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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
後日談ほか番外
94/133

師資相承くものは(前)

※ここからは主に後日談の番外編になるため、本編読了を前提としております。

閲覧に際してはネタバレ他諸々ご了承のほどを。


師資しし相承あいうく」=師の教えや技芸を受け継ぐこと。師資(しし)相承そうじょう

本編完結から一年余り後のエリアス(エリシュカ)の話。前後2頁。


 部屋の最奥、教皇の椅子にでっぷりした白髪の男が座っている。元聖職者省長官、バシュタ枢機卿だ。前に置かれた長机の下座から、赤毛の女司祭は冷ややかに相手を観察していた。


 かつてすべての聖職者の人事権を握っていた男は、その冷酷さを恐れられると同時に憎まれ、陰で豚と謗られていた。今ではその印象は薄れている。

 あの『復活の日』、崩れた柱の下敷きになって一度死んだ彼は、甦って以後、人が変わったように謙虚になった。


 彼が教皇の席に座りながらも以前と同じ名を使っているのも、その変化のあらわれだ。

 混乱のさなかとはいえ教皇がいつまでも空位では物事が定まらない、しかし選挙もままならない、という状況で、経歴や年齢諸々を考えあわせてバシュタを推す声が上がった時、彼は「あくまで次への繋ぎとして」それを受けた。新しい教会を代表して聖なるつとめを果たすにふさわしいのは己ではない、というのだ。


 ちなみに以前は所在不明だった首の判別がつくようになったのは、謙虚さと摂生のゆえではない。単に食料の生産流通が支障をきたし、食事について以前の質と量を維持できなくなったからである。

 とはいえその現状を文句ひとつ言わず受容しているあたりは、やはり楽園の手前まで行ったおかげだろう。


(そうでなかったら面倒きわまりないところだった)


 エリアスは内心鼻を鳴らす。室内には他に、各省長官や幾人かの課長が顔を揃えていた。正式に議会を開いて採決に至る前の意見調整会議だ。


 ハラヴァ枢機卿は『通廊』で死んだため、遺体も存在しない。前教皇も生き返らず、かつてのハラヴァ派で今も聖都の要職にあるのはムラクだけだ。

 かつてヴィフナーレクの腰巾着だったツルハ大司教が、相変わらずの皮肉っぽいおもねる表情でねちっこく言った。


「しかしやはり懸念は拭えませんな。諸兄、いかがですか。学院で女と机を接して学び、祭壇の前に女と並んで礼拝を執り行う……いかにも落ち着かない、危うさに満ちた光景ではありませんか。女にしても、そのような境遇にあえて身を置かずとも、もっと安全な生き方がありましょう」


 そこで彼はわざとらしく赤毛の司祭を振り向き、初めて刺すような視線に気付いた素振りで身を竦めた。


「おお誤解なきよう、むろんエリシュカ司祭の実績を認めるにやぶさかではありませんぞ。しかしそれは特殊な事情のもと、傑出した逸材なればこそ為し得た偉業。同じことを要求するのは酷というもの、ひとまずは貴殿のみ特例と認めることで、後に続こうとする志ある者に標を残せば充分ではありませんかな」


 どうですこれで手を打ちませんか、と細めた目が語る。エリアス――エリシュカは胸中で罵った。にやにやしやがって気持ち悪い、こいつも一度死ねば良かったのに。

 物騒な悪態は眼光に込めるだけにとどめ、彼女は冷ややかに口を開いた。


「それこそ酷というものでは? 司祭になるとは子を生さぬこと。男である方々でもいくらかは肩身の狭い思いをなさったか、あるいは時にふとこれで良かったかと人生を顧みられたことがありましょう。であるというのに、まさに子を産み育てる役目を担う女が、たった一人の前例を頼みとして固い門扉をこじ開けるのがどれほど困難であるか。せめて開かれていれば、一歩踏み入れることも叶いましょうに」


 敢えて感情を込めず淡々と述べ、一同を見回す。大半はあまり面白くなさそうな顔つきだった。


「むろん、教会が認めたからとて司祭を目指す女が続々と現れるとは、私も考えておりません。しかし今後再び世界の人々を守り導いてゆこうとする教会が、復活の象徴たる『光焔の聖女』を戴いておきながら、旧態依然の理由で女を締め出したままというのでは、示しがつきますまい。さらに……ツルハ様は何度も『危うい』と仰せられましたが」


 冷ややかに狐顔の男を瞥見する。脳裏に古い記憶が鮮やかによみがえった。イスクリの山小屋、司祭でありながら卑しい誘惑に負けた男。無意識に口調がかつての師をなぞる。


「同じく堅信と貞潔の誓いを立て聖職を志す者に対してさえ動揺するのであれば、そもそも司祭になるべきではありますまい。飢えを律せぬ狼に羊の群を任せるなど、牧人の正気が疑われますぞ」


 容赦なく断じられてツルハが顔を赤くする。教皇の席でバシュタが苦笑した。

「まるでグラジェフを見るようだな」

 それを援護と取ってか、ツルハは言い訳がましい笑みを取り繕い、困ったものだとばかりに首を振る。

「まったくです。せっかく見た目が女らしくなったのだから、可愛げのある態度を取れば良いものを」


 あからさまな軽侮の声音だった。エリシュカはおやと眉を上げて見せる。確かにあの『復活の日』以後、声だけでなく顔や体つきもはっきりと女らしく変化してきた。今ではもう、ゆったりした祭服姿でも間違われることはないだろう。しかしだからとて可愛げを要求されるとは、何の冗談か。


「これは興味深い。あなたは男にも同じことをおっしゃるのですか? せっかく男らしい見た目なのだからもっと別な態度を取れ、と」


 たとえば男娼のような――という言外の揶揄は、間違いなく伝わった。ツルハの顔が歪み、赤黒くなる。


「そこまで。充分だ、両人とも言葉を控えなさい」

 バシュタが仲裁に入り、剣呑な緊張が解けた。他人を意のままに動かすことに慣れた元長官は、厳しさと温情を巧みに配合した言葉で場を仕切り、本来の目的へと進めていく。


 エリシュカは内心不愉快ながらも、そうした実務的・政治的な手腕については素直に認めざるを得なかった。浄化特使として悪魔と戦うことにかけては自負も自信もあったが、ほとんど常に単独行動であったがゆえに、集団行動や組織内での立ち回り方には疎い。


(しかし今後は否応なくそれを身につけなければ。この豚爺は気に入らないが、学ぶべきところは多い。目を開き耳を澄ませて多くを知れ)


 馴染んだ言葉を思い浮かべたところで、胸にふわりと懐かしさが広がる。


 ――同じやり方をしろとは言わんよ。


 少しばかりおどけた、温かい笑みを含んだ声。わかっています、とかつての己に戻ったように言い返した。


(私があの老獪さを真似ても使いこなせない。今はただ学び、己がどう対応すべきか、利用できるかを考えるだけです)




 女性聖職者を認めること、教典における『悪魔』の記述についての修正、その他諸々の事柄について本審議の前におよその合意がなされ、採決前に調べて提示すべき事柄の確認が終わって、やっと会議は解散となった。

 お疲れ様でした、いやまだこれからが……ざわめきながら退室する人の流れに運ばれてエリシュカも外に出ると、青空を仰いでほっと息をつく。


「さすがに疲れたかね」


 背後から声をかけたのは、ムラクだった。眼鏡の奥の目はどこか犬に似ていて、善良で誠実そうな印象を与える。エリシュカは振り向き、わずかに肩を竦めた。


「ムラク様こそ、上があれではお疲れでしょう」


 あれ、とは先刻やりあったツルハ、教理典礼省長官である。その下の秘術審理課長であるムラクは穏便に応じた。


「慣れているよ。それより先日の論文は大変素晴らしかった、感謝する。悪魔と直接相対したこともなく、復活者でもない私にはまことにありがたい。悪魔のなんたるか、聖女の目指した救いが何であったか、理解を非常に深めてくれた」


 聖都の最奥にこもって学究三昧の暮らしを送っていたムラクは、話し方が微妙に文語的だ。ハラヴァやバシュタに比べてかなり若いが、世慣れていない印象なのは年齢のせいだけではあるまい。それでも人付き合いは苦でないらしく、抑制しつつも嬉しそうだ。


「悪魔と呼ばれる存在の正体がいにしえの人間達であることは、私もハラヴァ様も承知していたが……彼らのふるまいがなぜ“悪魔的”であったのか。貴殿の論文を読んで初めて腑に落ちた」

「あまり悪魔と長く付き合った司祭がいなかったのですから、それも当然かと」


 エリシュカは複雑な気分で答えた。


 ――救いたまえ、救いたまえ……


 今もなお、静かなゆうべに瞼を下ろすと、あの遙かな無数の祈りが聞こえる気がする。

 苦しみ多き地上世界を逃れ、天上にやすらうことを願った人々の切なる訴え。一度は楽園に入れたと思ったのに、弾き出された人々の悲哀。


 だからこそ彼らは『悪魔』となった後も、救いを求める者を無視できず引き寄せられ、手を差し伸べたのだ。奴ら悪魔は実におためごかしを好む――かつて彼女自身がそう断じたように、それは決して真に相手を救おうとしての行為ではなかったが、ならば騙して喰らうだけが目的だったのかというと、それもまた否である。


「私の経験と観察がお役に立てば幸いです」


 彼ら自身が救われたくて、助かりたくて、苦しみから逃れたくて。それがゆえに仲間を求め、貪り同化した……その願いを叶えることで自らの願望も成就すると錯誤したかのように。


「彼ら『悪魔』どもが真実どのように感じていたかは、さすがに知りようもないのですが。少なくとも、奈落から湧く邪悪の化身という何かまったく異質なものではなく、我々自身であったからこそ危険だったのだ、と……もはや『悪魔』が地上に現れることがなくとも、人が《聖き道》を踏み外す危うさが消えたわけではないと、理解が広まるよう願っております」


 一司祭としての真摯な言葉に、ムラクも目を細めてうなずく。


「グラジェフ殿が聞けば、優れた弟子を誇りに思うだろう。手厳しさも含めて、多くを学んだようだな」


 軽く揶揄されてエリシュカは気恥ずかしげに目を伏せる。小さく咳払いしてごまかし、真顔を取り繕った。


「あの場でも言われましたが、グラジェフ様が聖都にいらっしゃる間、皆様方とどのように論を戦わせたか、私は知る機会がありませんでした。是非一度、ムラク様からもお話を聞かせてください。師の伝記……あるいは言行録のようなものを、いずれまとめたいと考えておりますので」

「ほう。わずか一年師事しただけであるのに、そこまでするかね」

「短い期間ですが、得難い貴重な一年でした。あの方が教え導いてくださらなければ、今の私はなかったでしょう。ですから師の言葉と行いを記し、後から来る者が同じく我が師の導きを得られるよう、残し伝えたいのです」


 よろしくお願いします、と頭を下げたエリシュカに、ムラクは温かくもおどけた笑みを返した。


「では後進の教育に良くない逸話は、隠しておかねばならんかな? 他の方々からも聞き集めるつもりなら、覚悟しておきたまえ。グラジェフ殿はあれでなかなか曲者だったから、やりこめられた恨みを聞かされるか、あるいは何かろくでもない話を暴露されるやも知れん」

「むしろ楽しみです」


 エリシュカは晴れやかに笑うと、後日の約束を交わしてムラクと別れた。



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