あたしが守るから その二
2
「すいません、あれを着せたのはあたしです……」
「いやいや、別に怒ってるわけじゃないから気にしなくていい。確かに驚いたが、それ以上にあの子が無事だったことにホッとしたよ」
江村先生は子供の帰りを喜ぶ親のような温かい表情でそう言った。
だが、瞬間的にその顔を厳しくする。
「しかし、俺はすぐにあの子の異変に気が付いた。俺はあの夜何があったのか尋ねた。だが、驚くべきことに……」
江村先生は一度言葉を切る。
その額から一筋の汗が滴る。
あたしと夏海は同時に息を飲んだ。
「あの子は何も覚えていなかった。自分がなぜあの家を出ようと思ったのかも、あの日生まれて初めて外に出たのだということも。そしてあの死体についても、何もかも、忘れてしまっていた」
--マジで記憶喪失。ごめんなさい。
--でもなんでだろう。どうしてぼくは外で寝てたりしたのかな?
初めて言葉を交わしたあの日、あの子は確かに自分のことをほとんど忘れてしまっていた。
もっと真剣に考えてあげればよかった。
原因を追求するべきだった。
あたしは自分のことで必死すぎて、最も大切なことを忘れていた。
底抜けに明るかったから、いつもバカみたいに笑ってたから、まさか、まさかそんな残酷すぎる心の傷をあの子が負っていたなんて、全く考えなかった。
いつも近くにいたのに。
一番近くにいたのに。
あたしは、何一つしてやれなかった。
何一つ、してあげようとしなかった。
「あたしの、せい、」
「そんなことない! ひまは悪くないよ!」
「うおっ!?」
あたしの言葉を思いっきり遮って夏海が言った。
「な、なによ、急に……?」
「自分が悪いって思ったんでしょ? いつも一緒にいたのに何も気付けなかったって、自分を責めてるんでしょ?」
夏海は怒った顔をあたしに思い切り近付けながら言った。
「なんで、それを……」
「分かるよ! だってひまのことだもん! ……確かにシャロちゃんは、本当に酷い目に遭ってしまったと思う。でもそれはひまのせいじゃない。悪いのは全部シャロちゃんのお父さんだよ。自分の娘を殺そうとした最低オヤジが全部悪いんだよ! だからひまは自分を責めないで。ひまが今すべきことは自分を責めることじゃない」
夏海は両手を胸に当てる。
「ひまが今すべきことは、シャロちゃんの心に寄り添うことだよ。一緒にいてあげて、心の傷を癒してあげることだよ。ひまならそれができる。シャロちゃんの一番近くにいたひまになら、きっとね……」
「夏海……」
夏海はいつもの素朴で可愛らしい笑顔をあたしに向けた。
「俺も吉岡さんと同意見だ。今は自分を責めている時じゃない。俺だってあの子を癒してあげたい。だが、俺じゃダメなんだ。俺があの子のそばにいては、あの子はまた父親のことを強く意識してしまう。君なら、いや、君たちなら、きっとあの子の心を癒してあげられるはずだ」
そう言って、江村先生は、
「シャロを、頼む」
深々とあたしたちに頭を下げた。
あたしと夏海はシャロが眠り続けている保健室へとやって来た。
シャロは固く目をつぶったまま目を覚ます様子はなかった。
「眠ってるね」
「そうね。怖い夢とか見てなければいいんだけど……」
あたしはシャロの頬に手を触れながら言った。
「あたしは、今日は帰らないでシャロの側にいるよ。江村先生も学校に泊まるらしいし、唯さんたちには友達の家に泊まるって言ってあるしね。夏海はどうする?」
「わたしも、泊まりたいのは山々なんだけど、お母さんが一人になっちゃうからなぁ……。ごめん、やっぱり今日は家に帰らないと」
夏海は申し訳なさそうに言った。
「いいよ、うん、夏海は帰った方がいい。夏海のお母さん料理下手だから、あんたが作ってあげないといけないしね」
「ごめんね、ひま……。お母さん、ほっとくと菓子パンぐらいしか食べないんだよね……。食事の管理はしてあげないと栄養が偏っちゃうからね」
世話のかかる親を持つと何かと大変だ。でも、ウチの親の方がもっと面倒だ。
唯さんはさっき電話した時、「そう、分かったわ」と言った後はぁと大きくため息をつき、「どうしてあなたは、私達の気持ちを分かってくれないのかしらね?」とよく分からないことを言った後電話を切ってしまった。
できることならもう帰りたくないと、その時あたしは思った。
夏海は九時前に学校を出て行った。
あとには、月の光に照らされて美しい輝きを放つ銀髪の眠り姫と、彼女の目覚めを待ち続ける無力なあたしだけが残された。
あたしはまたシャロの顔に手を触れてみる。
やはりあたたかい。
そのあたたかさがあたしを安心させる。
心を満たしていく。
そして同時に、心を抉っていく。
ふと、頬を涙が伝う。
泣きたいのはこの子のはずなのに、なんで、あたしが泣いてるのさ?
雫がシャロの頬に落ちる。
「あっ……」
シャロの閉じられた目からも、雫が溢れ出ていた。
「とう、こ……」
シャロが、女の子の名前を口にする。
もうこの世にはいない、親友の名前を。
あたしじゃ、無理なのかな?
シャロの心は、癒せないのかな?
瞳子さんの力があたしも欲しかった。
助けられるんじゃない、助けてあげられる力が、堪らなく欲しかった。
「あたしじゃ、ダメなのかな……?」
どんな答えが欲しかったんだろう?
必要だって、言って欲しかったんだろうか?
こんな時でも、あたしは自分のことばかり。
あたしは弱い。
どうしようもなく、弱い。
「ごめんね、シャロ……」
静かな保健室に、あたしの声が虚しく響いた。
続きます!




