外……」

「だってね、死体の匂いがする」


 野村の低い声に、首の後ろの産毛が逆立った。


「えっ、し、死体ですか?」


 震える声に肩を跳ねさせ、顔を向ける。わずかに顔を引きつらせた竹輔と頬肉が垂れた老齢の女性が白い顔でこちらを見ていた。野村が「やっば!」と口を隠す。蝉の鳴く声だけが聞える中、蕗二は顎を伝った汗を手の甲で拭い、そのままドアを指差した。


「鍵を、開けて頂けますか?」


 竹輔が誘導し、震える手で女性が鍵を差し込む。

 だが、鍵は一ミリも鍵穴に差し込まれなかった。いや、そもそも差し込めないのだ。


「これ、うちが管理してる鍵じゃないです」


 女性に代わり、竹輔がドアの鍵を観察し始める。


「蕗二さん、ダメです! 鍵穴に詰め物がされてます、鍵屋は呼べません」


 蕗二はすぐに蝶番ちょうつがいを確認する。蝶番はない。ドアはうち開きだ。


「大家さん、ドア壊しますね」


 目の端で大家が血の気のない顔で何度も頷くのを捕らえた蕗二は、渾身の力を込めてドアを蹴った。

 ゴォンッ。アパート全体に響く大きな音を立ててドアがへこむ。大家が悲鳴をあげるがすぐにもう一度、ドアノブの上、鍵穴のすぐ隣に蹴りを入れる。ドアが揺れ、壁との隙間がわずかに開く。三度目、体重をかけ、勢いをつけてドアを蹴りつけた。ドアが大きくへこみ、派手な音を立てて蕗二を内側に引きずり込んだ。

 安心したのも束の間、すぐに手で鼻と口を覆う。後ろでその場に居た全員が鼻を塞ぎ、シグマが狂ったように大きな声で吠えたてる。

 部屋は穴のように暗い。そして奥から獣の臭いと公衆トイレのようなアンモニア臭に混じった熱気が体を撫でて、外へと流れていく。竹輔に応援を呼ぶように指示し、部屋の奥に目を凝らす。人の気配はない。だが、部屋の奥でかすかに、何かが動いている。見たくない。そう思う自分を押さえ込み、液晶端末のライトで足元を照らす。部屋の電気をつける余裕はなかった。行く手を阻むようなゴミや物はない。だがライトの白い光りが点々とフローリングに落ちた赤黒い染みを照らす。擦り足で近づいていくと、錆びた鉄の重い臭いが鼻の奥を突く。

眼が暗闇に慣れるにつれ、揺れているものの輪郭がぼんやりと見える。縦に長い、何かが宙に浮いている。

背筋をムカデが這い上がるような嫌悪感を、頭を振って覚悟を決めてゆっくりとライトを持ち上げた。


「おい、ふざけんなよ……」


 ライトの先で揺れていたのは、天井から首を吊られた、血だらけの犬たちだった。










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