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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
86/133

4-4 穏やかな村で

   ※


 蒼暗い迷宮に、どこからか微かな水音が届く。川のせせらぎや波打ち際のさざなみではない。大樹の内側にいて、根から吸い上げられ昇ってゆく水に囲まれているような、深い気配だ。


 四人分の足音は不思議なほど反響しなかった。息遣いも咳払いも、荷物や衣服が擦れる音も、生じた途端にどこかへ吸い込まれていくようだ。時間の感覚も鈍り、渇きや疲労も他人事のように遠ざかる。


 不意に、先頭を歩いていたユウェインがつまずいた。

 全員が夢から醒めたように立ち止まる。エリアスも瞬きし、自分が今どこにいて何をしているところなのか、急いで思い出した。その前でユウェインは胸を――銀環を押さえ、ああ、と吐息を漏らす。それから彼は聖印を切って小さく祈りをつぶやいた。


 一呼吸置いてエリアスはその意味を悟った。

「オリヴェル」

 訊くともなく名前が口をつく。ユウェインが黙って首肯し、カスヴァは頭を振ってうなだれた。

 ルナークは茫然と宙を見たままだったが、エリアスは少年の手が密かに、銀環ではなく腰に添えられていることに気付いた。出発前にオリヴェルが渡した、ささやかな心尽くしの小袋に。


(恩義を理解するぐらいの心はあるのか。……悲しみを感じないのなら、むしろ幸いだろうな)


 見つめるまなざしに引かれたように、ルナークが振り向く。目が合ったエリアスは思わずたじろいだ。青い薄明にあってなお透明な双眸が、この世ならざるどこかに通じる門にも思われる。

 花がほころぶような自然さで唇が開いた。


「痛ましく感じるべきであると、承知しています」


 意外な発言に、ユウェインやカスヴァも驚いた顔をする。ルナークは相変わらず平坦な口調で淡泊に告げた。


「ですがこの胸には何の想いも生じない。ただ“そうすべき”とわきまえている通りに悼み弔い、霊魂を送る。それが司祭として正しいありようでないことも理解しています。……なすべきをなしてこそ初めて、わたしは彼らに報いられるのでしょう」


 語り口にも表情にも、心情を窺わせる気配の片鱗すらない。それなのにエリアスは息苦しくなって目を背けた。


(同情か、憤りか? 何を惑っているんだ私は)


 人柱として人間らしさを奪われたこの少年に対し、どう振る舞えば良いのか、どう思うべきなのかがわからない。あまりに感情のない存在は、逆にこちらの心を鮮明に映す鏡だ。正視に堪えない。

 同じように感じたのか、それとも相変わらずただ気に入らないのか、ユウェインが不機嫌なため息をついた。


「そろそろ一度、外に出よう。オリヴェルが死を選んだのならコニツカの状況が悪化したということだし、聖都も厳戒態勢かもしれない。乗り込む前に足を止めて、休息を兼ねて様子を探ろう」


 言い置いて壁に向き直り、小さくつぶやきながら手を伸ばす。闇を凍らせたような石に指先が触れると、波紋が広がった。向こう側が透けて、どこかの村らしき風景が浮かび上がる。


「この辺りなら安全そうだね。今なら通行人もいないし……カスヴァ、釘を頼むよ」


 霊力の釘が相を固定するのを確かめ、ユウェインが「それじゃお先に」と壁を通り抜けて出ていく。エリアスもそれに続き、外気に触れてほっと息をついた。次いで素早く周囲を観察し、記憶にある風景と照らし合わせる。


 うららかな陽射しの降り注ぐ、街道沿いの村だ。土壁と茅葺き屋根のずんぐりした家が並び、外に放されている家鴨や鶏の鳴き声がのどかに聞こえる。ゆっくり近付いていくと見覚えのある広場が現れ、エリアスはここかと納得した。

 彼が現在地を口にするより早く、ユウェインがひとつうなずいて言った。


「聖都まで、まだ少しあるね。行き過ぎなくて良かった。この先に町があって、そこからどんどん賑やかになっていくはずだ」


 エリアスはなんとなく意外に思って相手の顔を見たが、まるで普通の素朴な青年のようだったもので、今さらに思い出した。彼もかつては、希望を抱いて聖都に入り、学んだ後に故郷への道を辿った一人の司祭だったのだ。悪魔に憑かれる前は。


「確かここ、食堂があったんだよね。旅行者が多いから、よそ者も特に詮索されずに食事ができるはず……」

 ユウェインがきょろきょろし、カスヴァが「あれか」と遠くの看板を指差した。

「そうそう、あそこだ。それじゃ軽く『霧』をかけて印象をぼかしておくけど、聖御子様には念のため、顔を隠してもらおう」


 目配せされたカスヴァがルナークの前にちょっと屈み、フードを深く被らせて不自然でないか点検する。その間にユウェインが古い言葉を唱えて聖印を切った。エリアスの耳に届いた断片からして、旅の安全を願う形であるらしい。


(荒野を行く我らを獣から隠したまえ……というぐらいか? 聖典にも似た文句はあるが、こいつの祈りは我らが主に向けたものではないな)


 水を司る何とか神よ、のような呼びかけが聞こえた気がする。教会が成立する以前の古い神だろう。今頃そんな神に呼びかけてもまだ術がはたらくというのが、いかにも不思議だ。古い神々を崇めていた人間の国は滅んでも、神々は死ななかったわけか。


 エリアスがあれこれ考える間にも、一行は村に入っていた。警戒を怠らず、しかし土地勘があるような態度を保ち、まっすぐ食堂へ向かう。

 ここには穏やかな時間が流れていた。同じ世界、地続きの場所で、焼灼された村があり、『泡』の侵食で土地も人心も荒れた村があり、流血を厭わぬ争いがあるとは信じられないほど。

 じきに村人の姿がちらほらと見えてきた。戸口の横に出した椅子に腰掛け、子供を遊ばせながら糸紡ぎをする女。畑仕事からいったん帰ってきたところか、広場の井戸で水を汲み、顔を洗っている男。


「……間違えたのではなかろうな」


 疑問が意図せず声に出た。エリアスがこれも気の緩みかと我に返ると同時に、ユウェインが失笑した。


「僕もちょっと不安になってきたところだよ。このまま夢のように平和な時間を過ごして、何事もなく立ち去れるように、主のご加護を願いたいものだね」


 夢かうつつかはともかく、どうやら主のご加護はまだ一行の上にあるようだった。食堂には地元民と行商人の小さな集団がいたが、司祭や教会特使の姿はなかった。四人が戸口をくぐると何人かが振り向いたが、特に興味を持たなかったらしく、すぐ仲間とのおしゃべりに戻る。


 ユウェインがカウンターまで行って亭主に話しかける間、残る一行は空いているテーブルを確保して腰を下ろした。エリアスは油断なく周囲に注意していたが、荷物を床に置く際にほっと息が漏れた。同時に、戻ってきたユウェインがいかにも疲れた様子で椅子に崩れ落ちたもので、不愉快になって顔をしかめる。疲労を認めて軟弱者の仲間になりたくない。


「さすがに疲れたな」正直に言ったのはカスヴァだ。「あの『通廊』にいる間は何ともなかったのに」

「あっち側は時間の流れ方が違うからね。それより、訊いた限りでは不穏な話はここまで届いていないようだ。少しは肩の力を抜いて休憩できるんじゃないかな」


 ユウェインが微笑み、カスヴァも「良かった」と表情を緩める。とはいえ、くつろいで歓談できる状況でもなかった。しばしの沈黙の後、カスヴァが声を低めて言った。


「オリヴェル司祭のことからして、聖都に俺達が姿を見せたら間違いなく大勢が殺しにかかるだろう。もう一度『通廊』に戻って、そのまま地上に出ず、かつての『世界の都』へ向かうことはできないのか?」

「無理だよ。もちろん、このまま街道を歩いて聖都に入るつもりはないけど、いったん聖都内で地上に出て例の書庫に入り直さないと駄目だ。古代に開かれた『通廊』が現在まで維持されているのなら、相当強固な防護がかけられているだろう。そこへ割り込むのは……絶対不可能とは言わないけど、今の不安定な状態で試せることじゃない。下手をすれば聖都が『泡』の海に呑まれて崩壊する」


 ユウェインがささやいて首を振ったところで、料理が運ばれてきた。豆と野菜のミルク煮込みが湯気を立て、炙った腸詰めはいかにも香ばしい。黒パンは固くなっているが、煮込みの汁に浸せば美味しく食べられるだろう。

 ごちそうを前にしたユウェインはころっと機嫌を良くして、しみじみと幸せそうに感謝の祈りを捧げた。エリアスは胡散臭げにそれを見やり、形ばかり聖印を切って匙を取る。


「随分と食欲のこもった祈りだな。よくも喜べるものだ」


 嫌味のつもりで唸ると、胸が軋んだ。あの先輩司祭の死に思いのほか動揺していると自覚してしまい、歯を食いしばる。

 そんな彼の様子に、ユウェインは思いやりを目に浮かべたが、口に出したのはおどけた言葉だった。


「食事は生きる基本だからね! 食べられる喜びを噛みしめて美味しくいただくのが作法ってものだよ。まぁ学院ではちょっとそれも難しかったけどさ」

「……」


 思わず同意しかけたエリアスが変な顔をする。ユウェインの隣でカスヴァも眉を寄せた。学院での思い出は悪魔に憑かれる前のことなのに、と不審げに。

 食卓に流れる複雑な空気にも、ルナークだけは我関せずの風情で食事を続けている。エリアスもそれを真似ることにして、黙々と煮込みを口へ運んだ。


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