File:7 コキュートス
脚が限界を訴えるよりも速く、上へ上へ。
跳ぶように駆け上がる。
階段が途切れるその先、立ち構える黒い鉄のドアを蹴り破った。
「やめろ!」
蕗二の咆哮が空気を振るわせた。
太陽は頂点を過ぎた。それでも強い光は、佇む二つの影をより濃く炙り出している。片方はこちらを見て驚き、もう片方はこちらに背を向けたままだ。
「あんたら、ここで何やってる?」
蕗二の問いに、背を向けていた影が振り返る。ほんの数十分前に会ったばかりの、黒髪の少女だった。
「刑事さん?」
少女は驚きの表情を浮かべる。青い光が、蕗二を牽制するように強く光った。
蕗二は湧き上がる怒りを抑えるように、もう一つの影、蕗二が話しかける直前まで少女が向かい合っていた人物に目を向ける。事件の被害者、綾香ちゃんの母親である西川一華だ。
彼女も少女と同様、蕗二の登場に驚きを隠せないらしい。少女と蕗二に視線を交互に向ける。
背後から慌しく階段を駆け上がる足音。
息を切らした片岡と青褪めた西川桃輝が、蕗二の後ろに立っていた。
役者は揃った。
そう言わんばかりに、深く息を吸い込む音がした。
蕗二の後ろ、マスクをむしり取った芳乃が天を仰いでいる。深い水底から浮き上がったように顎を上げ、空気を肺一杯に満たしていく。前髪の下、ゆっくりと瞼が押し上げられる。黒い瞳が、凍る寸前の静かな水面のように冷たい光を宿していた。
「答えてください、百日紅さん。あなたは今、何をしようとしていますか」
真っ直ぐ氷の眼が見据えている。百日は顔を強張らせた。
「何も。ただ、ちょっとお話したかっただけ」
「問い詰めるの、間違いじゃないですか?」
冷ややかな芳乃の声に、百日の口の端が動いた。
緊張感で強張った頬が持ち上がり、やわらかく恐ろしいほど愛想の良い笑みを浮かべた。
「まさか、本当に雑談だよ」
「いえ、あなたには聞かなきゃいけない事があるはずです」
冷たい眼が瞬きとともに動き、西川一華を捉えた。
「綾香ちゃんの死体を廃屋に捨てたのは、あなたですね?」
芳乃の言葉に、一華は血の気を引かせた。
「何言ってるんですか? 私が娘を殺すとでも」
「黙って聞いてください」
反論するために開かれた口を、芳乃が遮る。それ以上言葉を発するなら、その舌先から凍りつかせると宣言するように。
真夏の炎天下が一瞬にして極寒の地へと変えるほどの威圧的な気配に、その場の全員が強く唇を閉ざした。
「あなたは『あるきっかけ』で眼を覚まし、窓の外、綾香ちゃんの死体を見つけたはずです。普通なら、子供を助けるために救急車でも何でも呼ぶでしょう。ですが、あなたは何をしましたか?」
鋭い氷の刃に似た視線に、一華は暑さとは別の冷や汗を額に浮かべた。
「そうですね。綾香ちゃんをゴミ袋につめて、駐車場に飛び散った血を水で洗い流した。あなたはネットの天気予報で、明け方に雨が降るのを知って、駐車場の一部に不自然に撒かれた水が紛れると考えたんですね? ネットの実況降水確率はリアルタイムで正確ですから、外れませんし。しかも、血液反応を消すために、わざわざオキシドールまで撒いたんですか? なるほど、だから証拠がこれっぽっちも出ないわけです」
一華がわずかに唇を動かした。芳乃はその言葉を拾い上げる。
「その問いに、答えましょう。なんで母親のあなたが、綾香ちゃんを助けなかったか」
芳乃は蕗二の隣に並ぶ。芳乃の視線を受け、蕗二は握り締めていた端末の画面を一華へと向ける。
「綾香ちゃんの検死結果です。死体はぐずぐずに腐ってたせいで、わかることは限られていたそうですが、決定的な証拠がありました。それが左腕の骨折です」
液晶端末の一部に親指と人差し指を当て、指で広げる。すると画像が拡大された。画像には、医者のカルテが映されている。
「一ヶ月ほど前、綾香ちゃんは左二の腕を骨折し、病院に行っていました。あなたは転んでぶつけたと医者に言ったそうですが、骨折箇所は二の腕の付け根です。ここは腕を掴んで、体を強く揺さぶった時にも折れるそうです。受診の時、体の虐待痕はうまく隠したようですが、もし救急車を呼んで綾香ちゃんの全身が調べられたら、虐待がばれてしまう。そうなれば、あなたが真っ先に疑われます。だから、あなたは綾香ちゃんの死体をあそこで腐らせることにしたんじゃないんですか? そして、綾香ちゃんが見つかる頃には体は腐り、虐待の証拠はなくなる。あなたは、子供を殺された悲劇の母親として、疑いが薄れる。違いますか?」
体の芯まで冷やすような、冷たい視線と言葉に晒され、一華は小刻みに体を震わせ、凍えていた。
いや、違う。
蕗二の直感がそう告げた直後、一華が笑った。歯を剥き、片頬を持ち上げてみせたその顔は、もはや母親としての面影もなく、醜く歪んでいた。
「まさか、そんな正確に全部当てられるなんて、気持ち悪いガキ。まるで化け物ね」
家畜を鞭で打つような下品で無慈悲な視線が、芳乃を見下した。
「じゃあ、もうひとつ答えてちょうだい、名探偵さん? 綾香を落とした犯人は私じゃないのは、分かるわよね? それは誰よ。もうわかってるんでしょ?」
芳乃は答えない。突然の沈黙に、蕗二は芳乃へと視線を向け、とっさに歯を食いしばる。じゃないと、体が震え出しそうだった。氷の眼の奥、絶対零度の氷下の闇に、『何か』いるのだ。得体の知れないものが、息を潜めている。
「綾香ちゃんを殺したのは」
芳乃の瞬かない眼が、じれるほどの緩慢さで動いた。
「百日さん、あなたですよね」
一華が満足そうに口の端を吊り上げ、百日を睨みつける。
だが、百日は動じなかった。それどころか、ずっと、『同じ笑み』を浮かべ続けている。
「ちょっと無理じゃないかな? もしあたしがマンションに侵入したとしても、防犯カメラに映っちゃうでしょ?」
幼い子に話しかけるように、柔らかな声音。表情と合わせれば、無害な少女にしか見えない。しかし、芳乃の眼は冷たく、百日の笑みの下を『視て』いた。
「そうですね。だからこそ騙されました。ぼくたちは犯行当日、不審者が侵入した形跡がなかったので、犯人はマンションの住人だとばかり思っていました。ですが、あなたは……一年前くらいですか? ちょうど綾香ちゃんと出会った頃から、西川さんの家に遊びに行ったり、ここの住民である友達の菜々美さんの家に泊まりに、何度もこのマンションに訪れていた。だから、マンションへの出入りがあり、マンションの住民ではないあなたに、片岡さんも気付けなかった。何度もマンションを訪れていたあなたなら、どこに防犯カメラがあるかも、屋上が洗濯物を干す住人のために鍵がかかっていないことも知っていた。あとは、綾香ちゃんを屋上に誘うだけです」
「ま、待ってくれ!」
事態が飲み込まないと、片岡の隣、桃輝が声を張り上げた。
「綾香は恐がりだ、なのに一人でどうやって家を出て行くんだ!」
問われた芳乃は凍りつく眼で桃輝をなでる。体を跳ねさせ怯えた桃輝に、芳乃は人差し指を真っ直ぐ立て、空を指す。
「綾香ちゃんは、『星くず☆きらり 輝けナイトガールズ!』という、流星をモチーフにしたアニメが好きでしたよね? それを利用したんです。百日さん、あなたは綾香ちゃんに流星を見ようと、深夜、母親が寝静まったらこっそり部屋を出て、屋上に来るように持ちかけた。流星が見れるのは今日ですが、四歳の子を騙すのは簡単でしょう。綾香ちゃんの好みを知っていて、夜、一人で抜け出しても大丈夫と言う信頼を築いていたからこそ、できたトリックです」
桃輝は口を開けたまま息を呑んだ。芳乃は百日へと視線を戻す。一華が百日を睨みつける中、百日はいっさい表情を崩さず、芳乃の言葉を促すように待っていた。
「小さな子供です。深夜に長く起きることはできません。来るはずもない流星を待っている間に、眠ってしまった綾香ちゃんを屋上から抱え落とした。そして、母親の携帯に電話をかけて死体を確認させた」
芳乃が呼吸を置く。躊躇うように目を伏せ、意を決したように百日と視線が絡ませた。
「そして、動機は綾香ちゃんを救うため」
百日の表情が動く。目と口が三日月のように細められ、本物の仮面を貼り付けたようにみえた。
「そう、それが、あたしの使命」
しなやかに腕を広げて見せる姿は、地獄へと舞い降りる天使にも見える。
「知ってる? 私たちが生れ落ちる確率は、1400兆分の1なの。まるで奇跡でしょう? ありえない奇跡なの。祝福されるべきで、幸せになる権利がある。なのに、その女は綾香ちゃんから幸せを奪う。この先、綾香ちゃんはあの女に縛られて、この世ではもう幸せになれない。じゃあ、どうすればいい? すごく簡単。綾香ちゃんには、もう一回生まれ直してもらうの。最低な母親とは、さよなら。そして、来世で優しい母親の下に生まれて、幸せな人生を送ってもらうの」
うっとりと自らの体を抱きしめた百日に、蕗二は堪えられず怒声を上げる。
「ふざけんな! 殺す以前に、できることは何でもあっただろうが!」
牙を剥いて咆哮を上げる蕗二に、百日は一瞬たり笑顔を絶やすことはなかった。
「いいえ、これしかないの。綾香ちゃんは、もうこの世では幸せになれない。来世に送るのが一番幸せになれる。それと」
百日は一華に視線を送り、弓矢を引くように指を伸ばした。
「あの女を地獄に落とす役目がある。あなたには苦しんでもらわないと、綾香ちゃんの苦しみと釣り合わない。あたしからの警告を全て無視した。隠そうとしたって無駄だから。貴方が罪を白状するまで、あたしは止まらない」
その言葉に蕗二は、はっと息を呑んだ。
「優斗くんを誘拐して、あの脅迫状を書いたのは、お前だったのか」
やっと全てが繋がった。
保育園で働いているということは、綾香ちゃんと友人・葉山優斗くんとも面識があっておかしくない。
日々、保育園で築き上げた信頼の元、誘拐という名の散歩に出るのは簡単だ。
そして『罪は暴かれなければならない』。あの一文は、葉山優斗くんやその両親にではなく、西川一華に向けたメッセージだったのだ。優斗くんは、いわば生贄。
蕗二の言葉を、百日は瞬きで肯定した。
「さあ、綾香ちゃんのママ、今がチャンスですよ。今ここで、刑事さんにあなたの罪全てを、告白してください。そうしたら、優斗くんを助けてもいいですよ? それとも、綾香ちゃんみたいに見殺しにしますか? ああ、でも早くしないと間に合いませんよ?」
くすくすくす。喉奥で百日は笑う。だが、一華は息一つ漏らすものかと唇に歯を立てている。蕗二は焦った。百日の言葉をそのまま受け取れば、優斗くんの命は残りわずか。断罪の天使が引き絞った弓は限界だ。矢がいつ放たれてもおかしくない。優斗くんを救うためには、一華を説得すべきなのか? それとも……
青い光が、蕗二の目の奥を焼いた。
耳の奥底から、こびり付いた笑い声が湧き上がる。
『蕗二!』
父の背。赤い血溜まり。響き渡る哄笑。青い光。
右手が引き攣る。
スーツの下にある、黒い鉄の塊は――――。
「蕗二さん」
動きそうな右手が冷たいものに掴まれる。
「落ち着いてください」
こちらを見上げる氷の眼が、蕗二の頭に冷や水をかけた。
「綾香ちゃんのお母さん、その取引に応じなくても大丈夫です」
百日の鋭い矢尻が芳乃へと向けられる。だが、氷の眼は揺らがない。
「優斗くんの居場所は、もうわかっています」
蕗二の背後で物がぶつかる硬い音に、全員の視線を向ける。
扉が勢いよく開け放たれ、竹輔が立っていた。
蕗二たちには目もくれず、設備機器の集まる場所へと入っていく。
「直接的な嫌がらせは、リスクがあります。それなら時間差で、でも確実に相手を恐怖のどん底に突き落とすには、どうすればいいのか」
関係者以外立ち入り禁止と掲げられた白いフェンス。そこに巻きついた鎖を大型ニッパーで切断し、室外機の間を縫い、駆け抜けていく。
「百日さん、とてもいい性格ですね。恐らく、事態が深刻になるまで、誰も気がつかなかったでしょう」
竹輔がたどり着いたのは貯水槽だ。大きなタンクの側面にとりつけられた梯子を上り、蓋の鍵を目視する。鍵は壊されているらしい、竹輔はすぐさま蓋を持ち上げた。そして、中へと上半身を潜り込ませる。竹輔が貯水槽の中から上半身を引き上げた時、蕗二の口から罵倒する言葉が漏れ出した。
竹輔がずぶ濡れの少年を抱え上げていた。葉山優斗くんだ。夏とはいえ水に体温を奪われた小さな体は、寒さに震え、青い顔をしていた。
つまり、母親が綾香ちゃんへの虐待の事実を隠し続けるのなら、男の子は解放されない。解放されず、そのまま死に絶えた少年が浸かる水を、母親は知らずに使うのだ。死体がやがて腐り、水が濁るまで気がつかぬまま、その水で顔を、食器を、体を洗い、口にする。そして異変に気がついたときにはもう遅いのだ。
腐敗した匂いを鼻奥で思い出した蕗二が吐き気を思えた瞬間、鼓膜を突き破る悲鳴が上がった。
「この人殺しを捕まえて!」
一華の絶叫に、百日は天使の笑顔を向けた。
「それならあなたも同罪だね?」
目の前で、百日が大きく一歩踏み出していた。
芳乃が動く。蕗二もつられるように動いた。しなる百日の腕が、一華の胸元を掴む。指の形に皺の寄る服。一華の体を引き寄せた百日は、抱え込むように体を前のめりに倒した。悲鳴の形に口を開けた一華が、背中から倒れる。百日の踵が浮く。羽ばたくように、手摺の向こう側へと。
蕗二の腕が一華の肩を捉えるのと、芳乃が百日の胴体に腕を絡め取ったのは、ほぼ同時だった。
芳乃が仰け反るように百日を引き、蕗二は手摺を蹴飛ばし、一華を引き寄せた。反動で体が後ろに倒れる。強く引き寄せた体を受け止めた蕗二は、腰と肩をコンクリートの床に激しく打ちつけた。痛みよりも早く、蕗二はすぐさま体の上を確認する。彼女は目と口を見開き、魂が抜けたように放心していた。だが、その人肌と重みに安堵する。二人の体は、手摺を飛び越えていた。一歩間違えれば、自分も同じ運命をたどっていたかもしれない。内側から胸板を叩く自分の心臓を撫で下ろすと、百日の声が蕗二を叩く。
「離して! あの母親を地獄へ落とさなきゃ!」
百日が体を起こそうと手足を振り回していた。ともに倒れた芳乃は、爪を立てられ蹴られても、百日の腰に回したままの腕を緩めず、コンクリートの床に体を張り付かせて、百日を捉え続けた。
「黙りなさいこの殺人鬼!」
いつの間にか、体の上が軽かった。一華が半身を起こし、百日の細い首へ手を伸ばしていた。
蕗二は体を跳ね上げ、一華の腕を背中に捻り上げる。
「痛ッ! なにすんのよ!」
噛みつかんと吠えかかる一華に、蕗二は眉間に皺を寄せた。
「あんた、綾香ちゃんが嫌いだったのか? 邪魔だったのか? だから虐待したのか?」
その瞬間、一華が蕗二を見たまま固まった。同時に芳乃の眼が見開かれる。違う、と小さく口が動いた。
「あなたは、綾香ちゃんが≪ブルーマーク≫になるのが恐かったんですね」
肩を大きく痙攣させた一華が、怯えた表情で芳乃を睨みつけた。
「う、嘘だろ一華」
全ての出来事に置いていかれたまま、迷子の子供のように桃輝の声が震えていた。
「そんな、それだけの理由で?」
「あんたに分かるわけないでしょ!?」
一華の絶叫が鼓膜に叩きつけられる。
「あんたが≪ブルーマーク≫になんかなるから、私がどれだけ苦労したか! 憎たらしい、憎たらしい憎たらしい憎たらしい! 私ばっかり責められて。近所は余計な事ばっかり勝手に、無責任に口だけ出して! 見世物みたいに! あんたは知らないでしょうけど、あんたの母親にも、私の、自分の親からも言われたのよ! これで綾香まで同じ≪ブルーマーク≫になったら、私はなんて言われると思う? 犯罪者の親なんて言われるのよ! 何で私ばっかり、こんな……綾香を産んでから、全部台無しよ。どうしてくれるの! どう責任とってくれるのよ!」
声が裏返るほどの絶叫に叩きのめられ、桃輝は膝から崩れ落ちた。尻もりをついて、呆然と崩れ落ちていく理想を見つめていた。
蕗二は手負いの獣のように息を荒げる一華を、ただ見下ろすしかなかった。
一華から吐かれた言葉たちが、澱んだ泥水のように鼓膜に張り付いている。
何かが動く気配。それに顔を上げると、片岡が手荒く桃輝の腕を掴み上げるところだった。力の抜けた、桃輝の片腕と襟首を掴んで、引き摺るように片岡がこちらに向かって足を進める。その足先は、真っ直ぐ蕗二へ、いや一華へと向いている。
片岡の表情は俯いていて、しかも眼鏡に光が反射して完全に読めなかった。どうする、ふと氷の眼と視線が合った。首が横に振られる。蕗二は一華の腕を離し、一歩距離を置いた。
「来ないで」
一華が言う。だが片岡は歩みを止めない。
「来ないで」
もう一度、今度は大きい声だ。だが、片岡はもう一華のすぐ目の前に立っていた。眼鏡の奥から、全ての感情を押し殺した眼で一華を見下ろしていた。そして、片岡の膝が折られ、一華の前に片膝をついて。
「来ないで!」
一華の喉から絶叫が吐き出され、腕が振り上げられた。蕗二があっと口を開ける。肉を打つ高い音、遅れて眼鏡が音を立てて転がった。それでも、視線は一華から外れなかった。
「両名に問いたいことがある。綾香ちゃんは、君たちが望んだんじゃないのか?」
桃輝が肩を震わせ、一華が息を詰まらせる。
「望んでいなかった、なんて言ってくれるな? 孕ませるとしても、孕むとしても、命を宿すということは肉体的、または経済的負担がかかるということは、知らないわけがないだろう。もし、本当に何も知らないというのなら、貴様らに繁殖能力はいらない、今すぐ去勢避妊したまえ。無知である間はいくら産み落としても、それはただの肉の塊で、貴様らの道具に過ぎない。また同じことを繰り返す、猿より劣る生物だ」
一切容赦のない冷酷な言葉。それに一華は震え、桃輝は呼吸を浅くする。止めを刺さんと片岡が口を開く。
「ひとつ教えておこう。私は、犯罪防止策が導入された直後から、≪ブルーマーク≫を受けている。君よりも、将来子供が≪ブルーマーク≫になる確率は高い。だが、私には一般人の妻がいる。そして、まだ小学生になったばかりの、愛しい娘がいる。その両耳には、ピアスの穴さえ開いていない」
片岡が溜息に似た鼻息を、長く吐き出す。その眼に、先ほどまでの冷酷さはなかった。
「綾香ちゃんはいくつだ? たったの四歳だったろう。まだ≪マーク≫が付くかどうかなんて、分からないじゃないか。たとえ、≪マーク≫が付いたとしても、親には、唯一の味方になってやってくれ。君たちまで見放したら、子供たちは最後の拠り所を失ってしまうじゃないか!」
片岡の叫びに、一華は頬を張られたように目を見開いていた。全ての言葉を理解した一華の顔は、一人の子をもつ母親の顔だった。
「ああ、ああああ」
顔を覆って俯いた一華の向かいに、片岡は放心する桃輝を強引に座らせる。すると、桃輝は一華の両肩に手を置いた。労わるように、細い肩を包む。
「一華、ごめん。おれ、一華がそんなことになってたなんて、全然知らなかった……ごめん、ごめんな。ひとりにしてごめんな」
「私こそ、ごめんなさい……ごめんなさい! 綾香ごめん、ごめんなさい!」
一華が桃輝に抱きついた。二人の慟哭が青い空へと吸い込まれていく。
蕗二が深く息を吐き出した。竹輔と優斗くんの姿は見えない。階下でパトカーと救急車のサイレンが鳴り響いている。
やっと終わった。もう一度深く肺から空気を押し出した。
「いますぐ、それを離してください」
短く冷たい声に、蕗二はすぐさま体に緊張を走らせた。声の先、いつの間にか拘束を解かれた百日が、尻餅をついている。その正面、同じように座り込んだ芳乃の左手が、百日の右手首を掴んでいた。
百日の手首の先はスカートのポケットの中にしまわれたまま、睨み合いの沈黙が続く。芳乃の左手が動いた。ポケットから手とともに、それが引き摺り出される。ポケットの縁から落ち、軽い音を立ててコンクリートの上に転がった。真新しいカッターナイフだ。芳乃がそれを手の届かないところへと払い飛ばす。それを縋るように百日は見つめていた。
「何でとめるの。あたしは天へと帰る、邪魔しないで」
殺意を剥きだす百日を、氷の眼が瞬きもせず見つめていた。
「あなたがそこまで決意する、理由は何ですか?」
百日が息を詰まらせた。氷の眼が百日の耳、青い光へと向く。
「≪それ≫が付いたのは、半年前ですね?」
芳乃の冷えた声に促されるように、百日は掠れた呟きを零した。
「何回も何回も、警察にも相談所にも言った」
零れ出した言葉は堰を切ったように、百日の口から次々と溢れ出す。
「なのに、全然取り合ってくれなくて。あたしが、≪ブルーマーク≫だから……そんな理由で、誰も相手にしてくれなかった。こんな、こんなピアスひとつで!」
苦痛に耐えるその顔は、今にも泣きそうだった。
だが、その目から一滴も涙は浮かんでこない。
「綾香ちゃん、辛くないの? って聞いたことがあるの。そしたら綾香ちゃん、『お母さんが好きだって言ったの。大好きだって。綾香が悪いの、だから誰にも言わないで』って。だから、少しでも辛くないように、そばにいた。でも、綾香ちゃんが腕を骨折した時、もうだめだって思った。あの人は、綾香ちゃんをいつか殺してしまう。お母さんに殺されるなんて、そんな最悪な事、あっていいわけない。綾香ちゃんに絶望なんてして欲しくなくて…………でも、全部間違ってた。あたしが、綾香ちゃんの未来を奪っちゃったんだ」
深く息を吐き出す。百日は目が暗く淀んだ。芳乃が苦しげに息を詰まらせた。
「今日、全てを終わらせる気だったんですね」
「うん、でも、もういい。もう、疲れたよ……」
純白の羽が折れた天使は、ただの少女の形をした肉の塊になろうとしていた。
「あなたには生きる価値がないと、言ってほしいですか」
冷たく、無感情な声。
「そう言ったら、あなたは死ぬんですか?」
百日は何も言わない。だが、氷の眼には全て視ていた。
「ふざけるな」
芳乃が百日の襟を掴む。鼻面がぶつかるほど、顔を引き寄せた。
「死は償いじゃない。あなたが逃げる手段だ。あなただけ、逃げるなんて許さない」
淀みへと沈むその体を、氷の眼が鋭く貫き、地へ張りつける。
「刑務所を出たら、虐待された子達を救う、あらゆる知識をすべて身に着けてください。そしてもう一度、綾香ちゃんのような子を、救ってください。絶対になってください。それが、あなたにできる、唯一の償いです」
百日は息を吸う。息を吹き返すように、白んだ頬は人肌を取り戻し、目に光が差した。
そして、くしゃりと顔を歪めて、涙を溢れさせた。
「ひどいね、芳乃くん」
百日が倒れこむ。その体を、芳乃は強く抱き止める。
額が、芳乃の肩へと押し当てられた。震える体と、漏れる嗚咽。温かく濡れていくシャツを、芳乃はただ受け止める。
氷の眼は、静かに瞼を下した。
天使はいつかまた、晴天の空を舞うことを祈って。
救急車のサイレンと、パトカーのサイレンが混じって聞こえる。
日が落ちつつある屋上は、じきに黄色いテープで封鎖されるだろう。
腕を上げ、背筋を伸ばす。鈍く肩が痛んだ。意識すると首も腰も痛い気がする。
そういえば、つい二ヶ月前に体中痣だらけになって、治ったばっかりだった。
盛大に溜息を吐くと、不意に声をかけられる。
「大丈夫かね?」
片岡だ。眼鏡をかけていないせいか、目を細めて蕗二を見ている。
「お前こそ、大丈夫か?」
左頬が赤らんでいる。あとで腫れるかもしれない。
蕗二がハンカチを差し出すと、やんわり断られる。ポケットにハンカチを捩じ込みながら屋上を見回し、片隅に転がる片岡の眼鏡を拾い上げる。太陽にかざす。幸い、割れていないようだ。
「もし君が伴侶との子供を望むなら、子育てについてよく考えるべきだ」
脇から伸びた手に、眼鏡が取られる。だが、片岡は眼鏡をかけず、手の中で弄んでいる。
「三十年前……私が生まれる少し前に、子供の教育方針を巡って政府が迷走した時期があってね。聞いたことはあるだろ? ゆとり世代と言う奴だ。君のご両親は恐らく、ゆとり世代または脱ゆとり世代に当たるだろう。政策は暗礁に乗り上げ、結局打ち切りになった。政府は誰も口にしなかったが、その世代は失敗作同然だった。世間から長らくゆとり世代と言われ、差別もされたそうだ。今の『犯罪防止策』も、そうだと思わないか? 法律などを決めるのは大人で、我々大人が責任を取るべきはずなのに、いつも子供は押し付けられる」
片岡は静かに息を吐いた。
「私は今、妻子と別居している。私から、距離を置いた。半年に一度だけ忍ぶように会っている」
片岡は目を合わせないまま、スラックスの後ろポケットから財布を取り出し、あの写真を取り出した。
「恐ろしかった。妻が、私のせいで何か言われていないか、無性に不安になったからだ。妻は何も言わない。聞いても、いつも大丈夫と微笑んでくれる。それがもし、嘘だったら? いつか、娘にも同じ印がついてしまったら、妻はどう思うだろうかと。後悔しているんじゃないかと、そう思う時がある」
片岡の指先がそっと、微笑む妻と娘の輪郭を撫でる。
「娘もそうだ。小学校に上がれば、幼稚園よりも子供は個を意識し、集団性と差別性を持つようになる。もし、私が≪ブルーマーク≫だと知った周りの同級生に、娘はひどい扱いを受けるかもしれない。もし、娘が私や妻を恨んだりしたら。もし、生まれてこなければと嘆いたら。もし、あの子に≪マーク≫が付いたら、どうすればいいのか。いっそ、私の手で殺してしまう方がいいかもしれない」
片岡の目に鋭い光が宿る。抜き身の刃に似たそれに、見覚えがあった。
「だが、百日紅の言葉で気がついた。親に殺される子供の悲しみは、一生感じる絶望の中でも一際、絶望的だろう。それだけは、味わって欲しくない」
静かに息を吐き、殺意の込められた光は、瞼の下へと仕舞われた。
「なあ」
片岡の肩を強く掴んだ。
「あんた、後悔してるのか?」
片岡の首が、はっきりと横に振られる。蕗二は掴んでいた肩を詫びるように優しく叩いた。
「俺は結婚してないし彼女も居ない。だから、あんたの悩みを理解しきれない。でも、子供の立場から言ってもいいなら、わかることがある。あんたは、最高の父親だよ」
片岡の言葉は、西川夫妻や俺に言ってるんじゃない。片岡自身に向けて言っているのだ。
これは懺悔だ。悩んで悩んで、一人でもがき苦しんでいる。
『どうしてくれるの! どう責任とってくれるの!』
あの時、西川一華が吐き捨てた言葉は、まるで呪いのようだった。
結婚したことを、出会ったことを、生まれてきたことを、全て否定された気がした。
あの瞬間、自分が異物めいた存在のような、感じたことのない恐怖感にぞっとした。
だから、片岡の言葉を聞けば聞くほど、嬉しくて、愛されてると思った。片岡の奥さんも、その娘さんも、きっとそうだろう。
この人なら、最後まで味方でいてくれる。
自分のことではないとわかっているのに、なんだか無性に照れくさくなってきた。
誤魔化すように耳の後ろを掻く。そんな蕗二を片岡は目を見開いて見ていたが、小さく笑うと柔らかな視線で受け止める。
「なんだが、君に言われると奇妙な感じだ。だが、ほっとした。ありがとう、警部補」
眼鏡をかけた片岡は深く深呼吸をする。そして、眼鏡を指で押し上げた。
そこには、よく見慣れた片岡がいた。
「あー、今すぐ愛しい我が妻と娘に会いたい! 会いに行ってやる!」
「おうおう、行ってこい。存分にイチャイチャしてこい」
「そうだ。君を家に招待しよう。私の妻と娘は可愛いぞ。あ、いや止めておこう。君が過ちを犯してしまうかもしれない……」
「いきなり惚気んな! つか、なんで俺が寝取る前提やねん、しばき倒すぞ!」
「待て、名案を思いついた。生実況して、幸せをおすそ分けしてあげよう」
「なにが名案じゃボケ! はよ帰れ!」
ひぐらしの鳴く空に、片岡の楽し気な笑い声が響いた。
赤色灯がチラつく中、蕗二はマンションを見上げる。
わずかに夕暮れの気配が混じり始めた、まだ青い空を背に、無機質なマンションが佇んでいる。
見られている気がする。
異物を排除せんと、こちらを見ている。
これがマンションに漂う異様な空気の正体だろう。
もし、誰かが西川一華に救いの言葉をかけていたなら、今回の悲劇は始まらなかった。
人間は強くない。だから群れるのだろうか。
群れて大きくなれば、同じ方向を向くようになる。そこから食み出せば、排除される。
排除して排他して排外して、そこに残るのは、一体なんだ?
顔を上げる。走り回る刑事や鑑識の間、竹輔が手を振って呼んでいる。
「お疲れ様です。葉山優斗くんは救急先の病院で、命の別状なしと報告が来ました」
「そうか、よかった」
「蕗二さんこそ、どこか怪我してないですか?」
「大したもんじゃない。湿布でも貼ってりゃあ、すぐ治る」
具合を見るように腕を回しながら、周りを見渡す。
「そういえばあいつ、芳乃は?」
「ああ、送るって言ったんですけど、目を離した隙にいなくなってて……」
「そっか。ありがと」
止めたままの覆面パトカーに乗り込み、シートベルトを締める。スタートボタンを押し込み、エンジンを起動させた。助手席の竹輔がシートベルトを装着するのを横目に、起動したナビを操作し、登録してある警視庁への道のりを選択する。車は静かに、路上を滑り出した。
「なあ、竹。お前、≪あいつら≫の資料は読んだか?」
「はい。全部目を通しています」
蕗二は両手の中で動くハンドルを見つめながら、口を開く。
「芳乃のあれ、どう思った?」
竹輔の視線が、横面に突き刺さる。
「どう、とは?」
「あいつの、≪ブルーマーク≫の理由」
二ヶ月前の芥子菜の事件の後、蕗二は野村、片岡、そして芳乃の≪ブルーマーク≫情報に向き合った。
そして、一つの疑問が強く残っていた。
「空白じゃなかったか?」
蕗二の言葉に、竹輔は大きく息を呑む。
しばらくの沈黙の後、竹輔は大きな溜息をついた。
「ぶっちゃけ、階級別で見られないパターンだと思ってました」
「いいや。あれは間違いない。芳乃だけ、手が加えられてた」
眉間に深く皺を刻み、ハンドルを睨みつける蕗二の言葉を、竹輔は汲み取った。
「僕らに見られたら、まずい理由ってことですか?」
「≪ブルーマーク≫の判定が下りてる以上、いまさら隠す必要なんてないだろ」
『犯罪防止策』は、犯罪を未然に防ぐ目的で作られた政策だ。
何か犯罪者になりうる要素がなければ、≪ブルーマーク≫が付くことはない。
芳乃の氷の眼を思い出す。
あの氷の奥で蠢いた、得体の知れないもの。
あれは……。
「いや、あり得ない……」
吐き出した言葉は、なぜか懇願のように聞こえた。
**花盗人とオキザリス** 【了】




