4-2 蒼き死の陰
横倒しになった馬車の車輪が空転している。手綱が絡まってもがく馬にユウェインが用心深く歩み寄り、祈りながら目を覆ってやると、動きが止まった。その隙にカスヴァが正確な一撃で苦しみを終わらせてやる。
刃の血を拭い、カスヴァは息を吐いて辺りを見回した。
森と森の間を走る広い街道は、はるか南へと向かっている。だが見える範囲には集落も人影もなく、他の旅人もいない。あるのは巨大な狼の死骸だけだ。胴の傷からはらわたをこぼし、四肢を失い首を半ば切断された無惨な死骸。まだ随所から白煙が立ち上っている。
襲ってきたのはこの一頭だけだったが、気配を察知した直後にもう馬をやられてしまった。御者台にいたのがたまたまエリアスだったおかげで、とっさに秘術で牽制して時間を稼げたが、危ないところだった。
首を巡らせると、街道の端でそのエリアスが膝をついていた。地面に座り込んだルナークに、癒しの秘術を施している。馬車が横転した時にどこか痛めたのだろう。外道の牙が聖御子を食い破らなかったことにカスヴァは安堵し、次いで苦渋を味わった。
(大事な人柱が無事で良かった、か。俺も大概人でなしだな)
複雑な感情を抱えて立ち尽くしていると、背後から声をかけられた。
「よっこら……しょっと! これで全部かな、確かめてくれるかい」
振り返ると、ユウェインが馬車から脱出しようと悪戦苦闘しているところだった。いつの間にやら車内に入り、散乱した所持品を回収していたらしい。外に投げ落とされた鞄が転がっている。
「俺を呼べよ」
カスヴァは幼なじみの要領の悪さに呆れつつ、手を貸してやる。ユウェインは苦笑いで応じた。
「入るのは足がかりがあって楽だったんだよ。まさか出るのがこんな……ふう、やれやれ」
「ご苦労、これで全部だ。しかしこんな場所で外道にやられるとはな。まだ教会領に入ってもいないのに」
カスヴァが渋面で唸ると、ユウェインは服をはたいて整えながら答えた。
「仕方ないさ。どっちにしても、そろそろ追っ手がかけられる頃合いだ。コニツカの大聖堂なら伝令特使も常駐してるし、伝書鳩も飼っているはずだから、この馬車では国境を越えられなかったかもしれない」
「ああ、そうだな。……手掛かりを消すためにも焼いてしまうか」
「それがいいだろうね。このまま置き去りにしたら道を塞いでしまうし。頼んだよ、片付けの魔道士様」
おどけた口調で依頼され、カスヴァは顔をしかめながら数歩離れた。
「《来たれ天の火》……」
ごく自然に言葉が形作られ、霊力を引き込む。まるで当然のように炎熱を操り、馬車と外道を共に跡形もなく焼き尽くしてから、彼はおのれの魔道士ぶりに顔をしかめた。故郷が火の海になった衝撃を忘れた訳ではないのに、なぜこんなにも平静でいられるのか。
(それどころか……くそっ、なんだこの感情は)
てのひらに爪が食い込むほど強く拳を握り、きらめく炎の指輪を睨みつける。霊力酔いだと言い訳するには、嫌になるほど理性が冴えていた。この感情は、喜びだ。かつての“我が神”の力に再び触れられるという、温かく敬虔な喜び。
カスヴァは目つきを険しくして悪魔エトラムを振り返る。おまえの感情に俺を巻き込むな、それとも死ぬのを待ちきれず魂を喰らうつもりか――そう難詰しようとして、ぐっと言葉を飲み込んだ。
相手は人差し指を唇の前に立てていたのだ。ちらりと視線で示した先で、エリアスが治療を終えて立ち上がる。カスヴァは苦々しい唸りを噛み殺した。
あの浄化特使は当面の停戦を約束してくれはしたが、大悪魔エトラムが契約者を早々に呑もうとしている、などという話になったら、持ち前の思い切りの良さで首を飛ばしにくるだろう。
幸いなことにエリアスは、悪魔憑きと魔道士の微妙な雰囲気を察知するよりも、別のことに気を取られていた。
「手当ては済んだ。すぐにも出発したいところだが、悪魔エトラム、貴様に見せたいものがある」
「おや、ご指名とは珍しいね」
ユウェインは嬉しそうな顔をしたが、余計な事を言ってまた「黙れ」と叱られないよう、真面目を装って手招きされるがままルナークのほうへ寄った。カスヴァも背後を警戒しつつ後に続く。
少年はぼんやり突っ立っており、何の反応もしない。エリアスはその手を取り、無造作に袖をするりと捲り上げた。肘の上まで。
あらわになったものに、カスヴァは目を奪われた。ユウェインが「ああ」と低く嘆息してつぶやく。
「なるほど。身体に直接刻んでおけば、いちいち術をおこなわなくても霊魂を純化吸収できるってわけだ。刺青自体は僕らの時代にもあった方法だけど、こんな凶悪な術を刻むなんて無謀というか、なりふり構ってないというか。やれやれ」
「銀環の装飾に似ていると思ったが、やはりそういうことか」
エリアスは納得し、袖を下ろした。柔らかい肌に刺青された《力のことば》と複雑な紋様が、ふたたび隠される。
「ハラヴァ様もよくよく危ない橋を渡る御方だ。これを見たら教理典礼省の秘術審理課が黙っていないだろうに」
「たぶんそこはもう掌握してるんじゃないかな。だからここまでやったんだと思うよ」
何の不思議もない、とばかりユウェインは言って聖御子を見つめた。そのまなざしに不穏な含みを感じ取ったエリアスが眉を寄せる。だが問いが口に出されるより早く、カスヴァがつぶやいた。
「掌握、か。《聖き道》を歩めと外に向けては説教しながら、内部は派閥争いを繰り広げる獣の巣窟だな。……オリヴェル司祭が無事だと良いが」
意外なことに、それに応じたのはルナークだった。
「案じたところで我々には救う手立てがありません。留まることも同行を強いることもできない以上、『殉教者の護り』よりも役立つ助けはないでしょう」
初めて聞く言葉にカスヴァが怪訝顔になり、一方エリアスはしかめっ面でユウェインを睨んだ。
「まさか、貴様が? 随分と思い上がったものだな」
「さすがに優秀なエリアス殿はご存じかい。あーあ、内緒にしておきたかったのにな。そうだよ、僕があの善良な司祭に古式ゆかしい術をかけた」
ユウェインは降参の仕草で認め、カスヴァに向けて説明する。
「その昔、《聖き道の教会》創成期は世界も大混乱のさなかだった、っていうのはわかるよね。何しろ当時の全世界を支配していた帝国が一瞬で滅んだんだ。周辺の属国は独立を口実に内乱状態になったし、外道や悪魔が大挙して世に溢れたし、そんなところへ『この破滅は一部の傲慢な連中の過ちが引き起こしたのだ、これからは我々に従って生きろ』なんて教えを引っ提げて行って、すんなり通用するわけもない。だから、不運な宣教師のために、命は無理でも魂を守る術が施されたんだよ」
「自殺を禁ずる戒律の例外だ」エリアスが唸る。「もはや生き延びる望みがない拷問や残酷で長引く死刑に処せられた時、自ら命を手放すことで、その霊魂は術者のもとに保護される。大司教にしか許されない術だがな」
「うん、そこはさすがに甚だしく分を越えるから、心苦しかったんだけど。何もしないで放り出すほうがよっぽど非人道的だからさ……そんなに警戒しなくても、彼の魂を取って食いやしないよ。預かるだけだ、ちゃんと還す。司祭ユウェインとして、誓うよ」
ふざける様子もごまかしの気配も一切なく、銀環に手を添えて厳かに誓う。エリアスが追及しかねて黙ると、ユウェインは「さて」とわざとらしく明るい声を上げてぱしんと手を合わせた。
「納得してもらえたら、そろそろ先に進もう。あんまり距離を稼げなかったとは言え、ここまで来られたのなら良し! どのみち他に方法もないし、ここからは『蒼き死の陰』を通って近道しよう」
「聞くだに不吉なんだが、今度は何をする気だ。そろそろこの質問をするのも嫌になってきたぞ」
カスヴァが唸り、眉間を押さえる。ユウェインは苦笑で答えた。
「不吉なのは僕のせいじゃないよ。『通廊』を教会風に言い換えるとそうなるんだ。ほら、迎えが本物だったらエリアス殿だけ便乗して、僕らはどうするって話だったろ。『通廊』を通れば普通に地上を歩くよりずっと距離を短縮できるからね。自動的に運ばれるわけじゃないから、結局は足を使わなきゃいけないけど」
そこまで言って、彼は渋い顔の連れ二人に対し、肩を竦める。黙って話を聞いている少年を一瞥してから、講義を続けた。
「だったら最初から使えと言いたそうなお二人さんと、ここで使って良いのか質問したそうな聖御子様に説明しよう。最初から使わなかった理由は、ひとつ、距離を縮めるといっても限度がある。六賢人総がかりで開いたあの『通廊』とはわけが違うからね。チェルニュクやコニツカから聖都までは遠すぎるし、通り抜けるまで僕ひとりで維持するのは難しい。そしてもうひとつ。こっちが聖御子様の懸念だろうけど、現在の状態からして『通廊』を開くのはとても危険だってこと。地上と霊界の隙間を通るようなものだからさ」
エリアスとカスヴァが共に目をみはり、絶句する。たっぷり一呼吸の沈黙があってから、二人はそれぞれ、最悪だ、地獄か、などと呻いた。
「我々全員の命を貴様に預けるのか」
「一度は君を怯ませた大悪魔の力を信じて欲しいな、特使殿。さあカスヴァ、始めよう。良き司祭たる僕としては、何としても世界の崩壊を防がなければならない。とは言え禁忌を破りすぎのきらいは否めないから、いくらかは君に分担してもらわないとね」
自覚しているのか単なる習性なのか、わざと不安を煽るような注釈をつける辺りはいかにも悪魔らしい。カスヴァはうんざりと頭を振った。
「ここまでやっておいて、今さらだろう。まだ『願い』を守っているふりなんて……」
「ふりなもんか。司祭ユウェインは君が憶えているよりも融通が利く人間なんだよ。これだけは信じて欲しい、彼の魂はまだここにある」
鋭く遮り、ユウェインは真剣な声音でささやく。榛色の双眸は痛いほど真摯で、カスヴァはそれを受け止められず顔を背けた。
(今さら、は俺のほうこそだ)
再会してから――あるいは出会ってから――早くも一年。疑い、怒り、そのくせ頼りにし利用もして、『今のユウェイン』にもうすっかり慣れてしまった。いまだに『幼馴染みのユウェイン』のほうが大事であるふりをするなんて、自己欺瞞でしかなかろうに。
(もしも今、本当に本物のユウェインを取り戻せるとしたら、俺は)
危うい想像が胸に兆し、彼はぎゅっと目を瞑る。考えるな。今そんなことを考えてはいけない。
強引に、無形の書物に意識を振り向け、集中する。世界の隙間を開くわざ。だが今はその前に、『釘』を打って周囲を固定しなければ。
「《汝が名は天、汝が名は地、定めに従いて分かたれよ》」
霊力を縒り固めた釘で二相を安定させる。そこへユウェインが続けた。
「《蒼き死の陰をも、我は主と共に歩まん》」
厚みのない暗がりがすっと立ち上がり、その場の空気が一気に冷えた。扉の形に景色が切り取られ、向こうが見えない。
さしものエリアスも、いささか怯んだ様子を見せた。
「ここに入るのか。真っ暗じゃないか」
「中に入れば見えるようになるはずたけど……とりあえず、最初に僕が入ろう。それからエリアス殿と聖御子様、カスヴァは殿を頼むよ」
ユウェインは平然と言い、自分の荷物を掴んで迷わず暗がりの中へ踏み込んだ。境界をまたぎ越した途端にその姿が消え失せる。向こう側から呼ぶ声が聞こえるでもない。
本当に安全なのか、とエリアスは露骨に疑念を表したが、ルナークは決断が早かった。相変わらず眉ひとすじ動かさず、滑るように闇へ入る。慌ててエリアスがそれを追った。
カスヴァは最後にもう一度、遺留品や目撃者の有無を確かめると、深呼吸をひとつしてから息を止めて境界を越えた。
水に潜るような覚悟は肩透かしに終わった。
一瞬だけひやりとした冷たさが全身を包んだが、それだけだった。戸惑いに瞬きした時にはもう、仄かに青く光る薄暗い世界に感覚が馴染んでいる。
「ここは……私はここを知っているぞ」
呆然と仰向いたままエリアスがつぶやいた。
決して明るくはない。だが暗闇でもない。不可思議な蒼い闇を凝縮した巨大な石が、床や壁を成している。
「黄金樹の書庫と同じ、ってことかい? それとも夢で訪れたことがあるのかな」
ユウェインが世間話のように言いながら、軽く手を振る。扉が閉ざされたのが、感覚でわかった。そのまま彼が「行こう、こっちだ」と歩き出したので、カスヴァは急いで呼び止めた。
「おい、『釘』はいいのか」
「ああうん、僕らがここから出たら抜けるよ。それまでは押さえておかないと危ないから」
「途中で緩んで抜けたら、『通廊』が潰れるんじゃないだろうな」
思わずぞっとなったカスヴァに、ユウェインはちらりと面白そうな笑みを浮かべたものの、真顔になって答えた。
「その心配はないよ。僕ら自身はこちら側にいる限り安全だ。でも隙間をこじ開けられた場所はしばらく不安定になるからね。そこらの『泡』を引き寄せてしまう」
「そうか。……しばらく誰もあの道を通らなければいいが」
「大丈夫だって。さあ、先を急ごう。いざ、我ら主と共に」
おどけて仰々しく祈り、ユウェインは颯爽と先頭に立つ。後ろについたエリアスが忌々しげに、貴様の神などあてになるか、と罵った。
暗い通廊を四人分の足音が進む。その残響と入れ替わるように、蒼暗い闇の底から、低く鈍い唸りがヴゥン……と床を震わせた。相の境に浮き上がろうとしたそれが、堅い床に阻まれ、震えながら横へ移動していく。どこか薄くなったところ、ひびの入った場所はないかと探すように。




