File:4 視たくない
蕗二は鼻の湿布を剥がし、指先で腫れを確認する。
骨と言うか、奥の方に痛みはあるが、派手に腫れている感触はない。
「腫れてるか?」
「いいえ、赤いだけです」
竹輔が横に首を振るのに、安堵の溜息をつきながら建物の正面玄関を見つめる。
洒落た洋服専門店のようにガラス張りのエントランスの向こうには、広々としたラウンジがあり、奥にロビーが見える。ホテルといわれて案内されても、疑問を持たないかもしれない。
そのロビーの壁に、真っ白なユリの花をあしらった英文が見えた。
【Jibril】。
世界最大手の医療機器メーカーだ。医療機器だけでなく、製薬や健康関係にまで幅広く展開していて、海外企業といえど、日本でも知らないほうが珍しい。
芳乃はここへフィールドワークに行っているらしい。
建物をたどるように視線を上げ、白く高いビルを見上げた。
高層ビル群の中、一際目立つ白さに圧迫感や無機質さはなく、太陽の光をやわらかに抱き、神々しくも見えるから不思議だ。
眩しさに目を細めていると、脇を小突かれる。
視線をエントランスに向けなおすと、ガラス戸をくぐり抜けた人影に眼が止まる。見慣れた学ランではなく白いシャツに、夏が近いことを思い出す。
「よお、意外と早かったな」
「よおじゃありませんよ、まったく。迷惑なんですけど」
足音を踏み鳴らし、こちらを見上げる少年・芳乃蓮はいつも以上に不機嫌だった。
不機嫌なのは、まあいつものことだ。しばらくしたら収まるだろう。
「なあ。フィールドワークって、研究テーマ調べて発表するやつか?」
「聞かなくても分かりませんか?」
話題を振ってみるが、ますます機嫌は悪くなるばかりで、横目に睨まれあやうく舌打ちしかけたが、間に割り入って来た竹輔に遮られる。
「テーマはなんだったんですか?」
「ぼくの班は、日本の医療についてがテーマだったので、海外の現状を取材してました」
「高校生にしては難しい課題ですね」
「工場見学のほうが面白いのにな、話聞くばっかじゃだるいだろ」
「あなたと同じなのは、ものすごく不服ですが、まあそうですね」
「……んだよ、いつまで怒ってんだ?」
蕗二が眉を寄せると、芳乃はさらに機嫌を損ねたらしい。ズボンのポケットに手を突っ込んで、そっぽを向いた。竹輔が軽く顔を覗きこみ、手に持っていた携帯端末を指差した。
「僕ら、あそこで待つように片岡さんから指示されてたんです」
竹輔の言葉に、芳乃は横を向いたまま小さく呟いた。
「ハッキングされて、10分以内に外へ出ないと、爆音でアラーム鳴らすって脅されました」
「うわあー……」
竹輔が顔を引きつらせると、芳乃は横目に竹輔を見る。そして盛大に溜息をついた。
「もういいですよ。それで、事件は何ですか?」
「ええっと、今回は……」
歩き出した二人の、後について行く。
竹輔の説明を聞きながら考えているのか興味がないのか、前を向いたままの芳乃の旋毛を見下ろす。
黒い髪の間からちかりと、こちらを見る青い光。その冷たい光に目を細める。
犯罪者予備軍・通称≪ブルーマーク≫。
朝に遭った痴漢冤罪の男を思い出す。噛み付いてくるあたりは、芳乃に似ている気がする。警察と言う立場から、≪ブルーマーク≫であるがゆえの怒りや劣等感から攻撃的な態度を取られることはいくらでもある。
だが、芳乃は何かが違う。
もっと、根本と言うのか。
ふと氷の眼を思い出す。
平坦な声、冷たくこちらを貫く視線に背筋が凍る。
あれ。ふと疑問が浮かぶ。
あの日、市谷を逮捕した夜、俺はこいつに、何を言われた?
前を歩く背が止まった。横断歩道の信号は赤だった。目の前の小さな背と、氷の眼を持つ影が重ならず、確かめるように芳乃の頭を触る。
「なんですか」
不機嫌そうな声とともに、下から睨みつけられる。
不快だと、黒い眼は感情を剥き出しにしている。
なんだかそれに安心している自分がいて、誤魔化すように言い訳を口にする。
「いや、丁度いいところに頭あるなぁって?」
感触を確かめるように指を動かす。
意外と普通だ。もう少し柔らかいと思った。
と、感想を言う間もなく、手を叩き落とされる。
「意味が分かりません。あと、暑いんでやめてもらっていいですか」
「ふーん、そんなこと言われると逆にやりたくなるよな」
「ちょっ! やめてください、触らないでください!」
「竹、ワックス持ってねぇか? サイヤ人みたいにしてやる、って! 痛っ、いててて! 蹴るなって、蹴るなアホ!」
「もう、遊んでる場合じゃないですよ二人とも。ほら、信号青ですから」
竹輔はのんきに声を張り上げ、蕗二と芳乃の背を押してずんずん進む。
信号を渡り、駐車場へと足を進める。
奥に止めてあった白いセダンの運転席に乗り込み、自動車のエンジンボタンを押し込む。
メーターディスプレイがカラフルに点灯し、システムが展開していく。
すると、見計らったようにナビの真っ黒な液晶画面にCALLINGの文字が浮かんだ。画面下の応答ボタンに触れると、機嫌のいい男の声が響く。
『やあ、諸君。おはヨう』
「ん? 片岡、風邪引いたか?」
いつもの片岡なのだが、いつもよりほんの少しだけ声が硬い気がする。首を傾ける蕗二に片岡が笑った。
『さすが警部補、耳が良い。そちらに行きたいのは山々なのだが、会社の案件が大詰めでね。あいにく席を外せない。代わりにA.R.R.O.W.にしゃべってもらっている。音声にさほど違和感はないはずだが、まだまだ改良の余地はありそうだね』
AIとは思えない軽快な声で楽しげに笑う。それを遮るように、ハンドルを指で叩いた。
「で、何か見つけたか」
『うむ、そうだね。はっきり言ってこの犯人、相当優秀だ』
「何がだよ」
もったいぶる片岡を急かすと、どこか楽しげに声を弾ませる。
『あまり知られていないのだがね、犯人は≪リーダーシステム≫の弱点を突いている』
「弱点? そんなのあるのか?」
『≪ブルーマーク≫は単体ではほとんど役に立たない。≪リーダーシステム≫が発した微弱な電波に、≪ブルーマーク≫が反応を返して初めて機能する。その時の電波は微弱ゆえに人体への影響はないのだが、遮られると受信できない。つまり、車などに乗っていると機能しない』
「おい、それヤバくないか?」
『安心したまえ。すでに改善されている。今は車内のどこかに感知器が仕込まれてるそうだよ』
「じゃあ、犯人は旧式の車を使ってるのか?」
『恐らく。もしくは、感知器を外しているかだね』
「それを踏まえても、該当車は見当たらなかったのか?」
『そうなんだよ。防犯カメラとNシステムをシラミ潰したが、まったく見当たらない。プレートに小細工をした車も見当たらない』
竹輔が悔しげに歯を食いしばり、蕗二は唸り声を上げた。
目撃される車種が複数あることから、犯行に使われたのはレンタカーだろう。それならすぐ調べがつくはずだし、まず一課が調べているはずだ。
それでも見つからないのはなぜだ。
「もう一枚重ねてるんじゃないんですか?」
芳乃の突然の呟きに、蕗二と竹輔が同時に目を向ける。
「そうか、その手があったか!」
「うわあ、逆にシンプルで気がつかなかった!」
蕗二と竹輔が悔しそうに顔をゆがめる中、芳乃は居心地悪そうに座りなおす。
「……ぼく、今すごく適当な事言っただけですけど?」
「いや、一番簡単な方法だ。上からもう一枚被せるか、ナンバーを張り替えればいい」
「ナンバープレートって、そんな簡単に取れるものなんですか?」
「ああ、盗まれないように封印って器具がついてるけど、外し方がわかってれば簡単に盗めるし、前はついてねぇから外し放題だ。目撃されても、プレートをすぐに外して元のナンバーに戻せば、ばれっこない」
「目撃者も、走り去る車のナンバーを覚えるので精一杯なはずですしね。封印が外れてるか分からないでしょうし」
「ああ、そうだよな竹。本当に凡ミスだ、くそっ!」
犯人はただ焦らず、悠々と走っていればいい。ナンバーを変えればNシステムはもちろん、鵜の目鷹の目で探す自動車警邏隊も振り切れるはずだ。
問題は盗難プレートだと、なぜ誰一人と気が付けなかったかだ。
蕗二は鋭く舌打ち、ナビ画面の端で点滅するROUTE STARTの文字に触れる。車が静かに警視庁へと向かい始めた。片岡がふと思い出したように口を開く。
『そうだ、犯人が逮捕されたというニュース。まだ報道されていないが、いつまで持ちそうだね?』
「報道規制か? 上の判断によるだろうけど。それがどうかしたか?」
『いや、少し怪しいサイトを見つけたんだ。が、犯人逮捕の報道は、些かまずいなと思ってね』
「怪しいサイト?」
『うむ。どうやら面白そうな画像が載っているようなのだが、なにせ一見様お断りの招待型会員制でね。まだ確認できていない』
「確認できてないって、お前なら侵入できるだろ?」
『ああ、突破するのは鼻をほじりながらでも簡単にできる。だが恐らく、私が入り込んだ地点で認知されてしまうだろう』
「えーっと、認知されずに入れないってことですか?」
竹輔がこめかみを指で掻くと、片岡は不服といわんばかりに声を低くする。
『心外だ、気付かれずにできるよ。一般人相手ならね』
「と言うと?」
『向こうには私の≪同種≫がいるということだよ。恐らく、こちらが侵入した地点でサイトを破壊するウイルスが撒かれるようプログラムされている。こちらがサイトを破壊されまいとウイルスの対処に追われている隙に、本体は逃げるシナリオでも立てているのだろう。それは、君たちにとって危険じゃないかね? 犯人の逃亡に、証拠でもあるデータ消滅だ。ちなみにウイルスに破壊されたデータは復元できないよ。そのリスクを天秤にかけると、正当な方法で開けさせるのが得策だと思うのだが?』
片岡の言葉に、芳乃へと視線を向ける。
黒い眼が蕗二の視線を受け止めた。細められた目の奥、闇が深くなる。
「犯人、めんどくさそうですね」
「その前にしゃべってくれれば、問題はないんだけどな」
「それくらいの相手なら、まず≪ぼくら≫を呼ぶ必要ないですけどね」
『そうだとも、蓮くん。君からお願いするんだ。そして唱えてもらおう、Open the sesameってね!』
楽しげな片岡に、芳乃は窓枠に肘をついて、長く息を吐いた。
「やりたくありませんけど、今更戻るほうがめんどくさいです」
手のひらに顎を乗せ、静かに目を閉じる。
見えなくなった黒い眼を、これから『視る』ものの為に休ませているようにも、視たくないと拒むようにも見えた。
何か声をかけるべきか。
口を開いたが、ナビゲーションから到着を知らせる電子音に、口を噤まざるをえなくなった。
視線を向けた先、警視庁地下駐車場への入り口が、大きく口を開けて待ち構えていた。




