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14.ベルリンでの休暇⑤

 朗読が終わると、室内はしばらく静寂に包まれた。

 

 道徳的な観点から、その内容には納得のいく部分もあったけれど、私としては、まず気になるのは、その教理問答が男性が男性に宛てた「自分自身の向上」のためではなく、男性から女性へと、「他人への要求」として書かれたものだという点だった。


 しかし、そしてもちろん、読書会の参加者達はその論文を好意的に受け止めた。やがて、周りに座っている顔なじみ達と感想を言い合った。


「これは『十戒』をモチーフにして、妻のあり方を説いておられるのですな」

「自由な社会を実現するために、女性の在り方が簡潔に表されています」

「これは、氏が若かった頃の論文といいます。早熟の若者とはいるものですな」


 周りからはそのような意見が聞こえる。


 室内のざわつきがひとしきり止んだ後、主催者は質問を促した。


「意見の交換も済んだ頃と思います。それではみなさん、この論文の理解のために、みなで共有するべき事柄、質問はございませんか」


「「「……」」」


 司会のその言葉に、読書室は再び静かになった。


 この論文を理解するためのさらなる質問や、主旨に反論のある参加者はいないだろう。なにせこれは、男性から見た理想の女性像なのだ。


 さらに話すことがあるとすれば、現実の女性がいかに理想と乖離しているかという、各々の体験談くらいではないだろうか。


 女性同士集まれば、男性に関する過激な冗談を言い合うこともあるけれど、これから起こることはその逆なのだろう。


 そのような読書会の『討論』が始まる前に、ソフィーをここから連れ出そう。と、そう思った時。


「ないようでしたら━━」


 主催がそう言うと同時に、私の隣にちょこんと身を置く少女がその細く白い手を挙げた。


「はい、わたくし、質問がございます」


 突然響いた澄んだ声に、参加者の何人かは後ろを振り返り、その勇気ある声の主を凝視するのだった。


 発言という行為にすでに緊張していたソフィーは、視線に当てられ、ぴんと挙げた手を少しだけ引っ込めて、その頬を燃え上がらせた。


「ほう、このような、可愛らしいお嬢さんが発言を申し出るとは、感心なことです。シュライアーマッハー氏のお考えに感動なされたかな。まずは名前を名乗って、それから、発言を許しましょう」


「は、はい。わたくし、アンネソフィー・アルトハウスと申します。こちらのレギーナと、ザクセン地方の、アニオール村から参りました。シュライアーマッハー様の教理問答、興味深く、聴かせていただきました」


 ソフィーは立ち上がり、少しだけつまりながら、でも丁寧に自己紹介をして見せた。たどたどしい挨拶に、場は少しなごんだように見えた。


 田舎の娘が背伸びをして知的な社交場に顔を出したのだと、みなが思っただろう。そうしてソフィーは質問を続けた。


「それで、質問なのですが、六番の、ええと、なんといいましたっけ……」


 ソフィーのその言葉に、司会の男はその堅い顔を少しだけ引きつらせた。


「……六番、といいますと、『望んで子をなしてはいけません。あなたの子は、天からの授かりものなのです』の節、ですかな?」


「「「……」」」


 その時、場内に緊張が走ったことに、ソフィーは気づかなかった。


 その種の、ソフィーの頭にある質問が、公共の場で、しかも教会の主催する読書会では大きなタブーであることを彼女は知らなかった。


「そうです。その部分です。なぜ子どもを望んではならないのでしょう。男女が愛し合えば、子が生まれると、そう聞きました。夫を愛するということは、すてきなことですし、では夫との子を望むことも、すてきなことではないのでしょうか。そしてその部分は、最も大切な本にある、『実れ、増やせよ、地に満ちよ』といった教えとは、どういった関係になるでしょうか……」



 ソフィーのその質問に、室内はまた、一瞬の静寂に包まれた。



 それはほんとうに純粋な、自由な質問だったのだ。そもそもソフィーは、子どもがどうやってできるかも知らないだろう。天使が幸せな女性のお腹に運んできてくれると思っているかもしれない。


 聖書の一句と関連付けて考えられることも、褒められることなのだ。ゆっくりとではあるけれど、聖書を自分で読むことができる。ソフィーはそれが嬉しくて、夢中になって多くの箇所を暗記したのだ。そうやってこれまでに覚えた知識と、たった今新しく耳にした知識。その比較から生まれた質問だった。


 大人の男性の社交場で発言をしたということだけでも、彼女にとっては大きな一歩だったのだ。


 もちろん、経験を積んだ牧師様であるならば、ソフィーの質問に理論整然と答えることは簡単だろう。もしも私と一対一の授業だったなら、ソフィーの質問に優しく答えただろう。


『子どもは神様が遣わしてくださる尊い存在だから、自分から望むものではないのだ』という優しい返答は、しかし望めなかった。


 ゲストとして訪れた村の女の子が神学者の論文に疑問を投げかけ、『夫と愛し合い、子どもを望む』と発言したのだ。周りの教養ある参加者からは『この娘は子どもを、男性との肉体関係を望んでいる』と、そう理解された。


 目の前に座っていた敬虔な信徒と見られる男性がソフィーをにらみつけた。顔を真っ赤にして怒りを露にした。


「こ、この田舎娘が (Dieses Dorffräulein)!!」

「ひっ!」


 一人の男の怒りを皮切りに、他の参加者達も、申し合わせたように厳しい言葉を少女に向けた。


「いけませんなあ、そのような考えは」

「田舎では教育も行き届いていないとみえる」

「最近流行している『小説』などというもののせいかもしれない」

「そのような不純な考えを、このような少女が持っているとは」

「生まれ持って不届きな種をお持ちかもしれない」

「このような子どもこそ教育されねばなりますまい」


 自分の質問がどのように受け止められるか予想しなかったソフィーは、周りの反応に戸惑い、そして自分に向けられた怒りにただ恐怖した。


 それでも、彼女は声を絞り出した。全ては一瞬のことで、私はソフィーを守ることができなかった。


「えっ……あの…わ、わたくし……ただ、夫を愛するということを、聖書との、関係を……」


 ソフィーがその発言を言い終わる前に、主催者が遮った。


「あなたは、どうやらまだ善悪の判断がつかないようだ。地方の村の出身ということですね。お望みなら、ベルリンにいる間、教育を施してさしあげます。しかし、ひとまずは着席を」

「……はい……」


 力なく席に着いた彼女の顔は青白く、今や震えて消え入ってしまいそうだった。その姿はまるで、私がアニオール村を初めて訪れた時の、狩人に怯える小ウサギのようだった。


 怒鳴る大人。恐怖する彼女。


 それは、ソフィーが過去の家庭教師達から受けた教育の再現に他ならなかった。


「……行きましょう、ソフィー」

「……」


 それ以上言葉を発することのできないソフィーの手をとって、私達はその場から逃げるようにして退出したのだった。

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