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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
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5-4 救いたまえ、救いたまえ


 銀光の環が少年の身体を一瞬だけ取り巻いて収斂しゅうれんし、霊魂を切り離す。

 溜めこまれた大量の霊力が溢れるのを、エトラムは青年司祭の肉体から身を乗り出して喰らった。

 二人の人間が恐れに後ずさるのを、炯々と燃える双眼の端で捉える。巨大な黒い影が白銀の靄を吸い尽くしていくように見えているのだろう。


 すべてを呑むまで、瞬き二回の間もかからなかった。久しぶりにたっぷり腹に詰め込んだ悪魔は、このまま自由になりたい誘惑を抑え込んで、いささか窮屈な思いをしながら自身を肉体に引き戻す。


 魂を失った少年が倒れかかるのを支えたと同時に、

「貴様ァッ!!」

 浄化特使が襲いかかってきた。


 エトラムはそちらに向けてルナークの身体を軽く押しやり、突撃を封じる。エリアスは両腕で少年を抱き止めたまま獰猛に唸った。


「落ち着きなよ、特使殿。いや、剣を抜いてないから少しは冷静なのかな」

 エトラムは苦笑しつつ肩を竦める。腹いっぱいで、はちきれそうだ。

「吊し上げて逆さに振って『今すぐ食ったものを吐け』とか、やろうとしたのかな。勘弁してよ……ちょっと考えたらわかるだろう? 世界のもといたる円環を修復するのに、たかだか十数年かき集めた程度の霊魂で足りるわけがない、って。千年以上も共食いを繰り返して大悪魔になったようなやつでもなきゃ、とてもとても」


 エリアスが声を失う。カスヴァが顔をこわばらせ、こちらに踏み出した。


「おまえ、まさか最初からそのつもりで」

「最初、というのがいつを指すかによるけど。まぁでも、南へ行くと決めた時に身の振り方ぐらいは考えたね。……嫌だな、そんな悲愴な顔をしないでおくれよ。大丈夫、ちゃんと円環は元通りにするからさ」

「そういうことじゃない!」


 わざと笑って見せたエトラムを、カスヴァは怒声で遮った。何に怒っているのか彼自身わからないような表情で、激情に拳を震わせて詰め寄る。


「なぜ……、なぜそんな風に笑うんだ。人柱を嫌悪していたくせに、自分は当たり前の顔をして」


 必死の形相で紡ぎ出される言葉に、エトラムは失笑を禁じ得ず、声を漏らした。


「ふ、ははっ、違う違う。そんな顔するなって言ったろ? 僕が美しい自己犠牲の精神で命を差し出すと思っているのなら、とんでもない誤解だよ。はは、あはは!」

 しゃべりながら笑いが止まらなくなる。カスヴァがぎょっとした、その反応がまた可笑しい。エトラムは身を仰け反らせて哄笑した。霊力が増した陶酔も加わり、気分が高揚していく。

「やっと! やっとだよ、カスヴァ、本当に長かった! やっと皆(・・・・)連れて行ける(・・・・・・)。あの素晴らしい『完全』に、我が神の御元に還ることができるんだ! ああ、どれほど喜ばしいか君にもわかってもらえると良いんだけど」


 歓喜のほとばしるままに両手を高く掲げ、自らの知恵にルナークから得た知識を掛け合わせて得た文言を唱える。


「《大いなる天、いと高き御座に主はおわし 地のすべてをみそなわしたもう》」


 銀の模様が輝きを放ち、脈動する。瞬く間に周囲を取り巻いていた書架が遠ざかり、遙か彼方の空間とつながるのがわかった。かつての世界の都、あの大失敗からの逃走に際して『狭間』へと隠された神秘の中枢だ。

 過去と現在が共鳴し、内なる数多の願いが高まり噴き出そうと声を上げる。


 ――救いたまえ、救いたまえ、我らをこの地獄から……


「《そらに限りなく 主の栄え満ちたり

  北に炎あり そは導きのしるべ

  南に山あり そは輝きの(くら)》」


 八方位を定める象徴を詠み上げてゆくにつれ、床全体が光の渦と化し、底から巨大なものが迫り上がってくる。無数の霊魂が歓喜の叫びでそれを迎えた。


 ――逃れさせたまえ、果てなき労苦から、飢えと病と死の恐怖から……


 螺旋を描く階段が刻まれた、輝く台座が聳え立つ。


 ――憎々しい敵から、忌まわしき隣人から。おぞましい男から、疎ましい女から。苛立たしい老人から、愚かしい子供から。恐れと怒りと苦痛から、逃れさせたまえ、救いたまえ……


「《讃えよ 讃えよ まったき円環こそ主の偉業なり》!」


 台座の頂点に太陽のごとくまばゆい輝きが生じ、辺りの闇を完全に打ち払った。

 明るい光に満ちた、現在とも過去ともつかない『聖御子の座』で、悪魔エトラムは両手を高く掲げたまま笑っていた。発作的な歓喜の爆発が鎮まると、彼はようやく手を下ろし、少し涙ぐんだ笑顔で振り向いた。


「大丈夫、今度はちゃんと修復できる。それだけじゃなく、うまく行けば我が神をこの地上に呼び戻すことだって可能かもしれないね」

「貴様の目的はそれだと言うのか」


 忌々しげにエリアスが唸ったが、彼もまだ混乱して事態を飲み込めていないのが明らかな表情だった。エトラムはおどけて応じる。


「いかにも、すべてはいにしえの神々をよみがえらせる遠大な計画である! とか言ったら悪魔らしいんだろうけどね。残念、あくまで余録だよ。正直なところ、何をどこまで“呼び戻せる”か、実際やってみるまでわからない」


 言葉尻で真顔になったエトラムを、カスヴァはまじまじと見つめた。そして、信じられない、とつぶやいて首を振る。


「おまえ……あんなに言っていたじゃないか。この世界を愛している、生きているのは素晴らしい、と。当たり前の粗末な食事でも馬鹿みたいに幸せそうで……なのに」

「ああカスヴァ、止してくれよ。悪魔が本当のことを言うと信じていたのかい」

「全部、嘘だったのか」

「嘘だよ、もちろん。そうとでも言って自分を騙さなければ、こんな地獄で生きていけるものか!」笑い飛ばした声が涙に震えた。「誰もが自分勝手で他人を傷付け憎み騙し、自分の利益しか考えない。利他心さえも自己満足と見返りを要求する。誰も、何も、あらゆることが思い通りにならないこの地獄で……ああ、君にはわからないだろう、善良なカスヴァ。素朴な、限られた人々の間で生き、ただ一度の人生もまだ終えていない君は、人間の闇がどれほど深く醜いかをまるで知らない」


 両手で顔を覆い、ため息をつく。油断するとすべてを持って行かれそうな、無数の願いが、祈りが、手を伸ばして救いを求めてくる。

(わかってる、もう少しだ、もう少し待ってくれ)

 彼は台座を振り仰ぎ、輝く小さな太陽に目を細めた。


「あの束の間の『完全』がどれほど素晴らしかったか、それもまた君にはわからないだろうね。傷つけられることもなく、憎しみも悲しみも、怒りも苦しみも無い、完全に満ち足りた喜びは……」


 それに思いを馳せるだけで心は慰めを得て、長きにわたる地獄にも耐えられた。でも、もう終わりだ。

 エトラムは微笑み、己の契約者に正面から向き合った。


「最後に一度だけ、悪魔らしく誘惑しよう。……一緒においでよ、カスヴァ」

 穏やかに言い、手を差し伸べる。驚きに見開かれた針樅色の瞳を、まっすぐに覗き込んで。

「この先の地上に、君の平安があるとは思えないしさ。僕は君にこれ以上、傷付いてほしくない。散々世話になって、君を困らせて、君の大事なものをたくさん奪ってしまったからこそ……何ものにも優る至上の幸福を、君に受け取ってほしいんだ」


 返事はない。激怒しそうなエリアスさえ、黙って息を詰めている。

 長い、時間を忘れそうなほどの沈黙の末に、やっとカスヴァが身じろぎした。


「ああ、そうだな。俺にはおまえの言う『完全』は想像もできないが……この地上については確かに、愛すべき人々がいる一方で、残虐極まる醜悪な光景を目にしたし、人間のおぞましい振る舞いに絶望もした。おまえの言う通り、この世は地獄なんだろう。愛情も善意も、たまに咲くか弱い花にすぎず、すぐに踏みにじられるだけの場所だ」


 そう肯定はしたものの、差し出された手は取らない。お返しとばかりに笑みを広げ、彼は力強く言った。


「だったらそれこそ、悪魔が生きるのにふさわしいじゃないか?」

「――!?」


 ぽかん、とエトラムは口を開ける。カスヴァは進み出て、手を握る代わり、励ますように拳を肩にぶつけた。


「だから、帰って来い。円環を修復したら、ほかの何を“呼び戻す”のもどうでもいいから、おまえ自身が帰って来い。それで一緒に地獄で踊ろうじゃないか」

「…………っ」


 途端、エトラムの双眸に涙が溢れた。何もそこまで、とカスヴァがたじろぐほどの勢いで滂沱しつつ、エトラムはくしゃりと顔を歪めて笑う。


「ひ、ひどいなぁ! 逆に悪魔を誘惑するなんて、人間の所業じゃないよ。君って奴は、本当に、とことんどうしようもない馬鹿だねぇ!」

「馬鹿で結構。そう思うなら今後も俺を助けてくれ」

「……わかった。うん、わかったよカスヴァ」


 エトラムは手の甲で涙を拭い、一度、二度、うなずいた。まさか最後の最後に、これほどの贈り物を得られるとは夢にも思わなかった。ならば応えるには最大の敬意をもってしなければ。


「約束する。必ず帰ってくるよ。……ありがとう」


 上手く笑えているといいんだけどな。

 初めてそんなことを思いながら、彼はにっこりとうなずいて見せた。後ろで複雑な顔をしている浄化特使にも笑いかけ、くるりと軽やかに背を向ける。

 白く暖かな光を放って輝く階段に足をかけた瞬間、待ち焦がれた成就の予感に、魂が震えた。


 ――もうすぐそこだ。やっと、やっと……!


 圧倒的な高位の存在が、降り注ぐ光の雨となって全身に沁み透る。積み重ねた苦しみ、足にずっしりと絡みついた悲しみ、黒く(こご)った怒り、すべてが溶かされてゆく。

 一段、もう一段。足を運ぶごとに、身体と魂に染みついた地上の穢れが流れ落ちてゆく。もはや原型を保てなくなるほどに。


 まぶしい。

 台座の頂上、輝く太陽に手を伸ばす。


 ――ああ、なんと明るく、さいわいな……


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