招かれざる者 その三
3
あたしは制服の上着を脱いでからエプロンをつけ、一人台所に向かっていた。
唯さんはあたしの分の晩御飯は作っておいてくれているようだが、存在を認知されていない以上当然のことながらシャロには何も用意されていない。自分のはそれで足りそうなので、あたしはシャロのために何か作ってあげることにしたのである。
ちなみに、作っているのはチャーハンだ。
あたしの料理の腕をみくびっているシャロに一泡吹かせたいところだけど、残念ながら我が家の食料事情はあまり芳しくないらしく、冷蔵庫にはロクな材料が入っていなかった。
なのでやむなくあたしは、手頃な食材でできる最も簡単なチャーハンを選択したのだった。
手首のスナップを利かせてフライパンの上のチャーハンを踊らせる。良い具合にパラパラになってきたところで、あたしは手際良く皿を取り出し、サッと盛り付けた。
と、こんな感じで特に面白みもないけどチャーハン完成。
あたしは唯さんの用意したご飯と、チャーハンの皿をお盆に載せる。そして、あとは部屋で大人しく待ってるシャロに持っていくだけ、だったのだが……。
何の前触れもなく玄関の扉が開く音が聞こえ、すぐに、あいつがあたしの前に現れた。
「お、お父さん……」
薄汚い作業着を着た中年の男がそこにはいた。無精ひげを顎にたくわえ、ボサボサの白髪交じりの髪を汗で湿らせたその男は、工事現場から帰って来たせいで全体的に薄汚れていた。
そいつはかつて、酒に溺れ、誰彼構わず手を上げた。あたしにとってこの男はただの出来損ないだ。そんなあたしにとって害悪でしかない父親が、無言であたしのことを見つめていた。
「随分、早かったんだね……」
嫌悪感を必死で隠してあたしはそう言った。
「仕事が思ったより早く一段落してな。それ、お前の晩飯か?」
あいつはあたしの持つお盆を指差す。
「う、うん。これは、あたしの晩ご飯。お父さんの分は、今から作るから」
「別にいい。母さんには外で食って来るって言ってあったから、俺は近くのコンビニで弁当でも買ってくる」
そう言いつつ、視線をお盆の上の皿に向ける。
「なんだ、お前そんなに飯食うのか?」
あいつの目線の先には、あたしが作ったばかりのチャーハンがある。
「ちょっと、お腹が空いて……」
本当は、あいつが帰ってきた時点で食欲なんてなくなっていた。
でも、本当のことは言わない。ましてや、こんなやつには絶対言ってやらない。
シャロがここにいることを、誰にも悟られてはいけない。
あたしがそう言っても、あいつは尚も怪訝そうな目であたしを見る。
そして、ボソッとこう言った。
「生きるための苦労もしてないくせに、食う量だけは一丁前か……」
そう吐き捨てたあいつの顔を、あたしは決して忘れない。
忘れたくても、忘れられないとは思うけど。
あたしは自身の左手で、震える右手を掴む。
心を落ち着けるのに必死だった。
今にも、まな板の上の包丁を投げつけてしまいそうだった。
あんなクズ、大人になりきれなかった大人もどき、父親になるべきじゃなかった男の戯言に、一々腹を立てている場合じゃないと、もう一人の、冷静を装うあたしは言った。
「育ち盛りだから、沢山食べないといけないんだ……」
全身が震えていたけど、あたしはなんとか声を絞り出した。
あいつは、一度頭を搔いた後、
「……ちょっと、職場でイラついてな。今のに別に意味はない。気にするな……」
バツが悪そうにそう言うと、そのままキッチンを後にした。
時計の秒針の音が、嫌に鮮明に、あたしの耳に届く。
あたしは右手を固く握りしめ、高く振り上げ、そのまま、テーブルに叩きつけた。
「日真理?」
なぜか、メイド姿のシャロがそこにいた。
「バカ、勝手に出てこないでって、あれほど……」
シャロは、テーブルの上のあたしの右手を、その可憐な両の手にとった。
「赤くなってるよ? ダメだよ。ぼくは、日真理が痛がってるのは見たくない……」
「これくらい、痛くなんて……」
「痛いよ。それに、痛いのは手だけじゃない」
シャロは、ふくよかな自らの胸に自分の左手を当てる。
「ここが痛いのが、一番辛いよ。無理してぼくの前だけ笑わなくていい。日真理は、本気で笑ってる時が一番良いから」
言い終わると、ニシシと、シャロはいつもの様に笑った。
「そんなの、あんたらしくない……」
あたしのことを、そんなしっかりとした言葉で励ますなんて、そんなの、あたしが知ってるシャロじゃあり得ない。
するとシャロは、一瞬、ほんの一瞬、動揺したような、そんな感情を顔に出した。
でもすぐに、またニヤニヤした笑みをあたしに向けてこう言った。
「なーんてね! 夏海ならこんなこと言うかなーって思っただけだよ! どう? 夏海っぽかった?」
あたしは思わず言葉を失う。でも、
「二点かな。百点満点で」
いつも通りの毒舌をぶつけてやる。
「ひっくー! 低すぎるよ! あんまりだよ! No kidding!(冗談言うなよ!)」
「うっさい、英語かぶれ」
「かぶれてないよ! ぼくは日真理より英語できるだけだもん!」
「黙れ外人」
「なんかそれ凄い傷付くんですけど! ぼくはハーフですぅ! 外人じゃありませんから!」
「わかったってば……」
こんな感じで、あたしらはちょっと遅くなった晩御飯を、あたしの部屋で食べた。
シャロは夏海を真似したって言った。
でも、あたしは、それは多分嘘だと思う。
多分、彼女なりの照れ隠しなんだと思う。
彼女にも、確かに変化が見え始めている。記憶がないなりにも、頑張って世界と戦ってる。
あたしも変わらないといけないのかな?
励まされるだけの人生じゃ、やっぱり、ダメなのかな……?
あたしも、戦わないと、いけないのかな……?
でも、何と、どう戦えばいいの?
わからない。
何と戦えばいいの?
わからない。
何のために戦えばいいの?
わからない。
戦いの果てに、何が残るというの……?
答を、あたしは探している……。
翌日の放課後、あたしは、シャロ、夏海と三人で下校していた。
あたしたち帰宅部は言わずもがなだけど、夏海も今日はお家の用事があるらしく、あたしたちと同じように授業が終わるとすぐに学校を出たのだった。
「ひまっ! 何ぼけっとしてるの! そんなんじゃ転んじゃうよ!」
昨日の一件を引きずっていたあたしは、夏海の声で急速に現実に引き戻された。
「……あ、ああ、ごめん」
「日真理は今日もボケボケですねー! ダメだよ、ぼくみたいにもっとしっかりしないと!」
えっへんと、嫌味のようにシャロは胸を張る。
「そ、それには、わたしは少し同意しかねるけど……」
夏海はそんなシャロに苦笑いを浮かべていた。
まだ三月ということもあり、外はまだまだ肌寒い日が続いていた。
かくいうあたしも、まだまだブレザーの下のカーディガンは手放せそうになかった。
それに比べて、
「ほーらー、早く早く! そんなんじゃ家に着くのに日が暮れちゃうよ!」
三つ編みメガネっ子は、そのトレードマークのお下げを揺らして、実に元気よく歩道を駆け回っている。
「日真理、これは競争だからね! 負けた方はハンバーガー一個おごりね!」
ツインテール美少女は、その大きすぎる双丘をものともせず、ツヤツヤの銀髪を風になびかせながら、夏海の背中を追っている。
学校でがっつり授業を受けた後だというのに、どうしてこの二人はこんなに元気なのだろうか……?
「ひーまー! はーやーくー!」
「わ、わかったっての!」
こりゃ、少し鍛えないとダメなのかね……。
そう言えば、最近少しお腹周りがヤバくなってきた気がする…………。
「まずい……」
そう思うといても立ってもいられなくなり、あたしは前を行く二人を本気で追いかけ始めた。
「ん?」
でもすぐに、前を行く二人の様子がおかしいことに気付き、あたしはその足を止めた。
夏海とシャロの近くには、白髪混じりの、恐らく六十歳くらいと思われる中肉中背の男の人が立っていた。
その人は、なぜか異様に目を見開き、シャロに詰め寄ろうとしていた。
何かマズそうなのは明らかだった。
「すいません、この子に、何か用ですか?」
あたしはすかさずシャロと男性の間に入る。
横にいる夏海の瞳が不安げに揺れる。
シャロはあたしの服の袖をガッチリ掴んでいる。
あたしは睨みを利かせて、その男性を見た。
「そ、そんな、そんな訳がない……」
何やら、男性はそんなことを呟いていた。
「なにが、そんな訳ないんですか……?」
あたしは恐る恐る尋ねる。
「どうしてその子が、ここにいるんだ……?」
この人が何を言っているのか理解できない。
シャロがどこにいようと、この人には何ら関係はないはずなのに。
「ちょっと、そこで何をしているんですか!」
あたしたちの異様な様子を見て、付近の住人たちが集まり始めた。
「あなた、お隣の三室さんじゃない! やめなさいよ。この子達、怖がってるじゃないの!?」
小太りの同じく六十代くらいの女性が男性を制止する。
するとまた別の男性がやって来て、
「三室さん、あんたまだ六十二でしょ? ボケるには早すぎるんじゃないの?」
と、三室と呼ばれた老人の身体を揺すりながらそう言った。
しかし、近所の住人たちに話しかけられても、その人は変わらずシャロを見ていた。
そしてその人はまた口を開いた。
「その子が、ここにいる訳がない! 私は、私はこの目で見たんだ!」
興奮し始めたその人を、別の男性が二人がかりで抑える。
とても正気とは思えなかった。でもあたしは気になって、つい、その人に尋ねてしまっていた。
「見たって、なにを……?」
あたしが問うと、その人はこう言った。
「私は見たんだ! この子が血だらけになって倒れているのを見たんだ! 間違いない! あの時倒れていたのは、間違いなくその子だった!」
男性の言葉の意味は?
続きます!




