3-7 聖御子の祈り
追跡は容易だった。街のそこかしこに祭の灯があり、見失う恐れはない。二人の男はルナークの前後に立ち、人通りを避けて街路を進む。襲撃の可能性など考えてもいないのか、一度たりとも背後を振り返らない。
外に潜んでいたエリアスは、尾行しているカスヴァたちとは別の道を通って先回りしていたが、そうするうちに行き先の予測がついて眉を寄せた。
聖都へ向かうならば南へ出なければならないのに、このままでは北の城門に行ってしまう。敵の待ち伏せを避けるためだとしても不合理だ。今は祭典の期間とあって夜間も城門の通行が可能だから、どこか隠れ家で夜明けを待つ必要もない。
(邪魔が入らないうちに一刻も早く外へ出よう、というのはわかる。だが聖都とは真逆に行くとなれば……)
不穏な予感に警戒を強めつつ足を急がせる。聖御子の一行は立ち止まることもなく北門を出ていき、エリアスもそれに続いた。
城壁の外には掘っ建て小屋がひしめき、市内と違って道らしき道はない。まっとうな方法で市内に入れない人々が生活と商いを営む場は混沌としており、紛れ込まれたらすぐ見失う。だが幸い、三人連れは夜の街道を歩き続けていた。
(どこまで行く?)
猥雑な賑わいも遠ざかり、藍色に沈んだ牧草地や畑の間をひたひたと進む。このまま月明かりだけを頼りに夜通し歩くつもりなのか。
怪しんでいると、やがて一行は道端の粗末な小屋に入った。宿屋どころか人家ですらない、恐らく厩か干し草小屋の類だ。戸を閉める前に片方の男が周囲を見回し、怪しい人影の有無を確かめる。エリアスは街路樹の陰にそっと隠れた。
一呼吸、二呼吸。密かに忍び足で小屋に近付き、耳をそば立てる。今のところ、中は静かだ。断片的に聞き取れる低い声は、このような不便不自由をおかけして申し訳ない、と詫びているらしい。
(どうやら殺すつもりはないか)
ひとまずほっと緊張を解く。しかし、ならばなぜ北側に出たのか。もっと情報が欲しい、と壁ににじり寄ったところで、微かに足音がした。ユウェインとカスヴァだ。無言のうちに三人はしばらく様子を窺った。
「今晩はここで……明け……馬車が……」
「我々が……ます。お休みくださ……」
ここで夜明かしするつもりだ。不寝番をすると言っているようだから、そのうち外に出てくるかもしれない。エリアスたちは目配せを交わすと、慎重に小屋を離れた。
街道を挟んだ向かいの木陰に身を潜め、三人はひそひそと小声でやりとりした。
「ひとまず暗殺の心配はないようだ」
「ああ。教皇の使いというのは本当だったか」
カスヴァが漏らした安堵に、エリアスは眉を寄せた。
「ハラヴァ様ではなく?」
「枢機卿より教皇のほうが効果絶大だからだろう」
同じ陣営なのだから不思議ではあるまい、というカスヴァの答えはもっともだが、エリアスはそこにひっかかりを感じた。ハラヴァ枢機卿は物事を自分で掌握しておくのが好きな性質だ。腑に落ちない。
「それより」とユウェインが口を挟む。「あちらさんは馬車の用意があるらしい。どうしようか」
エリアスは渋面で思案し、ややあって唸った。
「偶然を装い、便乗させてくれと頼んでみよう。特使ならば不自然ではあるまい。行き先を確かめ、聖都であればそのまま同乗する。貴様は悪魔のわざでもなんでも使って後から追って来い」
「それしかないね」
ユウェインは残念そうにため息をついた。馬車の大きさ次第では全員乗れなくもないだろうが、口実がない。体力なしの司祭は徒歩の旅を憂うように足を見下ろしたが、エリアスは頓着しなかった。
「問題は、行き先が聖都でなかった場合だ」
「その時は馬車を強奪しよう」
むしろそうであって欲しい、とばかりにユウェインが即答し、カスヴァとエリアスは揃って呆れ顔をした。が、実際問題そうするしかないのは明らかだ。カスヴァは小さくうなずき、小屋を見やってささやいた。
「なら、それまで交代で眠っておこう。最初は俺が見張りをする」
※
太陽がいつ昇ったのか、判然としない夜明けだった。
厚く垂れ込めた雲がぼんやりと光を帯び、いつの間にか辺りが薄明るくなっていた。爽やかな鳥のさえずりの代わりに遠雷のごとき車輪の音が近付く。不寝番をしていたエリアスは他の二人を起こし、茂みに身を伏せて待ち受けた。
二頭立ての馬車は黒く塗られ、扉に白銀の円環が描かれている。円を区切るのは一本の縦線と三本の横線。教皇が持つ錫を象った意匠だ。堂々としるしを掲げているのは、隠密性よりも道中の面倒を省くことを優先したからだろう。
エリアスは内心ほっとした。これで、偶然通りかかった浄化特使が便乗を願う、という状況がより説得力をもつ。頃合いを見計らい、彼は御者に見付からないよう馬車の背後に回り込んでから街道に出た。
小屋から聖御子一行が現れ、馬車に乗り込もうとする。その時はじめて気付いたように、エリアスが声をかけた。
「おはようございます」
「……っ!」
何奴、と怒鳴りこそしなかったが、反応はそれに等しい激しさだった。とっさに二人の男がルナークを隠す壁となり、外套の下で身構える。剣に手をかけたのは明らかだ。エリアスはゆっくり馬車の陰から出ると、よく見えるように外套の前を開いてから、銀環に手を添えて一礼した。
「主の祝福がありますように。このような場所で教皇聖下の御しるしに出会えるとは、まさに主のお導き。叶うならば途中まででも、相乗りを願えませんでしょうか」
返事は沈黙だった。司祭の間で交わされる決まり文句の答礼さえない。目配せで無言の相談をする二人の気配は、明らかに殺意を伴っている。エリアスは当惑したふりを装いながらも、素早く剣を抜けるよう右手に意識を集中した。グラジェフならばとぼけて行き先を聞き出しただろうが、師匠ほどの余裕も貫禄もない若造では致し方ない。なりゆきの不穏を察した御者がそろそろと後ずさっていく。
その時、予想外のことが起きた。
ルナークみずからが進み出て、エリアスの側に立ったのだ。誰もがぎょっとして少年を凝視した。
「この方と共に参ります」
「何を仰せられます!」
ほとんど悲鳴のような叫びに、ルナークは何の感情もこもらない声音で応じた。
「わたしは聖都に戻らねばなりません。あなた方の意志とは異なる」
見抜かれた“迎え”の二人が息を飲み、たじろぐ。そこへカスヴァとユウェインも姿を現して聖御子を囲んだので、形勢は一気に逆転した。
「自分の意志を持たない人形かと思いきや、使命感だけはしっかり備わっているとはね。嫌な仕様の聖御子様だ」
ユウェインはルナークに辛辣な一言を投げつけてから、二人連れに向き直って丁寧に一礼した。
「聖御子を侮っていたようだね。君たちに指示を出した至尊がどなた様であれ、聖霊憑きの能力を正しく理解していないんだろう。だからこそ、円環の断裂を修復する唯一の手立てを放棄しようなどと考えた……君たちに自分の頭があるのなら賢明な判断をしたまえ。このまま聖御子が役目を果たさなければ、世界は数年以内に崩壊する」
「口を慎め、涜神者が」
男が罵り、すらりと剣を抜いた。応じてカスヴァも鞘を払う。ユウェインは嘆かわしいと頭を振った。
「だったら君たちは盲信者だ。じきにエリュデ東南部やエルデキア東部から、助けを求める急使が続々と聖都にやって来るぞ。外道でも悪魔でもない、得体の知れない災厄の報せを携えて」
皆まで言わせず、斬撃が襲いかかった。カスヴァとエリアスがそれぞれ応戦する。ユウェインは加護の聖句で援護した。銀光の盾が刃を逸らし、生じた隙にカスヴァの剣が敵の腕を裂く。残念ながら浅手だ。素早い突きで反撃され、危ういところで大きく跳ね上げて間合いを取る。
ユウェインも急いでルナークの手を引きつつ後退したが、エリアスの攻撃をかいくぐった男が馬車を回り込んで突進してきた。
「行かせん!」
聖御子に手を伸ばし、むんずと引っ掴む。間一髪、彼が握ったのは外套の裾だけだった。ユウェインが少年を引き寄せ、留め具が壊れて外套が脱げ落ちる。勢い余った男がつんのめったところへ、御者台を乗り越えたエリアスが剣を振りかぶって飛び降りる。
そのまま男はまっぷたつ、かと思いきや、仲間の危機を見た片割れが強引にカスヴァを突き飛ばし、エリアスにぶつけた。二人はもつれて転倒しかけたのをぎりぎりで堪え、体勢を立て直す。
混戦を尻目にユウェインはルナークをぐいぐい引っ張って、さらに逃げる。援護するにも、まず聖御子を安全圏まで遠ざけなければならない。
「まったく、人間ってのはどうしてこう目先のことばかり」
直後、銀光の花が指を弾き、彼は火傷したように手を離した。一瞬の隙に、ルナークはくるりと踵を返して戦闘の場に向かう。
「危ない!」
気付いたエリアスが警告したが、ルナークは一瞥もくれなかった。巻き込むのを恐れたカスヴァが剣を引き、戦いの流れが鈍ったところへ、羽根が舞うように華奢な手が差し伸べられた。
誰もが時の神に動きを止められたような、奇妙な空白。
その間に、少年が二本指でトン、トン、と二人の男の眉間に触れる。
それだけだった。聖句も《力のことば》も唱えず、印を切ることもせず。それだけで、触れられた者は糸が切れたようにくずおれ、倒れた。
「え……?」
カスヴァとエリアスは共に唖然とし、ほんの今さっきまで刃を交えていた敵を見下ろした。気絶したのかと思ったが、違う。地に伏した背中から、微かな白い影がすうっと立ちのぼり、聖御子の胸に吸い込まれていった。
身じろぎも、喘ぎひとつもない。
重い沈黙の中、ルナークは眉ひとすじ動かさないまま、己が手で命を絶った男の傍らに膝を突く。それから彼がしたことは、他の三人を完全に絶句させた。
遺体を仰向かせて両手を胸の上に重ね、瞼を下ろしてやり、臨終の祈りを唱えはじめたのだ。
――なんだこいつは。
誰も声に出しはしなかったが、カスヴァは他の二人も同じ思いだと確信した。得体の知れない化け物に対する目つきで少年を凝視する。
人柱にするべく非道な手を加えられた痛ましい少年、だとはもう考えられなかった。外見だけはそうでも、中身は人間ですらない異質な何かだ。
ぽつん、と雨粒が馬車の屋根を叩いた。肩に雫を受けたエリアスが我に返り、馬車か小屋に入るべきかと振り返る。そしてはっとなった。素早く馬車の扉を開けて空っぽなのを確かめ、ぐるりと回って小屋まで走る。こちらも中は無人だ。
「御者がいない!」
彼の叫びでユウェインも慌てて街道の左右を見渡した。曇天の薄暗がりで見通せる範囲に、人影はない。
「しまった、完全に忘れてた。けど、馬車を置き去りにしてくれたことはせめてもの幸運だ。カスヴァ、警報が届けられる前に早くここを離れよう」
「ああ。とりあえず、おまえは濡れない内に乗ってくれ」
カスヴァは御者台を一瞥して応じる。エリアスが戻って来て、地に伏したままの遺体をひっくり返しながら「御せるのか」と問うた。
「経験はないが、動物に意志を伝えて従わせる魔術が……ああ、使えそうだ。なんとかなるだろう」
彼が答える間に、エリアスは手早く遺体の所持品を物色し、財布と教皇印の入った書状を失敬した。
「銀環は持っていないな。やはり正規の司祭ではなく、専門に雇われた輩か」
ふむ、と思案し、雨滴に頬を打たれて顔をしかめる。そこへルナークがやって来て、もう一人にしたのと同様に遺体を整え、祈りはじめた。
エリアスは困惑し、どうしたものか、と視線でカスヴァに問いかける。無理やり馬車に押し込んで出発すべきではないか、と。
カスヴァは小さく首を振った。
「馬に術をかけている間に、祈りも終わるだろう。先に乗ってくれ」
「……了解」
エリアスは落ちていた聖御子の外套を拾い上げ、馬車に乗り込む。カスヴァは前に回って馬の首に触れ、意識に浮かぶ記憶の書物を繰った。
初歩的で簡単な術をかけ終えた時には、雨も本降りになっていた。ひざまずいたままの聖御子の白い祭服が、瞬く間に灰色に染まってゆく。
静かに祈りを終えた少年が立ち上がった。髪も服もぐっしょり濡れて、裾は泥はねに汚れているが、相変わらずその顔に感情の曇りはない。哀悼も憐憫も一切。にもかかわらずカスヴァはふと、口をつくままに問いかけた。
「気が済んだか」
済ませなければならない『気持ち』など、この少年にはないのだろうに。
それでも彼が「はい」と応じてうなずき、見納めするかのように都の影を振り返った時、カスヴァはそこに何がしかの想いがあると信じずにはいられなかった。
降りしきる雨の中を黒い馬車がひた走る。同じ頃、ずぶ濡れになった本来の御者が、町の教会に駆け込んでいた。
顔色を失った御者からしどろもどろの説明を受けた男は、冷ややかな目を傍らの司祭に向けた。
「ルナーク様が拉致されたそうだ。賊は浄化特使と司祭と剣士だとか……ほう、司祭オリヴェルは心当たりがおありのようだ」
「……ええ、いささか驚いております。大聖堂からこちらに戻る途中、襲われたところを助けてくれた通りすがりの方というのが、そのような三人でしたので」
「なるほど。ではその折に貴殿、少々おしゃべりが過ぎたか、あるいは何かを聞かされたのでは?」
素朴な司祭の言い逃れなど、男には通じなかった。怜悧なまなざしが鋭さを増し、刃となって喉元に迫る。
「じっくり話し合う必要がありますな。ぜひとも」
重い一歩が、ぎしりと床板を軋ませた。




