表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
76/133

3-1 失われた都


  三章



 素晴らしい日になるはずだった。

 街は祝祭の喜びに溢れ、人は皆、各々が崇める神の祭殿に集った。笛、竪琴、太鼓や喇叭。美しい歌声。かぐわしい香の煙。すべてが神々を讃え、我らを御元に迎えたまえと謳う。


 少女も同じだった。


 宇宙の中心、偉大なる帝国の都ハルディナにおいて先頃なされた決定は、国民から歓呼で迎えられ、少女も同じく喜びをもってその知らせを聞いた。

 幼くして神殿に入ったため、外界の世俗的な事情は彼女にはよくわからない。だが『我々人間の存在を神々の世界に引き上げる』というのは紛れもなく素晴らしいことだ。選ばれた帝国の民、平和を愛する賢明な人々だけが、憎悪と苦しみに満ちた地上を離れ、神々のもとに楽園を築くのだ。

 神殿の運営に携わる大人たちも、参拝に訪れる人々も、誰もが安堵し、ハルディナの七賢人と皇帝の英断を讃えた。


 ――否。誰もが、ではなかったのだが、少女はそれを知らなかった。


 当時帝国は、繁栄しながらも疲弊していた。学問も技術も神術もまさに発展の頂点を極めたように見え、人々の生活は豊かで便利で安楽が当然となり。皮肉なことに、それゆえの不寛容が蔓延していた。

 安楽を妨げるもの。豊かさをかすめ取るもの。不当な要求を掲げて今の世の秩序を乱すもの。

 それら卑しく愚かなる存在――これほど豊かな世界においてなお続く対立と諍い、内外遠近にある『敵』の存在に、大勢が倦み疲れていたのだ。


 帝国を覆う病は政治の中枢をも蝕み、その結果としての『福音』だったのだが、少女はそれを知らなかった。

 七賢人の一人イファラムには拝謁賜ったことがある。大祭司のつとめを授かった時だ。だから彼女は信じた。あの尊く聖く賢い方が決められたことなのだから、しかもそんな方々が七人も揃って賛同されたのだから、間違いなどあるはずがない、と。

 少女は課された祭式手順、神術を織り込んだそれを、真摯に確実に執り行い……


 その時が、来た。


 大地を覆う神術の霊脈が輝き、力が光となって溢れ、人々を包んだ。

 確かにその瞬間、少女はまったき幸福を得た。恍惚に満たされ、あらゆる苦しみも怒りも憎しみも悲しみもなく。

 もはや『相容れないもの』など存在しなかった。感知し得るのはただ、己ひとり。むろんそこに寂しさや心細さが生じることはない。果てしない自由と安らぎ、神と共に在る充足。


 『完全』とはこのことだ。


 時間は意味を失い、刹那であり永遠でもある『完全』――ただし、かりそめの。

 一切の瑕疵なき世界に小さな揺らぎが生じた。瞬間、完全は失われ平穏は乱れ、不安の波が走り抜けた。


 おかしい。こんなはずでは。

 我々はどうなってしまったのだ。私は。俺は。僕は。なぜだ、なぜまだこんな恐れが。


 ざわつきが他者の存在を教える。少女は周囲を意識した。何ものにも煩わされず制約も受けず、無限の世界にやすらうはずだった人類は、唖然とするほど近くにひしめき合っていた。

 原因が何であれ、計算違いがあったのは明らかだった。


 不安定になった霊魂が震え、弾けた。

 すぐ近くに在ったものが余波に呑まれて消え、一回り大きな渦になる。次々に弱い魂が共喰いを始めるさまを、少女は驚きながらも他人事として眺めていた。


 大祭司たる彼女にはまだ、神の御元にいる確信があったのだ。己が『我が神』の庇護下にあり、肉体を捨て純化した存在となった今、よりいっそう神の力添えを受けられているという確信。


 安定した場に確固たる自己を維持する少女の足下に、乱れ弾け喰いちぎられた霊魂が、救いを求めて寄ってくる。少女は恐れなかった。それらが彼女を喰らいにくるものではなく、彼女の背後にいる神に縋ろうとしているのだと理解していたから。

 わたしは大祭司だ。人の願いを集めて神に伝え、神のいらえと恩寵を地にもたらすのがわたしという存在。

 ゆえに少女は受け入れた。群がり来る願いを。



 救いたまえ、救いたまえ、我らをこの地獄から……



   ※ ※



 ユウェインとなった現在のエトラムは、少女の記憶を第三者の目で観察していた。

 そう、もう他人だ。

 すべてのもといであったとしても、まさに「今さら」である。少女エトラムは大祭司という位を与えられてはいても、何も知らなかった。神に捧げられた贄にすぎず、人間のために神をなだめ、とりなすだけの存在。


(今はもう違う)

 彼は夢の縁で冷ややかに確かめる。


 あの時点ではエトラムも、多くの霊魂を取り込んでなお自我に変化はなかった。

 近くにあって彼女に縋ってきたのは、もはや人と呼べる状態にない残滓だったし、そもそも都の至尊のなさりように間違いなどないと信じる程度に無知な者ばかりだ。数十人取り込んだところで得られる知識などたかが知れている。

 だからその後、帝国の物理的な壊滅をもたらした変化に巻き込まれなかったのは、得られた知識で対処したからではなく、純然たる幸運だった。


 広大無辺な霊界にいきなり押し寄せた大量の元人間たちは、互いに喰い合うことでなんとか存在を安定させようとあがいていた。

 一方で、霊界と地上との均衡を保っていた世界の円環にひびが入ったと気付いた都の賢人たちもまた、恐慌に陥った。選ばれた民、賢明なる選択をした人々のみが、死を超えて『高次の世界に転生』するはずであり、その程度で世界がどうにかなるわけがないというのがすべての大前提だったのに。


 このままでは、地上も霊界ももろともに崩壊する。ふたつの相がでたらめに入り交じり、泡立つ嵐の海になってしまう。

 なんとしても円環のひび割れを塞がなければ。割れたなら埋めるのだ。埋めて、つなげて、姑息な処置であっても時間を稼ぐのだ。


 そのために――材料が必要だ。


 ひとりの人間が責任を負わされた。その者を基として、円環を修復するための霊力が集められた。人間の霊魂程度では足りない。あらゆる生命、あらゆる力が、すさまじい勢いで人柱のもとへ吸い寄せられていく。


 わずかな間の出来事だった。

 大祭司エトラムが知覚できたのは、そこらじゅうに蔓延していた霊魂の残滓が一瞬でかき消えたこと、自分が存在する小さな『場』の外では暴風か大津波のような何かがすべてを浚っていったことだけだった。


 帝国は都から拡がる死の波に呑まれ、悪夢のように砂漠と化していった。

 逃げるどころか、何か危ないらしいと気付く間もなく、人間も家畜も、虫も鳥も草木も、建物までが、存在の力を吸い尽くされて砂になる。

 世界の相に走った激震は地上の形を変え、断絶や異形化を引き起こした。

 そして、あらゆる苦しみを逃れて楽園に入るはずだった人々は、再び地上に弾き出された。肉体を持たない、されど霊界にも入れない、彷徨える影として。



 ――では、それをもたらした人間たちはどうなったか?




「逃げたんだよ」

 ユウェインは瞼を上げ、大悪魔の説明に聞き入る二人に向かって言った。

「当たり前だけど、応急処置だけして直後に自分たちも人柱にされちゃ、意味がない。時間を稼いで逃げて、根本的に世界を元通りにする方法をどうにか突き止めないと、無理なつぎはぎだけではまたそこから壊れる。だから、七賢人の残り六人をはじめとするお偉いさんたちは、『通廊』を開いて逃げたんだ。ありったけの知識と最低限持ち出せる道具類を抱えてね。その出口が恐らく今の聖都にある」

「…………」


 すぐには何の反応もなかった。『円環の断裂』について、かいつまんで(もちろん大祭司エトラムの人物像についてはあらかた省略して)話したのだが、さすがに予想外だったらしい。ユウェインは肩を竦め、テーブルに置かれた水を飲んだ。


 話の発端は、南へ行くというのはつまり砂漠に消えた都の跡を探すのか、というエリアスの問いかけだった。

 いやいやまさか、まともに砂漠を突っ切っていくなんて無理だよ、装備もお金もないんだし……とユウェインは笑い、しかめっ面の浄化特使に理由を説明したのである。


 しばらくしてカスヴァが眉間を揉み、唸り声を漏らした。

「なんと言うか……ある意味では教会の教えも正しかったわけだな。失敗に基づく教訓か。どうして誰も止めなかったのか、とても想像つかん」

「違う時代から批判するのは簡単だけどね、その時その場にいて何かが出来る人間なんてほとんどいやしないんだよ。世間の雰囲気、時代の流れ、国を引っ張る一部の層を支配する思想信条……それに周辺勢力からの圧力。どんな馬鹿げた価値観も国策もまかり通る。異なる意見なんて圧殺されるだけだよ。だからこそ、圧殺する側のくせにそんな社会に嫌気が差したと高尚なことを仰せになって、尊い民族を救済するために一大魔術を発動させたってわけさ」


 ユウェインは辛辣な冷笑を浮かべて言い捨て、己の発言そのものを払うように軽く手を振った。


「まぁ、今さら大昔の馬鹿を罵ってもなんにもならないから、その辺は捨て置いて……当面の僕らの問題だ。あいにく僕は、聖都の内部についてあまり詳しくない。これまで大勢食べたと言っても、高位聖職者の魂はさすがになくてね。僕自身ユウェインも聖都ではほんの下っ端だ。というわけで特使殿、お知恵を拝借したいんだけど、どうかな?」


 質問を振られたエリアスは、カスヴァに負けず劣らず渋い顔だったが、古い過ちには言及せず今後の方針について答えた。


「心当たりがなくもない。『黄金樹の書庫』と呼ばれる部屋があって、禁忌の書物が多数保管されているのだが、内部は独特の空気だったな。私も機会がある度に入り浸ったが、最深部まではとても探索しきれなかった。もしかしたら……」

「なるほど、可能性は高いね」

「しかしあの書庫に入り込むのは、砂漠を渡るのと同じぐらいに難しいぞ。特に貴様など聖都に入った途端に正体を暴かれて、一斉攻撃を受けた末に今度こそ昇天だ」

「嬉しそうに言わないでほしいな」


 ユウェインが眉を下げると、笑顔の自覚がなかったエリアスは白々しく無表情を取り繕った。カスヴァが咳払いし、曖昧な視線を浄化特使に投げかけてから、軌道修正した。


「聖都に潜入する手段を考えるのは、後でいいだろう。現地の状況がわからなければ具体的な方策を立てても無意味だ。エリアス殿の、その……上司である枢機卿を頼れるのか、聖御子の代替わりを進めている人々がどこまで過去の真実を知っているのかによって、こちらの採り得る方法も変わる」

「そうだね」ユウェインも真顔に戻った。「教会内部が揉めているなら、僕らの付け入る隙もあるかもしれない。あるいは逆に、力ずくで押し入るしかないざまかも知れない。教会領の端か、少なくともロサルカの首都まで行けば情報が入ると思うけど」


 ロサルカ共和国の首都コニツカには、聖都に匹敵すると言われる大聖堂がある。枢機卿のひとりである大司教がおり、重要な典礼のいくつかがここで催され、教皇もよく訪れるのだ。


 エリアスがうなずき、思案しながら言った。

「ノヴァルクを避けて移動するなら南回りで行くしかないな。私が通った後で『泡』にやられていなければ、問題はないだろう。聖都に向かう司祭二人と巡礼が一人。妙な行動をしない限り不審に思われることはない」

 ふん、と鼻を鳴らしたのが当てこすりなのは明らかだが、ユウェインは気に留めなかった。

「教会に泊まりながらの旅なら、そんなに費用もかからないしね。館に残った財産でなんとかなるさ。時間とお金を節約する別な方法をちょっと考えてもいるけど……まぁ、上手くいくかどうかわからないし、とりあえず特使殿とカスヴァで荷造りを始めておいてくれるかな」


 怪しげなことを仄めかした悪魔憑きに、二人が揃って眉をひそめる。カスヴァが疑わしげに確認した。


「それは構わないが、今度はまともな案だろうな? 窯の時みたいなのはやめろよ」

「些細な失敗をいつまでも引っ張らないでくれるかな! 今度はあっと言わせてやるよ、お楽しみに!」


 途端にユウェインは赤くなって怒り、憤然と席を立つや、行き先も告げずに出て行ってしまう。取り残された二人は何となくちらりと視線を交わし、互いにそれぞれなりの不信を表情に浮かべたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ