File:5.5 悪の嚢
「だから、僕は違う!」
机に拳を叩きつけたのは、作業服を着た男だった。
「通っただけで犯人扱いされるなら、どうやって無実証明したらいいんですか! こんなの理不尽通り越して冤罪ですよ!」
唾を吐き散らす勢いで目の前の刑事を威嚇する。
その耳元で、男の怒りを表すように赤いフープピアスが強く光った。刑事はこめかみに青筋を立てながら、手元の液晶タブレットを男に突きつけた。
「生体反応に興奮状態が出てるんだよ。男の子見たときにそのチンコが反応したんじゃないのか!」
「反応くらいするでしょうが! そういうあんただって、好みの女の子見て、まったく興奮しないって言い切れるんですか! 悟り開いてるんですか!? インポなんですか!?」
「……何かすごい言い争いだな」
その呟きは取調室にいる人には聞こえない。
取調室の隣、透視鏡を挟んだ部屋から、刑事が仕込んだピンマイクが拾う音に、全員耳を傾けていた。
「そりゃ必死だろうよ。嘘でも真でも」
蕗二の隣、尾花が呆れた表情で見ている。
「しかし、このままでは平行線を辿る一方ですね」
萩原が尾花と同じ表情で透視鏡の向こうを覗く。
蕗二は手元の液晶タブレットに視線を落とした。
作業服の男、≪レッドマーク≫は金魚草太と言う。
もともと≪ブルーマーク≫だったが三年前、自宅に女児を連れ込み、下腹部を触った強制猥褻で逮捕。裁判の結果、執行猶予付きで釈放。同時に≪レッドマーク≫の強制装着をされている。
それからは矯正プログラムに毎回必ず参加し、特に警察が出動するような不審な行動はしていないと記録されている。
「私が見る限り、特に嘘をついているようには見えないがね?」
「えーそうかなぁ。わたしは必死すぎて怪しい気がするけどぉ」
片岡と野村があれこれ意見を言いあっているのを片耳に、目の前でついに立ち上がった金魚と刑事が戦闘態勢を取っている。どっちかが手を出すのも時間の問題だ。
「どうするんですか」
芳乃の平坦な声に、蕗二は深く溜息をついた。
「お前は待ってろ、俺が行く」
意外と言わんばかりに、芳乃の眉が上がった。
「こっちはお前らと組む前から刑事やってんだ、たまには見てろ」
蕗二はピンマイクをスーツの内側に装着し、部屋を出た。すぐ隣、取調室の硬い鉄のドアをノックする。
間を置いて、取調べをしていた刑事が顔を覗かせた。鋭い目でこちらを窺っている。蕗二は口の端に手を添えて、刑事に耳打つ。
「10分だけ貸してくれ」
眉を寄せた刑事と互いを探るように睨み合う。
三回目の深い呼吸をした後、刑事はしぶしぶと言ったように溜息をつく。「10分だぞ」そう言って部屋を出て行った。刑事に心の中で礼を言い、部屋に入る。
透視鏡越しに見た金魚が、机を挟んだ向こう側に立っていた。腰に撒きつけられた拘束縄のせいか、罠にかかった野生動物のようだ。
肩を怒らせ、威嚇さながらこちらを睨んでいる。蕗二はその正面に座り、背筋を伸ばし軽く頭を下げた。
「初めまして、刑事一課の三輪と申します」
警察手帳を見せ、不審げな金魚と向き合う。
「お疲れでしょうが、うちも仕事なので。もう少しだけ付き合っていただけませんか? まあ、とりあえず座ったらどうでしょうか?」
促せば、こちらから視線を外さないまま、ゆっくりと金魚はパイプ椅子に座った。
「誰が来ても、何度でも言いますが、僕は関係ありません」
「なるほど」
蕗二は腕を組んで、天井を仰いだ。金魚は鋭い目で蕗二を見ている。しばらくして、突然蕗二が低い声で呻いた。警戒心を強めた金魚だったが、姿勢を戻した蕗二は脱力し、背もたれに体重をかけた。
「ところで、飯はもう食べましたか?」
「は?」
金魚が眉間に深い皺を刻む。蕗二は気にする様子もなく、左手首の腕時計を確認し、「あ、ちゃうわ。まだ昼前やん」と一人ごちて、蕗二は軽く腹を擦った。
「仕事してると、時間わからん時ありません? 腹時計が鳴って、あー腹減った、とか思って時間見たりするんですけど、全然時間経ってなかったり。てか、ぶっちゃけ俺めちゃくちゃお腹が減ってるんですよ。やっぱ体がでかい分持たんくて。警察なりたての頃とか、昼前にぐーぐー腹鳴らしては上司にお前は燃費が悪いって、よく言われたもんですわ。昼飯の一つでも差し入れたいところなんですが、なんせ警察はルールが厳しくて。昔はかつ丼とかね、ドラマみたいに出してたらしいんですけど、今じゃもう出せるのはお茶くらいなんですがね。というか、お茶あります? おかわり持ってきますけど?」
あっけらかんと会話する蕗二を、息を潜めて見つめていた金魚が、怪しむように恐る恐る口を開いた。
「腹は、すいてません」
「そっか、腹持ちええな? あー、緊張からか? そりゃそうやろな。まあ、慣れてる言われても困るんやけど」
頭を掻きながら困ったように笑みを浮かべる。金魚は眉間に皺を寄せて蕗二を見る。
「刑事さん、それ素ですか?」
指摘された蕗二は、何を言われたのかと首を傾げ、はっと口を押さえると誤魔化すように顔の前で手を振った。
「あああこれは違う! いや、ホンマ申し訳ない。実は、大阪から来たばっかで。標準語に慣れようと思うんですけど、やっぱしゃべりにくくて」
「ああ。なんとなくイントネーションが違うとは思った」
「やっぱりですか……」
金魚が頷く。蕗二はしばらく何か考えるように天井を見つめ、ふと前かがみになって声を潜めた。
「その、正直、聞き取りずらいですか?」
「まあ、ちょっと」
「発音かな、やっぱり」
「関西の人がエセ関西弁に怒るあれと似てるんじゃない?」
「え、それめっちゃむかつく奴やん。うーわ、マジでショック……」
うつむいて困ったと額を押さえた蕗二に、金魚は小さく溜息をついた。
「いいよ、普通に話してくれて。下手に標準語で話されると、逆に聞き足りずらいし」
「ええの!? いや、助かるわぁ、ありがとうな」
満面の笑みを浮かべると、顔の前で右手を立てて詫びる。それからちらりと透視鏡を横目で見ると、机に肘を突いて前かがみになる。再び警戒する金魚に、口の端に手を当てた蕗二は囁いた。
「ここだけの話、どう思います?」
「何がですか?」
「いや、警察が口出すのも悩むんですけど、始めから犯人だと決めつけんのは、ちょっと違うんちゃうかと思いまして。こっちの連中は、どついてなんぼ言いますけど、あんま性に合わんのですわ」
蕗二は体を起こし、思い出すように宙へと視線を投げる。
「実は、うちの知り合いに≪ブルーマーク≫の子供がいまして。こいつがもう、めっちゃ生意気で、会ったらげぇって顔しやるんですよ。俺が刑事だって知ってるから、余計やろなーとは思うんですけどね」
ふと頭の片隅に、気がつけば、芳乃の横顔が浮かぶ。
「まあ、そのチビ悪い奴やないんですよ。もし、俺が刑事じゃなかったら、仲良くなれたんかなって時々思うんです。どうしても、こんな仕事してると≪マーク≫付いてても付いてなくても、全員疑わなあかん。けどなあ、俺は正直、あんたを犯人やと思えへんねん。ちゃんと矯正プログラムも行ってるし、仕事も真面目にしてるやん。俺はあんたを信じたいねん。信じさせてくれへんか?」
蕗二のぶれない視線を受け止めた金魚は、じっと蕗二を見つめていた。やがてゆっくりと瞬き、目を伏せた。
「本当に、違うんです。僕は、見かけただけです」
「見かけた?」
金魚は小さく頷いた。
「はい。確か、昨日の、僕は仕事終わりだったので、午後の五時くらいです。家に帰る途中、コンビニに寄ったんです。そしたら、男の子が一人で歩いてたんです。周りに親らしき人はいなくて、たった一人って、変だと思ったんです。危ないなと思って、僕が声をかけるより先に、誰かに呼ばれて走っていきました。それ以上はわかりません」
光景を思い出しているのか、金魚の視線が揺れている。蕗二は金魚の言葉を噛み締める。
「男の子を呼んだのは、誰やったか、覚えてるか?」
「若い女性の声でした。姿は見てません」
「そのコンビニ、どこら辺やったか教えてくれへんか?」
蕗二が液晶端末を取り出し、地図を開いて金魚に差し出す。
金魚は地図を覗き込み、指先で地図を縮小する。目的の場所に指を動かし、地図を拡大していく。
そして、一つのコンビニを指差した。
「ここです。僕が見たのは、コンビニに入る直後で、こっちに走っていったと思います」
金魚が指差したのは、コンビニの裏側。そこは少し狭い道になっているようだった。蕗二はコンビニを登録し、スラックスにしまう。
「ありがとうな。俺から言うてみるわ。もっぺんよう調べたらわかるはずや、絶対無実を証明したるからな」
蕗二は金魚の肩を二度叩き、立ち上がる。取調室を出ようとドアノブに手をかけたところで、金魚の立ち上がる気配がした。
「あの、刑事さん」
振り返ると、真っ直ぐこちらを見る金魚と目が合った。
「お名前を」
「三輪、三輪蕗二や」
「三輪さん。犯人、見つかるように祈ってます」
「おーきに」
今度は自然と出た笑みを浮かべた。
後ろで扉が閉まった途端、取調室の隣にいた尾花たちが出てきた。さきほど交代した刑事もいる。
「あいつはシロです。嘘をついてるなら、あんな具体的な話はできない」
蕗二の言葉に、小さく落胆の声が上がる。
「じゃあ、被害者のご両親が犯人の可能性が上がった、ってことですか?」
竹輔が苦しげに蕗二を見上げた。すぐさま首を振る。
「落ち着け竹。まず、綾香ちゃんの父親のマーク情報の解析はどうなった?」
「いえ、まだです。仕事柄、遠方に移動することが多いようで」
「ああ確か、綾香ちゃん行方不明になったとき、名古屋に行ってたとか言ってたな。その事実の確認をやってくれ。片岡、このコンビニ周辺のリーダーシステムと防犯カメラを洗い直してくれないか? 野村、もう一回東さんのところに行って、ご遺体を見てきてくれ。さっきよりはマシになってるだろうし、何か分かったら連絡頼む。芳乃、お前は」
芳乃へと視線を移したところで、蕗二は眉を寄せた。
「何やってんだ?」
芳乃は背負っていたバックから何かを取り出していた。よく見ると、それは蕗二でも馴染み深いメジャーで庶民的な板チョコだった。
それと一緒に何かカラフルな棒状のものを持っている。芳乃は紙のパックと銀紙を豪快に破り開けると、棒状の何かの端を千切った。そこやっと、棒の正体がスティックシュガーだと思い出す。
芳乃は板チョコの上に中身をぶちまけた。そう、ぶちまけた。
さらさらした真っ白な砂糖が、大きな凹凸を埋めていく。山になった砂糖を指で均等にならすと、なんの躊躇いもなく、それに噛み付いた。
もぐもぐと、どちらかと言うと美味しそうに食べている。
「お前、絶対味覚おかしいやろ」
どん引きとは、まさにこの事である。少し仰け反った蕗二を、芳乃は不機嫌に睨んだ。
「うるさいですね、燃料みたいなものですよ」
先ほどより口を大きく開け、白くコーティングされた板チョコを頬張る。着々と食べ進める芳乃を見ているだけで胸焼けがしてきた。同意を求めて周りを見るが、皆蕗二と似たような表情をしていた。
そうこうしている内に、芳乃は全て完食し終わる。最後に持参していたのだろうペットボトルの水を二口飲んで、マスクをしなおすと声を整えるように軽く咳をする。
「では、行きましょう。そして、とっとと帰りましょう」




