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ルナティック・ブレイン 【-特殊殺人対策捜査班-】  作者: 橋依 直宏
Consider 4  憫笑するブラインドフラワー
32/97

File:6 逸らさない





 AM11:33。警視庁6階資料室。


 ノートパソコンが熱を排出する、わずかな音だけが聞こえる。

 煌煌こうこうと光る画面は真っ白だ。その真ん中に警察IDとパスワードを打ち込める箇所かしょがある。

 キーボードに指を乗せては離し、また乗せ、力をこめるが指は抵抗するように震えるだけだ。

 それを数分ずっと繰り返している様子にパソコンはあきれ、画面の光を落とした。

 真っ暗になった画面に眉間を寄せ、鋭くにらむ男が一人映し出される。


「クソッ」


 蕗二ふきじは舌打ち、手のひらに爪を食い込ませた。

 まぶたを閉じるだけで、青い光が網膜もうまくを焼いている。

 あの日、多くの命と、憧れだった父の命を奪った元凶。

 ≪ブルーマーク≫が憎い。

 耳障りな嘲笑ちょうしょう鉄錆てつさびの匂いと赤い血溜まり。

 ≪ブルーマーク≫が憎い。

 刑事として班長として、指揮を取り最悪の事態を迎えれば、たとえ【仲間】だとしても、多くの命を守るために拳銃の引き金に指をかける。

 躊躇ためらわない。躊躇ためらえば、また犠牲が生まれる。

 悲痛な叫び声をあげる母の背と、白い花に埋もれた父のように。

 ≪ブルーマーク≫が……



『刑事さん』



 鮮明で冷たい声が鼓膜の奥で響く。

 瞼裏まぶたうら、闇に半分体を沈めた芳乃ほうのの真っ黒な眼がこちらを見つめていた。


『あなたは刑事として、とても優秀だと思います。ですが、都合のいいところだけ見て、他を見ようとはしない。知ろうともしない。目をそらして知った気になってるだけだ』


 闇の向こう、この世とあの世の境目に立っているような、ひどく曖昧あいまいで、どうしようもない恐怖をあおられる。


三輪蕗二あなたには、覚悟がない。ただの弱虫だ』


 芳乃が黒い目を細め、蕗二の心の奥を見ている。


『あなたには≪視なきゃいけないもの≫が、あったはずです』


 視なきゃいけないもの……

 紫煙の中、菊田に渡された《あいつら》の情報だ。

 おもちゃのような見かけとは裏腹に、重要な情報をたっぷり腹いっぱい抱えたUSBメモリ。

 俺はそれを引き出しの奥へ投げ込んで、鍵をかけていた。


 そう、俺にとってUSBの中身を見るということは、あいつらへと近くなるということだ。

 ≪ブルーマーク≫が憎い。許せない。許さない。

 ≪ブルーマーク≫の起こす犯罪を止めるためだけに、それだけのために生きてきた。そして、そのために目をそらしてきたことがあった。


 ≪ブルーマーク≫であると同時に、一人の人間であると言うことから。


 何も知らない。知ろうとしない。

 知りたくない。

 知れば、知らなかったでは済まなくなる。



『いつまで目をそらすつもりですか』



 芳乃は痛いほど凍った目を向けてくる。

 目をそらしても、事実は変わらない。

 それでも見ない振りをするのか。


 目をそらすな。

 みろ、見ろ、視ろ。


 強い声に導かれるように、ゆっくりと目を開ける。

 沈黙するパソコンが、蕗二をむかえるように画面を光らせた。

 静かな部屋で一人、深く息を吸い、こぶしをほどく。

 そっと、だが自らの意思を持って、指をキーボードの上に置いた。













 病院に戻ると、人はずいぶん減っているように感じた。

 ほんの数十分前に駆け込んだときの軌道を追うように、足を進める。

 緊急外来と書かれた案内板の矢印の指す角を曲がると、見知った姿に蕗二は目を見開いた。


「野村……」


 壁にもたれ、ぼんやりとちゅうながめていた野村は、蕗二の声に首を回した。蕗二の姿を捉えると、ひらりと手を振る。


「お前、もういいのか」


 ひとつ頷かれる。野村の向こう、赤いランプは消えていた。


杜山もりやまは?」

「一命は取り留めたよぉ」

「そうか、よかったな」


 蕗二の呟きに野村の首が振られた。否定だ。


「ねぇ、三輪っち」


 再び宙に視線を向け、息を吐きながら空気にまぎれさせるようにつぶやかれる。


「人間は死ぬ時は死ぬの。運がいいか悪いかだけ。刺されて死んだら、私は運がなかっただけ」


 感情もなく、ただ文章を朗読するような声だ。


「そんな言い方、杜山もりやまに……」

「失礼?」


 野村の眼が蕗二に照準を合わせた。目を吊り上げ、今までにないくらい敵意を剥き出しにする。


「冗談じゃない。勝手にかばって死にかけたあいつじゃなくて、私が責められるの? なんでよ、ふざけないでよ、意味わかんない! かばわれた私が悪いの? 私が刺されればよかったなら、そう言ったらいいじゃん! どうせ私は≪ブルーマーク≫なんだから、死んだってどうでもいいんでしょ!」


 静かな廊下に野村の声が反響する。

 それを正面から受け止めた蕗二は、拳を握りしめた。


「『あの事件』の後、そんなこと言われたのか?」


 蕗二の声はおだやかだった。それには予想外だったらしい、野村は目を見開いて呆然ぼうぜんと蕗二を見ていたが、吐き出された言葉の意味を理解して、顔から血の気を引かせた。


「うそ……だって、三輪っちって……」

「ああ、≪ブルーマーク≫が嫌いだ。≪ブルーマーク≫のことなんて、これっぽっちも知りたくなかった。

 けど、本当は視なきゃいけなかったんだ。知らなきゃいけなかったんだ」


 野村が、なんで≪ブルーマーク≫に指定されたのか。







 それは六年前にさかのぼる。


 一人の高校生、野村紅葉と言う少女が無断欠席をした。

 担任の教師が家に電話をかけるが、呼び出し音は永遠と続くばかり。緊急連絡先から母親に電話するがこれも同じだった。

 次に父親に連絡すると、3コールで繋がった。事情を説明すると、野村の父親は今しがた、出張先から帰ったところで、今まさに家の前だそうだ。

 電話の向こう、鍵の開く音。

 そして悲鳴とともに通話は切れた。


 担任は震える手で警察に通報し、二人の警官とともに野村の家に向かう。

 玄関は開け放たれていた。警官は応援を要請ようせいし、警棒片手に家へと入っていく。


 玄関のすぐ右手に二階への階段、奥にはリビングがあるのだろう、ガラスのはまったドアが一つある。

 それが少し開いている。

 警官たちは慎重しんちょうに足を進める。リビングへと続く廊下にはびた鉄の臭いが充満していた。そっとドアを開けると、そこには野村の母親が黒ずんだ赤い血溜まりに沈んでいた。


 一人の警官が腰を抜かし倒れこむが、もう一人の警官はまだきもわっていた。

 物音を立てないようにリビングを捜索する。

 が、人の気配はない。ふと、上から重いものが倒れるような音がした。警官は慌ててリビングを飛び出し、二階へ続く階段を駆け上がった。一室の前に父親が座り込んでいた。

 警官の姿を見ると、青い顔で部屋を指差した。

 震える体を叱咤し、警官は警棒を構えたままそっと部屋に体を滑り込ませる。


 明かりの消えた部屋、カーテンが窓から差し込むはずの光をさえぎり薄暗い。

 部屋の奥、ベッドがあるのが見える。

 その上に二つの影があった。

 眼が慣れ、その影がはっきりと見えた途端、警官は悲鳴を上げないよう歯を食いしばるので精一杯だった。

 バケツで浴びせられたように、真っ赤に染まった少女に男がかぶさっているのだ。

 男は喉を一直線に掻き切って事切れていた。

 その冷たい体が、ほぼ半裸の少女を抱いているのだ。


 少女の上で絶命していた男は、アララギ。

 ストーカーだった。

 ≪ブルーマーク≫に指定されていた男は、少女へと度重なるストーカー行為を重ね、厳重注意を受けたがそれを無視し続けていた。≪レッドマーク≫への検討けんとうがされていた最中のことだった。


 遠くサイレンの音が聞こえる。

 呻き声とも泣き声とも似つかない声で、少女の父親が泣いている。

 せめてもと、警官は男の体を引き剥がそうと近づくと、ふと少女の瞼が動いた。そしてうつろな目で、警官を仰ぎ見る。

 警官は歓喜にき、少女から急いで男の体を引きがそうとする。

 しかし、少女に抱きつく重く冷たい体は、恐ろしいことに少女を放そうとしなかった。


 応援に駆けつけた警官数人でもはがせず、死んでもなお執着しゅうちゃくする姿にその場の警官たちは思わず吐き戻した。


 警察が男の関節を破壊し、少女・野村紅葉を救出したのは、事件が起きてから約12時間後のこと。

 その間、冷たい男と繋がったままだった野村は、放心と発狂を繰り返していたという。


 それから一ヵ月後、野村は≪ブルーマーク≫に指定された。





「あいつ、私が……好きだから、死ぬんだって言った……」


 野村の声に、蕗二は記憶の海から上がる。野村の黒い眼が、虚空を見つめていた。


杜山もりやまも、わたしが好きだから死ぬの?」


 野村がゆっくりと蕗二に視線を戻した。迷子のような、不安げな瞳が見上げてくる。腹の前、恐怖に堪えるように服を握りこむ。


「生きてたらいつか死ぬのに、なんで、自分から命を絶とうとするのか、わからない……生きてる人の、考えが分からない……」


 うつむいた野村が首を振ると、毛先が乾いた音を立て、顔を覆い隠した。

 事件の後、野村はカウンセリングを受けていると記録されている。

 それでも深い傷はいまだ残っている。

 そして、心の傷をかばうために、野村は人に触れられなくなった。

 生きるもの、体温のあるものを避ければ自然と、体温のない死体への愛着に変わる。

 死体は死んでいる。変わらない。害を及ぼすことはない。安全な……

 そして、非情にも【人に触れられず、死体に異様な興味を持つため、人へ害を及ぼす可能性がある】と≪ブルーマーク≫の判定を受けることになったのだ。

 そして恐らく、追いうちをかけたのは周囲の人間だ。

 なんで早く警察に言わなかった。

 早く引っ越せばよかった。

 そもそも、ストーカーされるようなことをしたんじゃないか?

 お前に原因があったんじゃないか?

 ストーカーされるお前が悪い。

 ストーカーを誘ったお前が悪い。

 お前が悪い。

 お前が悪い。

 お前が悪い。

 ≪ブルーマーク≫のお前が悪い。



「うっそだよーん」



 突然の明るい声に、蕗二は体を跳ねさせた。


「びっくりしたぁ? ぜんぶ嘘だよぉ? ずっと最初っから死体が好きだったの。だからマーク付いても当たり前なんだからぁ!」


 いつもの野村だった。さっきまで不安でたまらない、とうつむいていた彼女の全てが嘘だったように、あの会話を切り取って、なかったことにしようとする。

 あの日、死体に抱かれた野村紅葉を殺し、≪ブルーマーク≫の野村紅葉になろうと、必死で自分を偽っている。

 全てを捨てようとしているのだ。

 全てから目をそらしているのだ。

 じゃないと、生きていけなくて。

 湧き出すように目の奥が熱を持った。


「お前も、目をそらしてたんだな」


 なんとか声を絞り出した。かすれた声は、泣いているように聞えた。


「恐くて、恐くて、どうしたらいいかわかんなくて、でも、誰にもすがれなくて……」


 父が死んだあの日。

 むせび泣く母の、重荷にはなれないと。なぜか、そう思った。

 どれだけ周囲に慰められても、ちっとも楽にならない。

 あの日、どうすればよかったのか、後悔ばかりで。

 辛くて、でも生きないといけなくて。

 だから、目をそらした。

 蕗二は唇を噛み締める。強く噛みすぎて、かすかに血の味が口内に滲んだ。


「でも、野村。あいつは、杜山もりやまだけは違う」

「うそ、うそに決まってんじゃん……杜山だってアイツみたいに」

「あいつは幼馴染みなんだろ? お前が≪ブルーマーク≫になってから、態度は変わったか?」


 野村は何かに耐えるように息を止め、泣き出す寸前のように顔を歪めた。


「変わってない、あいつだけ……なにも変わらなかった……」


 声が震え、唇が震える。


「パパも、先生も、友達もみんなギクシャクして、わたしだって恐いのに、れ物みたいに避けられて……でも、杜山だけは、いつもと変わらなくて……」


 瞬きの合間に、涙が何度も転がり落ちる。せきを切ったように涙をあふれさせ、鼻を啜り、肩を震わせる。


「わたし、どうしたらいい? どうしたら……」


 蕗二は震える肩を撫でようとして止める。代わりにジャケットのポケットから、少ししわの入ったハンカチを手で伸ばし、差し出した。


杜山もりやまを、見てやってくれ」


 ハンカチで涙を押さえ、赤くなった目で蕗二を見上げた。


「わたしなんかが、彼の、そばにいても、いいの……?」

「ああ。目が覚めたとき、安心するから」


 鼻を大きくすすった野村は小さくうなづくときびすを返し、蕗二が曲がってきた角へと姿を消した。


「蕗二さん」


 その声に振り返ると、竹輔が立っていた。


「悪かったな、急にいなくなって」

「いえ、なんとなく分かります。蕗二さんに必要な事なら、いいんです」


 眉尻を下げ、怒っているようにもこまっているようにも見える。その後ろ、竹輔の陰にまぎれるように芳乃ほうのが立っていた。弱った様子はなく、ただ眠たげな目を蕗二に向けている。


「芳乃」

「ようやくですか」


 溜息交じりの声に、蕗二は強く頷く。


「ああ、後で話せるか」

「いいですよ。事件が終われば、ですけど」


 肩を上下させた芳乃はズポンのポケットに手を突っ込み、歩き出してしまった。

 蕗二と芳乃のやり取りを見守っていた竹輔が、気を取り直すようにわざとらしい咳払いをして蕗二と向き合う。


「事件の件ですが。片岡さんが、あのサイトからいろいろ見つけたようです」







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