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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
後日談ほか番外
99/133

悪魔の腹が満ちるまで(前)

悪魔エトラムの半生。2~3話予定。


※自死・残酷描写注意※

 



 太い梁から重たげな塊がみっつ、吊り下がっていた。

 だらりと伸びたそれが、板壁の隙間から射し込む弱い月光を黒く切り取る。

 風が唸り木々がざわめく。粗末な小屋が身じろぎすると、宙吊りの影もゆらりと揺れて、縄が軋んだ。異臭を放つ滴がぽとりと落ちる。

 暗がりの中で蠅が飛び、鼠が走り抜けていく。

 床には白い霧が漂っていた。ぼんやりとした人の形にまとまって、すすり泣きながら。


 ――て……どうして。おとうさん、苦しい。痛いよ。あたし、いらない子なの? 悪い子だから? おなかすいたよぅ……おかあさぁ……ん……


 幼子が座り込んだまま嘆く。そのすぐ近くに漂う大人の影は、我が子の存在に気付けない。


 ――どうして俺が、こんな目に……ああ、神様。おたすけください……

 ――疲れた……もう無理、生きていけない……ごめんね、ごめんね……


 それぞれが己の苦しみに憑かれ、何も見えず何も聞こえないまま、ただその場で悶え呻き続ける。


 ――おかあさん、どこ? へんじして。かみさま。かみさま、たすけてください……


 幼子の影が、輪郭を失ってゆるゆると崩れ始める。呼応するように、壁際の暗がりで闇が濃く凝ってゆく。飛び回っていた蠅の羽音がぱたりと止んだ。

 闇が形をとる。梁からぶら下がるものよりも、はっきりと人間らしい形を。そして一歩、踏み出した。


 それだけで、白い霧がすうっと引き寄せられていく。何の抵抗もなく闇の中へ吸い込まれて、むなしく木霊する嘆きの声もじきに消えた。

 闇が濃さを増す。その裡では、新たに喰らった霊魂のもたらした記憶が、ゆっくりと消化されていた。


 繁栄と安定を誇っていた大国の、突然の消失。

 この土地にまで直接のかかわりはなかったというのに、激変の津波はつましい一家の暮らしを押し流した。

 食糧不足。物流と治安の崩壊。死者の霊が地上をさまよい始め、おぞましい黒い闇に憑かれた生き物が暴れだし、従来の祭祀も祈祷も力を失って。神は応えず、正確な情報はどこからも入らず、王も貴族も民を棄て、誰もが保身に走った。

 一家の蓄えも瞬く間に底を突き、窮状に付け入った隣人によって何もかも奪われたのだ。


 ――どうしてこんな目に。神よ。


 最後に残った感情を、これまでに喰らった数多の魂と同じところへ溶け込ませると、闇はほっと息をついた。

 と同時に、何の物音もなく小屋の戸が開いた。


「あら残念。先を越されちゃったわね」


 月光の下に佇む女が言った。むろん生者ではない。場違いに華やかな衣装をまとい、こってりと化粧をした女の姿をしてはいるが、それが仮初めのかたちにすぎないことは、両足が地面から浮いていることからも明らかだ。

 一家を喰らった闇はゆっくりと振り向き、その輪郭を鮮明にした。現れた少女の姿に、女が眉を上げる。


「意外だわ。あなたみたいな女の子が生き残っているなんてね。その服、元は神官か巫女かってところかしら」

「……私はエトラム。偉大なる炎に仕える者です。かつては大祭司をつとめておりました」


 警戒を孕む静かな声で応じ、少女は軽く頭を下げる。女はおどけて優雅な礼を返した。


「ご丁寧に。あたしはツェファム、ご覧の通り娼婦よ。……ふぅん、三人いたのね。ま、いいわ。すぐに次が見付かるでしょ。そんなにおなかぺこぺこでもないし」


 小屋の奥を覗いて娼婦は言い、エトラムを手招きする。生者でも死者でもないふたりは、連れだって外に出た。


 茅葺き屋根と粗末な板壁の民家が、不規則に寄り集まった村。月明かりはあるものの出歩く人はなく、村ぜんたいが荒み、疲れ果てている。夜の底に沈澱した泥のように静かだ。きっと夜が明けて一家の末路を誰かが見付けても、たいした騒ぎにならないだろう。せいぜい、この家と土地を誰が手に入れてどうするのか、に関心が集まるだけだ。


 ツェファムは特に目的もなく、ゆったり踊るように歩き回りながら、一人でしゃべり続ける。


「美味しかった? でもないか。どうせいつものあれでしょ、どうしてこうなった、誰か助けて、神さまぁ、って。……ああ、そうか。そういうわけね」

「……?」

「あたしはふしだらな娼婦。あなたは清らかな巫女。正反対なのに、やってることは同じ。だから巫女様も、食べられる側じゃなくて食べる側なのねぇ。憐れで惨めな皆様を慰めて差し上げるのが、あたしたちの仕事ってわけ」

「慰め……かどうか。私は彼らの神を知りません。せめて我が神のもとへ送りたくても、今はもう遠くて」

「神様のことはよく知らないけど。ふふっ、笑っちゃうわよね、あたしたちみたいな“生き残り”が今、なんて呼ばれてるか知ってる? 悪魔よ、“悪魔”! あっは、よくも言えたものだわ。悪魔ってのはそれこそ、世界をこんなにしたあの連中のほうじゃないの。ねえ、そう思うでしょ? ……ああ、それともあなたは、まだ何も知らないのかしら」


 ふとツェファムが真顔になる。見つめられたエトラムは、「いいえ」と目を伏せた。


「かつて塔にいた神祇官をふたりばかり、食べたので。あらましは」

「そう」


 短く答えた娼婦の声は苦い。エトラムは数年前の記憶を反芻した。



   ※



 かつての帝国辺境、今は滅びの砂漠からかろうじて逃れた者たちの都で、ひとりの男が眠れぬ夜を過ごしていた。


「無理だ……ああもう、耐えられない……くそっ、なんで……うう」


 呻き、罵り、壊れたように呪詛の言葉を早口に繰り返し、額を壁に打ちつける。何度も、何度も。食いしばった歯の隙間に、頬を伝った涙が流れ込む。

 震える息を吐いて仰向き、天を睨んで何事か訴えようと口を開いたものの、漏れ出たのは嗚咽だけだった。彼は顔を歪め、むなしくうなだれる。

 もう神はいないのだ。

 彼と彼の上司たち仲間たちが、愚かにも神々の恩寵を地上から消し去った。人の身でありながら、神々に近しい天上の世界で生きようなどともくろんだから。


「……せめて、地の底は無事だろうか。冥界の神(ニシャタ)様、まだ我らをお見捨てでなければ、どうか……どうか、お聞き届けください。もう……もう無理です、どうか死なせてください」


 顔を覆い、すすり泣く。

 太陽が空にある間は彼も、己の過ちをなんとか償おうと、世界に新たな秩序をもたらそうと、奮闘を続けていた。だがそれも限界だ。もうごまかせない。罪から目を背け、まるで全部他人のせいであるかのように装って過ごすなど。


 彼は衝動的に、机上の小刀を掴んだ。ペン先を削り、果物を剝き、何かとよく働く生産的な道具。だが今は違う。


 袖をまくり、腕の内側、日に焼けておらず柔らかい肌に刃を当てる。

 そこには既に無数の白い傷跡が走っていた。それを睨みつける双眼から、大粒の涙が次々に落ちる。

 ここに新しく何本か追加して、また明日を迎えるのか。

 幾度となく繰り返してきた夜と同じく、また一日、もう一日、ずるずると。


「――ぁぁああっ!」


 絶叫するなり、彼は小刀を床に投げつけ、窓に突進した。板の鎧戸を突き破り、頭から落ちていく。首の骨が折れたことを、知覚する刹那もなかった。



   ※



「今、あそこは自ら聖都を名乗っているのですね」

「らしいわねぇ。図々しい連中が立ち直って、以前の神術を復活させようと頑張ってるせいで、あんまり近付けなくなっちゃったけど。……どうするつもりなのかしらね」

「どう、とは?」

「もう一回挑戦するのか、ってことよ」


 ツェファムが肩を竦める。エトラムは目を丸くした。天を仰ぎ、月に答えを求めたが、むろん何も聞こえない。


「まさか」

「ええ、あたしもまさかと思うわよ。世界を巻き込む大失敗をしでかしておいて、懲りずに神々の仲間入りをしようなんて馬鹿でしょ。だけどそもそも、よっぽどの大馬鹿だから、やらかしたわけだし? その馬鹿どもが逃げ延びて、聖都だの教会だのって言い出してるわけだし?」

「……」


 エトラムは黙って首を振った。無意識にため息がこぼれる。

 かつて神殿にいた頃の自分だったなら、至尊の七賢人を馬鹿呼ばわりするなど、衝撃のあまり失神しかねなかったろうに。

 喰らった霊魂の記憶と経験を取り込んで、本来の認識と理想と夢を失ってもなお、果たして己は“エトラム”だと名乗れる存在なのだろうか。

 そんな今の己の考えでは、落ち延びたかつての聖なる人々がこの世界をどうするつもりなのか、あまり明るい展望を描けそうにない。


 彼女の沈黙をどう取ったのか。ツェファムはふっと小さく笑った。


「あいつらのことより、あたしたち自身の心配が先だわね。身体が無いのにおなかが空くし、だからって手当たり次第に食べてるとなんだか胸焼けしそうなのばっかりだし。まぁ、食べ過ぎてもぶくぶく太らないのはいいけど……待って、まさか太った? ねえ、どうかしら」


 急にまるで普通の人間のようなことを言い、元娼婦は仮初めの身体を見下ろしてそわそわした。重さを確かめるように、爪先立ってくるりと回る。エトラムは一瞬ぽかんとし、次いで笑いをこぼした。


「元の姿を存じませんので、なんとも。でも、見る限りではすんなりと美しい姿をしておいでですよ」

「そう? そうよね? ありがと、ほっとしたわ。この前ちょっと一度に食べ過ぎた時は、さすがに重たく感じたもの……あんまり調子に乗っちゃだめね。いつまでこの状態でいられるのか分からないんだし、ほどほどにしなきゃ」

「……そうですね」


 相槌を打ち、エトラムは己の手を見つめた。

 いつまで――いつかは、我が神の御許へゆけるのだろうか。あの素晴らしく幸いな『完全』に、今度こそ拒まれることなく、迎えられる日が。


 そこではたと気付き、目の前の仲間を見る。彼女はあの『完全』を経験したのだろうか。あの運命の日に、どこかの神殿に集って栄光の瞬間を待っていた?

 そんな殊勝な人間だったようには思われないのだが……もしあれを経験していないのならば、こんな状態になって先の見通しも立たない今、何をもって希望とするのだろうか。


 尋ねてみたくはあったが、お互いにとって残酷な質問だろう。結局エトラムは沈黙を保った。

 あまり会話の弾まない相手に飽きたのか、ツェファムはふわりと宙に浮かんで別れを告げた。


「お互い“生きている”と言えるかどうか怪しいけど、せっかく生き残ったんだもの、せいぜい楽しみましょ。あっさり食べられて終わりだなんて、つまらないわ。それじゃあね、巫女様。また会うことがあれば、今度は食事を一緒にできると嬉しいわ」


 妖艶な笑みを残し、女の姿が闇に溶けて消える。

 取り残されたエトラムは、しばし月明かりの下にぽつんと佇み、ただ夜の声に耳を澄ませていた。



   ※



 なぜ。どうして。

 幾度となく問いかけ、何の答えも得られないまま歳月が過ぎた。


 いつしかエトラムは、問うことをやめていた。

 なぜ自分がこんなかたちで地上に残されたのか。こんな“生き方”をせねばならない意味は何なのか。無知ゆえ犯した傲慢に対する罰なのだとしても、永劫に赦されないのでは、あまりにむごい。

 神に問うても啓示は降りず、喰らった霊魂の知識を総ざらえしても手がかりひとつ無い。


 だから、何も考えずただ求めに応じ続けた。

 もういやだ、誰か助けて――そう救いを求める声に。


 使命感や憐憫の情があったわけではない。ただ、無条件にそうした声に引き寄せられてしまうだけだ。恐らく自身こそが、救われたいと願っているがために。


 何十人と喰らい、何十年と過ぎた。

 悪魔と呼ばれることにも慣れ、百年を越えた辺りからは年月の感覚が麻痺してしまった。いつの間にか世界には新しい秩序が根付き、気付けばあれほど至る所に溢れていた彷徨える魂が、ずいぶん少なくなっていた。


 七賢人の跡継ぎたちは、どうやらそれなりの成果を上げたらしい。

 司祭が銀環を握って古い言葉を唱え、不安定な霊魂を“あちら側”へと送るのを初めて目にした時、エトラムは言いようのない感情を抱いた。


 羨望と悔しさ。そして誇らしさと高揚。


 あんなに細く弱々しい霊力の流れで、あちらへ行けてしまう魂が羨ましかった。

 それを可能にした人々の執念、いにしえの知識と術を受け継ぎ修正してここまで漕ぎ着けた努力には、かつて神殿に属した一人として、素直に称賛の念を抱いた。


 ――だがそれも、結局は我が身にかかわりのないことだ。

 じきに新鮮さは失われ、ふたたび感情は鈍磨した。

 結局、人間のいとなみは根本的にたいして変わらず、虐げたり奪われたり、手を取り合ったかと思えば喉笛に喰らいついたり。


 そんなある時、ひとりの男が悪魔を喚んだ。




(続く)

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