File:6 逸らさない
AM11:33。警視庁6階資料室。
ノートパソコンが熱を排出する、わずかな音だけが聞こえる。
煌煌と光る画面は真っ白だ。その真ん中に警察IDとパスワードを打ち込める箇所がある。
キーボードに指を乗せては離し、また乗せ、力をこめるが指は抵抗するように震えるだけだ。
それを数分ずっと繰り返している様子にパソコンはあきれ、画面の光を落とした。
真っ暗になった画面に眉間を寄せ、鋭く睨む男が一人映し出される。
「クソッ」
蕗二は舌打ち、手のひらに爪を食い込ませた。
瞼を閉じるだけで、青い光が網膜を焼いている。
あの日、多くの命と、憧れだった父の命を奪った元凶。
≪ブルーマーク≫が憎い。
耳障りな嘲笑、鉄錆の匂いと赤い血溜まり。
≪ブルーマーク≫が憎い。
刑事として班長として、指揮を取り最悪の事態を迎えれば、たとえ【仲間】だとしても、多くの命を守るために拳銃の引き金に指をかける。
躊躇わない。躊躇えば、また犠牲が生まれる。
悲痛な叫び声をあげる母の背と、白い花に埋もれた父のように。
≪ブルーマーク≫が……
『刑事さん』
鮮明で冷たい声が鼓膜の奥で響く。
瞼裏、闇に半分体を沈めた芳乃の真っ黒な眼がこちらを見つめていた。
『あなたは刑事として、とても優秀だと思います。ですが、都合のいいところだけ見て、他を見ようとはしない。知ろうともしない。目をそらして知った気になってるだけだ』
闇の向こう、この世とあの世の境目に立っているような、ひどく曖昧で、どうしようもない恐怖を煽られる。
『三輪蕗二には、覚悟がない。ただの弱虫だ』
芳乃が黒い目を細め、蕗二の心の奥を見ている。
『あなたには≪視なきゃいけないもの≫が、あったはずです』
視なきゃいけないもの……
紫煙の中、菊田に渡された《あいつら》の情報だ。
おもちゃのような見かけとは裏腹に、重要な情報をたっぷり腹いっぱい抱えたUSBメモリ。
俺はそれを引き出しの奥へ投げ込んで、鍵をかけていた。
そう、俺にとってUSBの中身を見るということは、あいつらへと近くなるということだ。
≪ブルーマーク≫が憎い。許せない。許さない。
≪ブルーマーク≫の起こす犯罪を止めるためだけに、それだけのために生きてきた。そして、そのために目をそらしてきたことがあった。
≪ブルーマーク≫であると同時に、一人の人間であると言うことから。
何も知らない。知ろうとしない。
知りたくない。
知れば、知らなかったでは済まなくなる。
『いつまで目をそらすつもりですか』
芳乃は痛いほど凍った目を向けてくる。
目をそらしても、事実は変わらない。
それでも見ない振りをするのか。
目をそらすな。
みろ、見ろ、視ろ。
強い声に導かれるように、ゆっくりと目を開ける。
沈黙するパソコンが、蕗二を迎えるように画面を光らせた。
静かな部屋で一人、深く息を吸い、拳をほどく。
そっと、だが自らの意思を持って、指をキーボードの上に置いた。
病院に戻ると、人はずいぶん減っているように感じた。
ほんの数十分前に駆け込んだときの軌道を追うように、足を進める。
緊急外来と書かれた案内板の矢印の指す角を曲がると、見知った姿に蕗二は目を見開いた。
「野村……」
壁にもたれ、ぼんやりと宙を眺めていた野村は、蕗二の声に首を回した。蕗二の姿を捉えると、ひらりと手を振る。
「お前、もういいのか」
ひとつ頷かれる。野村の向こう、赤いランプは消えていた。
「杜山は?」
「一命は取り留めたよぉ」
「そうか、よかったな」
蕗二の呟きに野村の首が振られた。否定だ。
「ねぇ、三輪っち」
再び宙に視線を向け、息を吐きながら空気に紛れさせるように呟かれる。
「人間は死ぬ時は死ぬの。運がいいか悪いかだけ。刺されて死んだら、私は運がなかっただけ」
感情もなく、ただ文章を朗読するような声だ。
「そんな言い方、杜山に……」
「失礼?」
野村の眼が蕗二に照準を合わせた。目を吊り上げ、今までにないくらい敵意を剥き出しにする。
「冗談じゃない。勝手に庇って死にかけたあいつじゃなくて、私が責められるの? なんでよ、ふざけないでよ、意味わかんない! 庇われた私が悪いの? 私が刺されればよかったなら、そう言ったらいいじゃん! どうせ私は≪ブルーマーク≫なんだから、死んだってどうでもいいんでしょ!」
静かな廊下に野村の声が反響する。
それを正面から受け止めた蕗二は、拳を握りしめた。
「『あの事件』の後、そんなこと言われたのか?」
蕗二の声は穏やかだった。それには予想外だったらしい、野村は目を見開いて呆然と蕗二を見ていたが、吐き出された言葉の意味を理解して、顔から血の気を引かせた。
「うそ……だって、三輪っちって……」
「ああ、≪ブルーマーク≫が嫌いだ。≪ブルーマーク≫のことなんて、これっぽっちも知りたくなかった。
けど、本当は視なきゃいけなかったんだ。知らなきゃいけなかったんだ」
野村が、なんで≪ブルーマーク≫に指定されたのか。
それは六年前にさかのぼる。
一人の高校生、野村紅葉と言う少女が無断欠席をした。
担任の教師が家に電話をかけるが、呼び出し音は永遠と続くばかり。緊急連絡先から母親に電話するがこれも同じだった。
次に父親に連絡すると、3コールで繋がった。事情を説明すると、野村の父親は今しがた、出張先から帰ったところで、今まさに家の前だそうだ。
電話の向こう、鍵の開く音。
そして悲鳴とともに通話は切れた。
担任は震える手で警察に通報し、二人の警官とともに野村の家に向かう。
玄関は開け放たれていた。警官は応援を要請し、警棒片手に家へと入っていく。
玄関のすぐ右手に二階への階段、奥にはリビングがあるのだろう、ガラスのはまったドアが一つある。
それが少し開いている。
警官たちは慎重に足を進める。リビングへと続く廊下には錆びた鉄の臭いが充満していた。そっとドアを開けると、そこには野村の母親が黒ずんだ赤い血溜まりに沈んでいた。
一人の警官が腰を抜かし倒れこむが、もう一人の警官はまだ肝が据わっていた。
物音を立てないようにリビングを捜索する。
が、人の気配はない。ふと、上から重いものが倒れるような音がした。警官は慌ててリビングを飛び出し、二階へ続く階段を駆け上がった。一室の前に父親が座り込んでいた。
警官の姿を見ると、青い顔で部屋を指差した。
震える体を叱咤し、警官は警棒を構えたままそっと部屋に体を滑り込ませる。
明かりの消えた部屋、カーテンが窓から差し込むはずの光を遮り薄暗い。
部屋の奥、ベッドがあるのが見える。
その上に二つの影があった。
眼が慣れ、その影がはっきりと見えた途端、警官は悲鳴を上げないよう歯を食いしばるので精一杯だった。
バケツで浴びせられたように、真っ赤に染まった少女に男が被さっているのだ。
男は喉を一直線に掻き切って事切れていた。
その冷たい体が、ほぼ半裸の少女を抱いているのだ。
少女の上で絶命していた男は、アララギ。
ストーカーだった。
≪ブルーマーク≫に指定されていた男は、少女へと度重なるストーカー行為を重ね、厳重注意を受けたがそれを無視し続けていた。≪レッドマーク≫への検討がされていた最中のことだった。
遠くサイレンの音が聞こえる。
呻き声とも泣き声とも似つかない声で、少女の父親が泣いている。
せめてもと、警官は男の体を引き剥がそうと近づくと、ふと少女の瞼が動いた。そして虚ろな目で、警官を仰ぎ見る。
警官は歓喜に沸き、少女から急いで男の体を引き剥がそうとする。
しかし、少女に抱きつく重く冷たい体は、恐ろしいことに少女を放そうとしなかった。
応援に駆けつけた警官数人でもはがせず、死んでもなお執着する姿にその場の警官たちは思わず吐き戻した。
警察が男の関節を破壊し、少女・野村紅葉を救出したのは、事件が起きてから約12時間後のこと。
その間、冷たい男と繋がったままだった野村は、放心と発狂を繰り返していたという。
それから一ヵ月後、野村は≪ブルーマーク≫に指定された。
「あいつ、私が……好きだから、死ぬんだって言った……」
野村の声に、蕗二は記憶の海から上がる。野村の黒い眼が、虚空を見つめていた。
「杜山も、わたしが好きだから死ぬの?」
野村がゆっくりと蕗二に視線を戻した。迷子のような、不安げな瞳が見上げてくる。腹の前、恐怖に堪えるように服を握りこむ。
「生きてたらいつか死ぬのに、なんで、自分から命を絶とうとするのか、わからない……生きてる人の、考えが分からない……」
うつむいた野村が首を振ると、毛先が乾いた音を立て、顔を覆い隠した。
事件の後、野村はカウンセリングを受けていると記録されている。
それでも深い傷はいまだ残っている。
そして、心の傷を庇うために、野村は人に触れられなくなった。
生きるもの、体温のあるものを避ければ自然と、体温のない死体への愛着に変わる。
死体は死んでいる。変わらない。害を及ぼすことはない。安全な……
そして、非情にも【人に触れられず、死体に異様な興味を持つため、人へ害を及ぼす可能性がある】と≪ブルーマーク≫の判定を受けることになったのだ。
そして恐らく、追いうちをかけたのは周囲の人間だ。
なんで早く警察に言わなかった。
早く引っ越せばよかった。
そもそも、ストーカーされるようなことをしたんじゃないか?
お前に原因があったんじゃないか?
ストーカーされるお前が悪い。
ストーカーを誘ったお前が悪い。
お前が悪い。
お前が悪い。
お前が悪い。
≪ブルーマーク≫のお前が悪い。
「うっそだよーん」
突然の明るい声に、蕗二は体を跳ねさせた。
「びっくりしたぁ? ぜんぶ嘘だよぉ? ずっと最初っから死体が好きだったの。だからマーク付いても当たり前なんだからぁ!」
いつもの野村だった。さっきまで不安でたまらない、と俯いていた彼女の全てが嘘だったように、あの会話を切り取って、なかったことにしようとする。
あの日、死体に抱かれた野村紅葉を殺し、≪ブルーマーク≫の野村紅葉になろうと、必死で自分を偽っている。
全てを捨てようとしているのだ。
全てから目をそらしているのだ。
じゃないと、生きていけなくて。
湧き出すように目の奥が熱を持った。
「お前も、目をそらしてたんだな」
なんとか声を絞り出した。掠れた声は、泣いているように聞えた。
「恐くて、恐くて、どうしたらいいかわかんなくて、でも、誰にもすがれなくて……」
父が死んだあの日。
咽び泣く母の、重荷にはなれないと。なぜか、そう思った。
どれだけ周囲に慰められても、ちっとも楽にならない。
あの日、どうすればよかったのか、後悔ばかりで。
辛くて、でも生きないといけなくて。
だから、目をそらした。
蕗二は唇を噛み締める。強く噛みすぎて、かすかに血の味が口内に滲んだ。
「でも、野村。あいつは、杜山だけは違う」
「うそ、うそに決まってんじゃん……杜山だってアイツみたいに」
「あいつは幼馴染みなんだろ? お前が≪ブルーマーク≫になってから、態度は変わったか?」
野村は何かに耐えるように息を止め、泣き出す寸前のように顔を歪めた。
「変わってない、あいつだけ……なにも変わらなかった……」
声が震え、唇が震える。
「パパも、先生も、友達もみんなギクシャクして、わたしだって恐いのに、腫れ物みたいに避けられて……でも、杜山だけは、いつもと変わらなくて……」
瞬きの合間に、涙が何度も転がり落ちる。堰を切ったように涙を溢れさせ、鼻を啜り、肩を震わせる。
「わたし、どうしたらいい? どうしたら……」
蕗二は震える肩を撫でようとして止める。代わりにジャケットのポケットから、少し皺の入ったハンカチを手で伸ばし、差し出した。
「杜山を、見てやってくれ」
ハンカチで涙を押さえ、赤くなった目で蕗二を見上げた。
「わたしなんかが、彼の、そばにいても、いいの……?」
「ああ。目が覚めたとき、安心するから」
鼻を大きく啜った野村は小さく頷くと踵を返し、蕗二が曲がってきた角へと姿を消した。
「蕗二さん」
その声に振り返ると、竹輔が立っていた。
「悪かったな、急にいなくなって」
「いえ、なんとなく分かります。蕗二さんに必要な事なら、いいんです」
眉尻を下げ、怒っているようにも困っているようにも見える。その後ろ、竹輔の陰に紛れるように芳乃が立っていた。弱った様子はなく、ただ眠たげな目を蕗二に向けている。
「芳乃」
「ようやくですか」
溜息交じりの声に、蕗二は強く頷く。
「ああ、後で話せるか」
「いいですよ。事件が終われば、ですけど」
肩を上下させた芳乃はズポンのポケットに手を突っ込み、歩き出してしまった。
蕗二と芳乃のやり取りを見守っていた竹輔が、気を取り直すようにわざとらしい咳払いをして蕗二と向き合う。
「事件の件ですが。片岡さんが、あのサイトからいろいろ見つけたようです」




