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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
92/133

5-5 復活の日


     ※



 世界のすべてを塗り潰し圧倒する、白光の炸裂。

 エリアスが認識できたのは、かろうじてそれだけだった。その瞬間、もっと大きな何かが起きたのは間違いない。にもかかわらず、人間の意識でそれを捉えることはできなかった。


 無数の歓呼、強烈な祈り、ありとあらゆる生命の動揺……世界の身震い。ほかにどう言い表しようもない。

 その強大な異変に晒されて、どうやら気を失っていたらしい。いつの間にか固く閉じていた瞼を薄く開くと、身体の感覚が戻ってきた。


 横向けに倒れた姿勢から、用心しつつそろりと身を起こす。最初に視界に入ったのは、すぐそばに横たわっていたルナークの顔だった。

 聖御子の遺体か、と感慨もなく思ったところで、違和感に眉を寄せる。死人にしては血色が良すぎるではないか。

 もしかして、と脈を取るため首筋に手を当てただけで、少年はびくりと身じろぎした。目を開けはしなかったが、生きているのは間違いない。エリアスは唖然とし、何をどう考えたら良いのか途方に暮れて周囲を見回した。

 そして、驚きの声も出ない口をただあんぐりと開け、呆然とする。


 そこはもう、青暗い世界の狭間ではなかった。

 図書館だ。世界と地続きで存在する、普通の。ただし書架はいくつも倒れ壊れ、その間に樹木が何本も生えて、穴の空いた天井を越えて青空に梢を差し伸べている。


「なんだこれは」


 くらくらする。独りごちた声の響き方までおかしい。額を押さえて呻いたその時、少し先で動くものが目に入った。カスヴァだ。同じように唖然とした様子で梢を見上げ、頭を振ってのろのろ立ち上がる。エリアスもぎこちない動作で立ち、どこも痛めていないか、慎重に確かめた。

 何ともない。あまりにも異状がなさすぎて逆に違和感を持つ。あれほど激しく戦った後で、気絶して倒れた時にぶつけてもいるだろうに、身体のどこにも痛みがない。完全だ(・・・)


(まさか)


 理由を推測しながら、元魔道士に歩み寄る。彼は茫然と宙を見上げていたが、エリアスに気付くと、曖昧な表情で口を開いた。


「……“呼び戻された”部分と、そうでない部分が混じって……こうなったようだ。もうあいつの知識を共有していないから、うろ覚えのような感覚だが」

 相手に説明するというより自分に聞かせるようにつぶやきつつ、左手の中指を何度もこする。そこにあった物の名残を探すように。

「この辺りは元々、森林だったらしい。聖都が築かれる以前の話だが。恐らく、かつて円環がひび割れた時に激変した場所のあちこちで、こんな感じに……中途半端に戻っているんじゃないかと思う」


 まったくあいつは、と言わんばかりの苦笑が口元をかすめる。だがエリアスのほうは、感傷に付き合う気分ではなかった。チッ、と舌打ちして唸る。


「やはりそういう事か」

「――」


 カスヴァがぎょっとなり、愕然と目をみはる。凝視に突き刺されたエリアスは、不快げに手を一振りしてその視界を遮った。


「犬が人語をしゃべったような顔をするな。つまり私も、本来の声を“呼び戻された”というわけだ。余計なことを」

「あ、いや……すまない。失礼した」

 カスヴァが顔を背けて白々しく咳払いする。エリアスはげんなりして、盛大なため息をついた。

「やれやれ、あの悪魔め、つくづく面倒を増やしてくれる。ルナーク殿も生きているぞ」

「なんだって?」

「生きている。世界を救った聖御子として盛大に悼まれるはずだった御方が、恐らくただの、人として本来そうあるべき少年として、ぐっすりお休み中だ」


 素っ気なく言い、あそこ、と親指で示す。カスヴァはもう言葉もなく視線をやり、木の根元に横たわった少年の姿を見付けて顔を覆った。


「……いや、喜ぶべきだ、人柱として死なせずに済んだんだから。しかし」

「書庫前で奴が殺した連中も、あらかた生き返っているんじゃないのか。あいつ、焼き尽くすほうが好みかもしれないが後々どうとか、言いかけていただろう。肉体が無くなってしまえば呼び戻すのも難しいからとか、そんな理由だったんじゃないのか」

「それは困るぞ!」


 思わずカスヴァが叫ぶ。まったくな、とエリアスは冷淡に応じた。


「生き返った者、死んだままの者、昔に戻った土地、戻らなかった場所……何もかも大混乱だろう。加えて円環が修復されたのが確かなら、」

 言いさして一瞬詰まり、口に出しかけた単語を飲み込んで別のものを舌に乗せる。

「教会の根本的な存在意義までが変わってしまう。誰がどうやって収拾をつけると思うんだ、少しは他人の迷惑も考えろと言うのに」

 ぶつくさぼやくと同時に、嫌な可能性が脳裏をよぎった。あの悪魔、とまた舌打ち。


(これなら安心だ、とか抜かしたあの思わせぶりな台詞……まさかあの時、後の面倒を私に押し付けても問題あるまいと判断したわけか? 冗談じゃない、とんだ置き土産だ!)


 罵詈を吐き散らしつつ、そこらに落ちている書物を荒っぽく拾っては、手近な書架に突っ込んでいく。こんな状況では特に意味のない作業だが、とりあえず整理整頓らしきことをして気が落ち着くと、エリアスは深々とため息をついた。


「これで教皇聖下まで生き返っていたら、とんでもない騒ぎだぞ。ああくそ、こっちが楽園に逃げ込みたくなってきた」

「行方をくらますなら、今の内だろうな」


 カスヴァが同情的に応じ、木々の間を見渡して適当な方へ歩き出す。どこへ、とエリアスは問おうとしてやめた。他の生還者――帰って来ると約束したあの疫病神か誰か――を捜すのだろう。

 後は追わずに見送り、エリアスは手近な書架にもたれかかって、試みに小声で看破の術をかけてみた。


「主はすべてをみそなわしたもう。聖御子のまなざしは悪霊を射抜きたり」


 聖句につれて霊力が銀環を巡る。だがその感触が、今までとは微妙に異なっていた。術が働かないわけではなく、視野が鮮明になるのは前と同じだ。ごくわずかな銀のきらめきが空中に漂っているのも。しかし。


(これほどの異変が引き起こされたのなら、そこらじゅう輝いていてもおかしくないのに、これだということは……やはり本当に、円環が修復されて地上に余分な霊力が溢れることがなくなったのだろう。いずれ秘術の効果や効力も変わってゆくだろうし……もう、悪魔も外道も現れないということだ)


 既にすべての悪魔が消滅したのか、それともまだ残っていてこれから消えて行くのか、そこまではわからない。だが円環が完全になるとは、そういうことだ。


(結局、私はこの手で悪魔を滅ぼせなかった)

 当の悪魔がそれを成し遂げるとは、なんとも皮肉な話ではないか。エリアスは独り小さく苦笑をこぼした。それから顔を上げ、カスヴァが去った辺りを漠然と見やる。

(彼は気付いているんだろうか)


 あの約束――必ず帰るという言葉は、嘘だということに。

 むろんエトラム本人がこの帰結を理解していなかったはずがない。だからこそ彼は、あんな顔で『誘惑』したのだ。上辺だけは優しい微笑み、けれど今にも泣き出しそうな、どうか一緒に来てくれと懇願する顔で。さすがにあれには、怒りも湧かなかった。戻って来いと口説くほど好意はないにしても。


(……静かだな)

 ふと気付き、穴の開いた天井を見上げる。空が見えているからには、外の騒ぎが届いても良さそうなものなのに、ほとんど何も聞こえない。この書庫の外がすっかり森に呑まれでもしたかのようだ。


 と、その時、

「エリアス! 来てくれ、エリアス!」

 遠くからカスヴァが呼んだ。声は上ずり、明らかに動揺している。エリアスは反射的に身構え、ルナークを一瞥した。これだけ静かなのだから、置いて行っても安全だろう。とは言え可及的速やかに戻るつもりで、彼は呼び声のほうへ走り出した。


 書架の間をすり抜け、床から張り出した樹木の根を跳び越えていくと、じきにカスヴァの姿が見えた。一人ではない。祭服の青年に手を差し出し、立たせて――

「……!?」

 それが誰かと判別できた瞬間、エリアスは驚きのあまり足を止め、立ち竦んだ。予想外の人物だった、というだけではない。瞬間、己の胸に湧き上がった感情の熱さに驚いたのだ。堪える間もなく、大粒の涙が頬を伝い落ちる。唇がわななき、震える吐息がこぼれるのを、両手で覆って隠した。


(駄目だ、泣くな)

 歯を食いしばって嗚咽を押しとどめようとしたのに、か細い呻きが漏れる。

(まるで女のようじゃないか。くそっ、よくもこんな醜態を晒させてくれたな)

 睨みつけた視線の先で、学院時代から変わらないのんきな顔の先輩が、こちらを振り向いてにっこりした。


 エリアスは堪え切れず駆け寄った。胸倉を掴み、揺さぶって、肩に額を押し当てて泣く。暑苦しくて鬱陶しいとばかり思っていた人間に、実際はどれほど信頼を寄せていたか、無自覚に相手の好意に甘えていたか、今更に思い知った。


 オリヴェルはいきなりの狼藉にもまるで動じず、あやすように肩や背中をさすってくれる。その反応に、エリアスはまだしゃくりあげながら、それでも怪しむ目を向けた。いくら何でも落ち着きすぎだろう。もしや中身は別人ではないのか。

 疑惑のまなざしに対し、オリヴェルは屈託のないおおらかな笑みを返した。


「やっぱり、夢じゃなかったんだな」

「……?」

「うん。俺は自分の教会で死んだ筈なんだよ。もう知ってるだろうけど、魂だけあのユウェイン司祭に預かってもらってさ、気が付いたらどこだか分からない広い所にいたんだ。なだらかな丘が地平線まで続いていて、一面、数えきれない人で埋め尽くされていて……それが皆、あるひとつの方へ歩いて行くのがわかった。ただ一人に導かれてね」


 オリヴェルはふと遠いまなざしを宙に向ける。それから後輩に目を戻し、濡れた頬に張り付いた赤毛をそっと払いながら話を続けた。

 彼もまた皆と一緒に行こうとしたらしい。だがいつの間にかユウェインがそばに立っていて、彼を止めた。君はこっちに戻っておくれよ、と言って。

 ユウェインがこの大群衆を導いていると、なぜかオリヴェルは直観した。ここで自分に話しかけながら、同時に皆の先頭に立ち、輝く炎を掲げてもいるのだと。何が起きているのかも、どういうわけか瞬間にすべてを理解できた。


「エリアスを助けてやってくれ、って頼まれて、こっちに送り返されたんだ。あそこにいたのはほんの束の間だったけど、本当に……とても満ち足りて、幸せな気分だった。あそこは楽園そのものじゃなく、手前の庭みたいなものなんだろうけどなぁ、それでも安らかで何の恐れも無かったよ。ああそうそう、それで、ユウェインから伝言があるんだ」

 途端にエリアスは顔を歪める。オリヴェルは声を立てて笑い、宥めるようにぽんぽんと肩を叩いてから言った。

「グラジェフ様を呼び戻せなくて本当に残念だ、食べ損ねてごめんよ、ってさ」


「――っ! あのクソ悪魔……っ!」

「待て待て、俺の首を絞めるな、俺はただ伝言を」

 ぐえー、と大袈裟に伝言配達人が呻く。エリアスが手を離して盛大なため息をつくと、先輩司祭は襟元を直して苦笑した。

「あとついでに、おまえが女だってことも教えられた。声とか、ひょっとしたら姿も変わってるかも知れないから、驚かないでやってくれって」

「オリヴェル……なぜあのクソ悪魔の首根っこを押さえてこっちに引きずり出してくれなかったんですか。私が殺してやったのに」

「無茶言うなよ。まったくおまえは、相変わらずだなぁ」

「死を体験したのに何の変化もないあなたに言われたくありません」


 エリアスは手厳しく言い放ち、そこでやっと第三者の存在を思い出して目をやった。二人のやりとりを黙って見守っていたカスヴァは、不意を突かれたように怯み、顔を背ける。エリアスは彼が何を考えたか察し、表情を改めた。

「……カスヴァ殿。ユウェインは」

 言いさして口をつぐむ。カスヴァはただ無言で首を振り、それ以上言うな、と態度で示した。




 ――後に『復活の日』として長く記憶されることとなったその日、世界を揺るがした激変に比して、人々の反応はむしろ静かなものだった。生き返った者が皆、同じ経験をし、何が起きたのかを理解していたからだ。

 見たもの、感じたことに個人差はあれど、円環が復元されたことを誰もが悟っていた。無数の魂を導き、その偉業を成し遂げた存在があったことも。

 それを従来の教えに従って『聖御子』と呼ぶ者もいたが、多くは束の間の経験で得た印象を元に『炎の御子』と呼んだ。

 そうして、生き返った人々が生き残った人々に語り、宥め諭し導くという、不思議な現象が各地で生じ、結果、混乱はあれども荒々しい騒動にはならないまま、誰もがこれからどうすべきかを模索し始めていた。


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