帝都二年目の春 : 帝都を離れる少し前の話
「えっ、じゃあエトルリアに行くのは私とフィオ様だけなんですか?」
日課となった棒術の訓練を終えたサーシャとイレーネは、今後の学院生活の話をしていた。
驚きを隠していないサーシャに対し、呆れたようにイレーネはため息をついた。
「そうだよ。 じゃなければ貴女を雇ったりはしていないだろう? 生徒以外は寮には入れないのだから」
そもそも、寮に入る。 というのもサーシャにとって初耳だった…… もしかしたら、聞き流していたのかもしれないが。
ミスリルの魔石杖を地面に投げ出し、過去の記憶を探ったが、思い出せなかった。
「何度か言った覚えがあるのだがね…… まあいいさ、お嬢様がもう狙われるようなことはないだろうし」
イレーネは事故の真相がわかり、犯人が既に死んでいることに安心しきっているようだった。
あの日から随分経っているが、機嫌が良く、たまに鼻歌まで歌う始末だ。
サーシャはそれほど安心出来ていなかった。 また、この世界とは違う所から誰か来るかも知れないのだから。
「それに貴女が居る。 わたしは二年間で、自分の戦闘術のほとんどを教えつくしたつもりだ。 不審者ぐらいなら平気であしらえるだろうさ」
サーシャは酒場で絡まれた時、教えられた棒術で酔っ払いを撃退している。
フィオレンツァに近付いてくる、そこらへんの悪い虫程度ならどうにでもなるだろう。
「ん…… まぁそれぐらいでしたら、なんとかなるでしょうね。 なんだか自分が荒事に慣れてきてしまった気がします」
嫌そうなサーシャに、イレーネは呆れたような視線を投げた。
酒場に好んで行くのも、ヴィスコンティの事件を追求したのもサーシャが望んでやったことなのに、と。
そんな視線に気付いていないのか、サーシャは空を見上げながら思いを語る。
「それにしても寮ですか。 どんな所なんでしょうね」
サーシャは今後の生活が楽しみだった。 何しろ、生まれてから学生としての生活などしたことがないのだ。 それは前世でも今世でもだ。
しかも寮生活である。 本でしか知らないような世界だった。 前世でのサーシャの生活といえば、組織の白い部屋か、国に与えられたマンションの一室ぐらいだ。
「お嬢様の護衛として、必死にならなくて済んだのは良かったね、サーシャ。 貴女も学院生活を楽しむといいよ」
「ええ、そうですね。 私、結構楽しみです」
体験したことがない事をするのは楽しいものだ、とサーシャは思う。
学院ではどんなことが待っているのだろうと想像すると、人知れず笑みが浮かんでくるようだった。
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アレシアとクラリアと共に買い物をしていたサーシャは、先程のイレーネとの会話を思い出していた。
エトルリアに向かうのがサーシャとフィオレンツァだけだとすると、同行している彼女達ともお別れだということになる。
領地の管理も、フィオレンツァがエトルリアの寮から行うようだった。 だから、あまり帝都に戻ってくることも無いだろう。
毎日会っている人間と会わなくなる。 そう思うとサーシャは少し寂しくなった。
「どうしたの? サーシャ。 俯いて」
俯くサーシャをアレシアが覗き込んでくる。 彼女の表情には、妹を心配するような温かみがあった。
「もうここを離れることになるのだなと思うと、少し……」
自分との別れを悲しがってくれている。 そう受け取ったアレシアはサーシャに抱きついた。
「わたしも寂しい。 けど、サーシャがそんな風に考えてくれるのは嬉しいよ」
感動的な画面だったが、アレシアの豊満な胸に押し潰されていたサーシャは、息が出来ずにいた。
「アレシア。 サーシャ死んじゃう」
ハッとした表情になったアレシアは、サーシャを離した。 死の淵から救われたサーシャは胸いっぱいに酸素を吸い込んだ。
それにしても、とクラリアが過去を振り返る。
「サーシャが来てもう二年かー 長いようで短かった気もするねー」
「また戻ってきますよ。 三年間ずっと戻って来ないわけじゃありませんし」
もうすぐ来る別れを惜しみながら、彼女たちは用件を済まして行く。
それは、仲の良い姉妹のようにも見えた。
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「とうとう明日ですか……」
サーシャは自室の机に羊皮紙を広げ、帝都でのやり残しがないかをまとめていた。
「古文書の調べ漏れは無し、カティさんには何かあったらお兄様に連絡するように言った……」
ダーシャには『通信』の魔石がある。 いざとなったらそれで連絡してもらえば良い。
王城の古文書は二年間でほとんど紐解いたが、最初に調べた以上の新発見はあまりなかった。 服飾や細工の資料は豊富だったが、サーシャにとっては必要無かった。
「若宮兄妹はロドリゴの屋敷に残っている…… ロドリゴが調べていた帰り方で、何か発見があるかどうかでしょうね」
それもあるが、彼らも生活をする必要がある。 今の職を離れる事に不安があるのだろう。 それに帰るにしろ取っ掛かりが無い、急ぐに急げないのだ。
その状況を気の毒には思うが、サーシャはある程度、利用させてもらっている。
「彼らがロドリゴの遺産を管理してくれていれば、ある程度は安心出来ますしね」
ロドリゴが遺した現代知識を利用した物は、まとめて瑞穂に管理させている。
大体は監禁していた地下室から見つかった、ろくでもないものだったが。
「工房としては、エトルリアに行ったリタを頼ればいいですかね…… まぁ、あまり必要も無いでしょうけどね。 エトルリアは安全だそうですし。 ううん…… もう何もないでしょうか」
羊皮紙に書いた心配事を塗りつぶしながら、サーシャは羽ペンで頭をコツコツと突く。
ロドリゴのような野望を持った人間が現れないかが心配だが、サーシャには調べようがない。 居るかどうかもわからない脅威に怯えるのは、杞憂というものだろう。
(どうも僕は考えすぎるな。 これ以上は考えても無駄だ。 イレーネさんが言うように学院生活を楽しめばいいか。 寮だったっけ……)
そこでサーシャは気付いてしまった。
「もしかして…… 女子寮なんじゃないでしょうか……」
生徒が女子しか居ない以上、それは当たり前のことだったのだが。 サーシャは今まで気づいていなかった。
「なんて事でしょう…… 一人部屋なのを期待するしかないですね……」
寝ている間ぐらいは安心したかった。 サーシャの擬態は寝ている間は、効果を発揮しないのだから。
「た、対策を考えないと……」
新たに発生した心労が、胃を攻撃し始めた感覚を覚えながら。 サーシャは必死に対策を考えながら眠りについた。




