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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
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5-1 悪魔


     五章



 再び深く青い闇の通廊に戻ったカスヴァは、静けさに吸い込まれていく足音を聞きながら考えに耽っていた。

「……コニツカに『泡』が現れたのではないか、というエリアス殿の推測だが。当たっているかもしれない」

 つぶやくように口にする。エリアスがちらりと振り返り、視線だけで先を促した。カスヴァは足元に目を落としたまま続ける。


「状況から推測するに、ハラヴァ枢機卿と教皇は共に聖御子の代替わりを進めていたが、どうやら教皇聖下は心変わりしたんだろう」

 教皇のしるしを戴いた馬車が北へ向かおうとしたのだから、間違いない。

「だからハラヴァ枢機卿が暗殺した、と見られなくもないが……恐らくそれは違う。そんなことをすれば聖都への出入りが難しくなって、ルナークの身柄を取り戻しても目的を達せられなくなるだろう。教皇を排除した後の教会を掌握できるのであれば、暗殺するかもしれないが……もしそうなら、オリヴェル司祭が命を手放すこともない。実際にハラヴァ枢機卿は行方不明で、事態を支配できていないわけだし」


 そうだね、とユウェインが先頭で応じる。

「魔道士、暗殺者、として殺される前に逃亡したか。さもなくば教皇聖下を呑みこんだ『泡』に彼もまた呑まれてしまったか。全身まるごと消えてしまえば、現場を見た人がいたとしても、悪魔のわざで逃げたんだ、と思うだろうしね」

「チェルニュクと同等の規模で『泡』が発生したなら、コニツカは大混乱だろうな。祭典に集った高位聖職者が何人死んだか……しかも聖都のほうでは浄化特使を悪魔の手先呼ばわりしている。こんなざまでは、誰が人々の命と暮らしを守れるんだ」


 カスヴァは侮蔑を込めて低く罵詈を吐いた。神への信仰と教会に対する信頼は損なわれても、彼らがこの世界に生きる人々の守護者であるという認識は変わらなかったのに。腐った組織だろうと、治安を守り外道や悪魔を退ける役割だけは確かに果たしていると。


(だがそれも勝手な安心だったわけか。王や大貴族が面子や富を賭けて戦に忙しくしていようと、最低限、教会がある限り世界は安泰だと思い込んで)


 あれほど世界に失望していながら、帰郷すればまともな暮らしが送れると無意識に決め込んでいた。教会が機能しなくなるなどと、夢にも思わなかった。

 なぜなら世界には外道がいて悪魔がいて、教会の守りと導き無しには誰も生きてゆけないのだから。

 世界そのものが泡立ち乱れて崩壊しかけていることよりも、その世界の上に建つ社会を支えていた屋台骨が崩れ始めた現実に恐怖する。たとえ今、前を歩く少年を人柱として再び世界を安定させたとしても、その上に建つ『家』はもはや無事ではない。


(オドヴァ)


 無意識に左手で剣の柄頭を握り、我が子の顔を思い浮かべる。家督を譲った叔父、村の人々。皆、ノヴァルクでどうしているだろうか。ザヤツはまともな援助を与えてくれたろうか。あの町の司教や司祭は、皆を守ってくれているだろうか。

 遙かな過去、別の人生かのように遠ざかっていた村の暮らしが一度によみがえり、胸が詰まった。愛する妻がいて、父と、息子と、犬と馬がいて。毎日の瑣末な雑事に追われながら、麦畑が緑から黄金に移ろうさまを眺め、パンの焼ける香りに幸せを感じた日々。


(取り戻せるのか?)


 もう一度あの暮らしに戻れるのだろうか。無意識にそう考えて、彼は小さく頭を振った。皆を送り出した時、諦めたではないか。二度とオドヴァには会えまい、世界の崩壊を防げたとしても、何食わぬ顔で小さな村の領主の座に腰を下ろすことはもうできないと。


(そうだ。俺ではなく、オドヴァにあの暮らしを取り戻してやらなければ)


 自分のためではない。円環を修復して終わりでもない。直接に手を差し伸べて助けられなくとも、我が子の生きる世をまともな状態に近付ける努力はできる。


(……あいつはそこまで考えているんだろうか)


 ふと疑問が胸をよぎり、カスヴァはユウェインの背中を見やった。平和な農村生活を楽しみたかったのに、だとか恨み言をぼやいていたが、この仕事を終えたらどうするつもりなのだろう。

 何か大きなことを見落としている気がして、カスヴァは眉を寄せた。


 同時に、行く手の景色が揺らいだ。青黒い石の壁がするりと動いて、道が変化する。ユウェインは驚いた様子もなく、少しだけ立ち止まってから右の岐路を選んだ。


 カスヴァは迷宮の天井を見上げ、知識の書物を繰って理解する。ここは世界の狭間であり、自分達が作り出した確固たる建造物ではない。古代の都から聖都までをつないだ『通廊』のように堅牢な部分を除き、地上と霊界、双方の状態によって変化するものだ。


 そろそろ聖都が近いから、影響を受けたのかもしれない。カスヴァはそんなことを思った。桁違いに大勢の聖職者が日常的に秘術を使う場所だ、霊力の濃度や均衡も余所とは違う。

(しかも今は非常事態宣言でどんな状況になっているか……)

 その懸念に応じたかのように、ユウェインがぎくりと竦んで皆を止めた。


「待った。誰かいる」

 即座にエリアスが剣に手をかける。カスヴァも素早く周囲を見回し、どこかの壁がいきなり開いて人を吐き出さないか警戒した。

 エリアスがユウェインの前に出て、身構えながら歩を進める。そしてじきに、あっ、と声を上げた。


「まさか!」

 駆けつけた先の暗がりで、壁にもたれて座り込んでいたのは――

「ハラヴァ様」

 聖都の誰もが血眼で捜しているであろう、ハラヴァ枢機卿その人であった。エリアスが傍らに膝をつき、息を飲む。カスヴァも後ろから覗き込み、異臭に顔をしかめた。周囲の床や壁を汚す黒い染みはすべて、枢機卿の流した血だったのだ。


「……来たか、エリアス」

 ハラヴァはかすれ声でつぶやき、唇を歪めて皮肉に嗤う。

「まったく……この、危機に……くく……結局、女が」

 肩を震わせて切れ切れに言い、ゴホッとむせて黒い唾を吐いた。そして、エリアスがためらいがちに伸ばしかけた手を、ぞんざいに払う。

「要らん。じきに死ぬ。行け……ムラクが書庫を、守っておる。残念ながら、そこまでの道を確保できなんだが。……ルナーク様、どうか……」


 声が細くなって途切れる寸前、呼ばれた少年がついと進み出て指先で額に触れた。

 星の瞬きよりも微かな光が点り、消える。あっけない終わりに、エリアスがそっと嘆息した。

 一方カスヴァは枢機卿の死よりも、周辺の様子に不安を感じてそわそわした。安定した静かな水音が聞こえず、絶えずどこかが揺らめいているような錯覚に惑わされる。


「ユウェイン、ここから出たほうが良くないか?」

「心配しなくても、この通廊が潰れて僕らがぺしゃんこになる恐れはないよ。今はむしろ外のほうが不安定で危ない」


 忌々しげな返事はずっと後ろから届いた。ハラヴァの目に入らぬよう離れていたのだろう。ゆっくり歩いてきた悪魔憑きは、複雑なまなざしを骸に注いだ。憐憫と蔑みの相まった、それでいて湿度のない、素っ気なく乾いたまなざしを。


「彼はコニツカでオリヴェル司祭から報告を受けたんだろうね。教皇の使者がルナークを迎えに来たが、念のために浄化特使がその後を尾行した、って。悪魔の介在を聞いたかどうかまではわからないけど、とにかく人柱が敵対者の手を逃れて自分の配下に保護されたのなら、必ず聖都に向かうはずだと確信して……先回りしようとしたか、あるいは単にコニツカから逃げたか」

 整理するように推測を述べ、彼はうんざりとため息をついた。

「だから『泡』が沸いたんだ。通廊の現状からして、彼は『釘』を打たずにただ裂け目を開いている。どの程度の回数、出入りしたのかにもよるけど、コニツカも聖都もぐらぐらに煮えているだろうね。やれやれ、そんな中をどうやって書庫まで行けって言うんだか。しかも枢機卿をこんな風に切り刻む連中が待っているのに」


 ああもう、と両手で顔を覆って呻く。そのままユウェインはしばらく顔を上げなかった。誰かと対話するかのように、ぶつぶつ口の中でつぶやいて、何度か小さくうなずく。

 ややあって彼はびくっと大きくわななき、凍ったように身をこわばらせた。不安になるほどの硬直と沈黙の後、深く長く息を吐く。そっと手を離した時、唇は鋭利な弧を描いていた。


 カスヴァは思わず呼びかけていた。

「大丈夫か?」

「ああ……うん。ありがとう」


 返事は穏やかで何の心配もないような口調だったが、青い暗がりの中でこちらに微笑みかける顔がまるで別人のように思われて、カスヴァは反射的に身構えた。ユウェインはそんな反応に傷ついた表情をつくって見せ、強引に明るい声を出す。


「大丈夫だって! ごめん、ちょっと怖じ気づいたんだよ。ここから出た途端に僕ら全員、『泡』に呑まれて死ぬかもしれないとなったら、さすがにね。でも、覚悟を決めた。ここまで来たんだ、どんな手を使っても最後までやり遂げるさ」


 らしくもなく、握り拳を突き出して気勢を上げたはいいが、その手が震えているのでは締まらない。

 カスヴァは相手の笑顔をじっと見つめた。これは本当に恐怖を隠す虚勢なのだろうか、それとも別の何かをごまかす悪魔の嘘だろうか。だが疑おうにも、今のユウェインの顔はかつての幼馴染みと同じだった。怖くなんかない、と強がって、必死で後をついてきた弟分の面影が重なる。

 カスヴァは苦笑をこぼし、おのれの拳をごつんとぶつけて相手の震えを止めてやった。

 ユウェインがにっこりし、よし、と気合いを入れる。


「もう少し進んでから、安全そうな時機をはかって外に出よう。そこから書庫まではエリアス殿に先導を頼むよ。僕が援護する。カスヴァは……魔術は使わなくていいから、人間の敵に対処してくれるかい」

「おまえ、それは」

「そう。『泡』は僕が防ぐ。だいぶん慣れたと言っても君の腕前じゃ無理だ」


 さらりとユウェイン――エトラムが言った。カスヴァが衝撃を受けるだけの猶予も与えず、彼は胸にかけた銀環を外して投げ渡す。


「君が持っていて。もしかしたら、あるいは……いや、どうかな。とにかく君に任せるよ」

「おい、何を言っている。意味が」

 わからない、と抗議するカスヴァを放って、エトラムは再び先頭に立つ。

「行くよ。外に出たら、何人殺すことになってもためらわないで先へ進むんだ。エリアス殿の言葉を借りるなら、世界が滅びるかどうかって時に惜しむべき命なんて、ないんだからね」


 挑発的に言い、力強い足取りで進む。取り残されたカスヴァは途方に暮れて、手の中の銀環を見下ろした。

 この暗がりにあっても変わらず、曇りなくきらめく銀。


「……どういうことだ?」


 契約の代償であった『願い』は、たった今、破棄されたのではないのか。ユウェインの魂がエトラムに完全に取り込まれてしまったのではないのか。

「えい、くそっ!」

 問い詰めている時間はない。カスヴァは破れかぶれになって唸り、銀環を首にかけて肌身に着けると、悪魔の後を追って走り出した。


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