4-1 破滅の前奏
四章
「何ということをしてくれたのです!」
大聖堂付属迎賓館の奥、最も聖く尊い賓客が宿泊する荘重華麗な部屋に、ふさわしからぬ怒声が響いた。
声の主は聖務省長官、ハラヴァ枢機卿だ。平生は声を荒らげるよりも皮肉まじりの韜晦で相手を負かす性質だが、今この時ばかりは、広くなった額の端まで朱に染めて爆発せんばかりに怒っていた。
「ルナーク様は私が保護し、聖都へお戻り頂く、と申し上げましたぞ。一時保護を命じた司祭の教会へ迎えを遣わしてみれば、聖下の御しるしを所持した正体不明の輩が既にルナーク様を連れ出し、あげく行きずりの何者かがそれを拉致したという不始末。なにゆえ私に一言の相談もなく、不逞の輩を頼るような真似をなさったのです!」
怒鳴られているのは、白髪も既に薄くなった老人だった。痩せこけた身に纏う法衣も豪華というよりはただ重たげであり、小さくなった目はうっすら白濁している。
しかしそれでも彼は教会の頂点に立つ至尊だった。
「控えおれ、ハラヴァ」
苦々しく唸った声は嗄れていても力強く、譲らぬ意志が瞭然と表れている。裏切りを糾弾するつもりだったハラヴァは、相手が既に迎撃態勢を整えていることに気付き、警戒に身構えた。
「我はあまりに長く、汝に欺かれてきた。楽園の門が見えるに至り、己が愚昧の償いをするに一日の猶予もならぬ」
どろりと赤黒い怒りが流れると同時に、控えの間から衛兵が現れる。反射的にハラヴァは背後の扉を振り返ったが、既に遅く、入室時には石像のように動かなかった衛兵の二人が退路を塞いでいた。
「聖下、毒のささやきに惑わされますな。私はこの二十年というもの、御身の友であり忠実なしもべでありました。この命にかけて、神に誓って、我が衷心に一点の偽りもございません。何をお聞きになったにせよ、私にかけられる聖下の信頼を妬んだ、卑しい讒言でございますぞ」
ハラヴァは自身の無実を確信している人間らしく、落ち着き払って説いた。むろん敵のほうとて、彼がこの程度で取り乱し馬脚をあらわすとは思っていない。
教皇が座る椅子の背後、奥の続き部屋から、白々しい拍手が起きた。ハラヴァがそちらを睨むと同時に、もったいぶった態度でヴィフナーレク枢機卿が歩み出る。猛禽を思わせる鋭い造作の顔に皮肉な笑みを湛え、軽侮と挑発を隠さぬ声を放った。
「演技の才能は認めよう。惜しむらくはそれを発揮する場を間違えたことだ。芝居小屋でなら名声を博しただろうに」
「やはり貴殿か。下らぬ嫉妬で我々聖職者の本分を忘れようとは」
「分を忘れたは貴殿であろう。将来の地位を見込んで友誼を結び、位階を押し上げておいて己はその陰で卑しい画策を進め、神聖なる教会を穢したのだ」
ヴィフナーレクは決めつけ、笑みを消して冷厳な表情になった。獲物に爪を立てる直前かのように右手をもたげ、さあ兵士に合図を出すぞ、と圧力をかける。
ハラヴァは左手で銀環に触れ、教皇に向き直った。
「ラドミール八世聖下。いや、敢えて呼ぼう、我が友ヤヒム」
教皇としての名ではなく、親から授かった本来の名に語りかける。かつて同輩であり友人であったことを思い出させるために。
「なぜ今になって、長年の友情をすべて嘘偽りであったなどと言うのだ。あれほど時間をかけて論じ、共に『黄金樹の書庫』を探索し、我らの使命を確かめ合って歩んだ歳月を、すべて水泡に帰そうというのかね!」
取り乱さぬよう声高にならぬよう抑えた口調が、最後には綻びて無念と失望の炎を噴く。ヴィフナーレクが冷ややかな嘲笑を目元に浮かべ、教皇は後悔に顔を歪めて嘆息した。
「ああ、なんとも甘美であったことよ。汝の言葉を信じ、己の善なるを信じ、世界のありようと主の理にいささかの疑いも持たずいられた日々……その心地良さこそが欺瞞の罠であったというのに」
「今そうして真実を知った気になっている、その安寧こそ偽りのもたらす錯覚! 目を覚まして隣に立つ者をよくご覧なされ!」
ハラヴァが言い募り、思わずのように踏み出す。その一歩がぎりぎりの均衡を崩した。ヴィフナーレクが手を高く挙げ、衛兵たちが槍を構えて前に出る。
「教皇の友人の座を得て慢心したな、ハラヴァ。己の言葉が絶対の力を持ち、誰もが従うと思ったか。傲慢の罪、報いを受けるが良い」
流血の予感にハラヴァが銀環を握りしめ、教皇が今さら躊躇してヴィフナーレクのほうへ上体を傾けた。殺しはしないと聞かされていたのか、咎めるような表情で。だが萎びた唇が開くよりも早く、無情な右手が振り下ろされた。
風を切る槍の穂先が、次々と流星のごとく老人を刺し貫く。
「――な、にを」
かすれ声が漏れる。引き抜かれる槍につられて前のめりになった教皇が、震える手でヴィフナーレクの袖を掴もうとした。
鼻息ひとつ。ヴィフナーレクは穢らわしいとばかりの仕草で細い手を振り払う。顎で指図された兵士が、よろけた老人の背を槍の柄で殴りつけ、突き飛ばした。
血を滴らせて倒れ込む教皇にハラヴァが駆け寄り、膝をついて抱きとめる。
「ヴィフナーレク、貴様」
よりによってまさか教皇を手にかけるとは、さすがに予期していなかった。彼の驚愕と非難を、暗殺者は傲然と跳ね返す。
「違うな。貴様が殺したのだ。己が仕立てた『聖御子』を教皇の座につけて実権を握るため、悪魔に魂を売り渡した罪人よ。貴様の魔術が衛兵たちを操り、地上にありて最も聖く尊い御方を葬ったのだ」
声音は厳しく弾劾しながら、口元は勝利の確信に笑っている。彼が金と権力という魔術でもってロサルカの国守や要人を抱き込み、この計画を実行したのは明らかだ。聖都ではなくこのコニツカでなら、いかようにも事実を隠蔽歪曲できる。ハラヴァは水面下の動きを事前に阻止できなかった己に歯噛みしつつ唸った。
「素朴な信徒らに大罪の報いを忘れさせるとは、貴様こそ悪魔ではないか」
その時、腕の中で震えていた教皇が不意にすさまじい力で襟元を鷲掴みにした。死に瀕した老人は目をくわっと見開き、既に土気色になった顔をひきつらせてささやいた。
「頼む。ルナークを、ころ、すな」
魂の最後の一滴を絞り出すようにそれだけ言い、がくりと力を失う。ハラヴァは怒りに舌打ちし、かつて同志だった変節者の遺体を投げ出した。
「耄碌しおって」
罵詈を吐き捨てると、あとはもう見向きもしない。素早く立ち上がり、彼は短く唱えた。
「《蒼き死の陰をも、我は主と共に歩まん》」
「させん! 仕留めよ!」
ヴィフナーレクが命じたが、一瞬遅かった。ハラヴァの前に扉のような黒い影が出現し、彼がそこに飛び込むと同時に消えたのだ。
「おのれ悪魔のわざか……ええい、捜せ! ハラヴァ枢機卿は魔道に堕ちた、関わりのある者すべてを拘禁せよ!」
ヴィフナーレクの命令で衛兵がいっせいに散開する。騒ぎは迎賓館のみならず、大聖堂から首都全体へとひろがっていった。
捜索の兵が真っ先に向かったのは、迎賓館内でハラヴァが使っていた部屋だ。彼らが押し掛けるまでのわずかな猶予に、ハラヴァは一度そこへ姿を現していた。
「ハラヴァ様!?」
いきなり暗闇が口を開いて人を吐き出したもので、居合わせた数人が奇声を上げた。その中の一人、オリヴェルは、殴られた傷の手当てを受けたばかりだったので、叫んだのが頬骨に響いて顔をしかめるはめになった。
ハラヴァは誰にも目をくれず、素早く自分の貴重品を回収しながら告げた。
「皆、すぐにここから脱出しろ。ヴィフナーレクが教皇聖下を殺害し、その罪を私になすりつけた。私は悪魔の手先とされ、少しでも関係があった者は同様に追われるだろう。捕まれば拷問され、私の悪事をでっちあげる証言を強制され、従わなければ殺される」
室内にいた侍祭や司祭は見る間に青ざめ、うろたえた。すぐに身を翻して出ていった召使は賢明と言うべきだろう。オリヴェルもにわかには信じられなかったが、昨晩危うく殺されかかったばかりで、まだ楽観するほど悠長ではなかった。ハラヴァの配下の到着がもう少し遅かったら、指の数本も折られていたに違いない。
「ハラヴァ様はどちらへ」
立ち上がりつつ問うたオリヴェルに、素っ気ない答えが返る。
「まず聖都に伝書鳩を飛ばしてムラクに事態を知らせなければならん。もし私がやり損なったら、そなたらの誰でも良い、それぞれのつてで情報を流せ。ルナーク様には何としても、生きて聖都にお戻り頂かねば」
ではな、と言うなりまたハラヴァは、不可思議な術でもってその場から消えた。取り残された面々は困惑して視線を交わしたが、じきに外が騒がしくなると、急いで何人かが廊下に出ていった。
オリヴェルは室内を見回して自分の関与を示す手がかりを残していないことを確かめ、窓に駆け寄ってよいしょと乗り越えた。まともに館内を移動して、見付からずに外へ出られるとは思えない。
(とんでもないことになったぞ、エリアス。今どこにいる? おまえは死ぬなよ)
我が身よりも後輩を案じながら、彼は身を屈めて植え込みの陰から陰へと走っていった。




