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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
75/133

2-7 ここから、もう一度(後)


 エリアスが意識を取り戻したのは、まさにその瞬間だった。痛みと悪寒に歯を食いしばり、重い瞼をこじ開けて霞む視界に目を凝らす。

 愕然としているカスヴァと、頭痛を堪えるような顔のユウェイン。そして、何より大事な神銀の剣は悪魔憑きの背後の椅子に横たえられている。

 その柄を握るまでに必要な動作を考えながら、エリアスは用心深く肘をついて身を起こした。


「……なぜ、貴様がそれを」


 ひどく嗄れた唸り声に、カスヴァが弾かれたように飛び退きながら振り返った。エリアスは彼を無視して悪魔憑きだけを睨み据え、痛む身体を強いて動かす。

 ユウェインがたじろぎ、後ずさったが、そのまま逃がすエリアスではなかった。ひとつの直観が彼の奥底に眠っていた燠を掻き立て、燃え上がらせたのだ。

 異様な熱を両眼に灯し、彼は素早く手を伸ばしてユウェインの襟元を掴んだ。


「嘘をついたな、貴様。知っているのだろう……悪魔ツェファムを。奴に会ったな?」


 怨念だけで動く屍のように、血の気のない顔を今にも噛みつきそうなほどに近付ける。今度こそ決して偽りを許さない強さで瞳の奥を覗き込み、真実を要求する。


「言え。奴はどこだ。どこにいる」


 ユウェインは即答せず、ぎゅっと目を瞑って天を仰ぎ、嘆息した。

 ひりつくような沈黙の後、ついに観念した悪魔は、処刑の刃を前にした囚人さながらの絶望的な顔で一言。


「ごめん。食べちゃった」

「――っ!」


 息を飲んだのはカスヴァだった。エリアスはまじろぎもせず悪魔を見据えたまま、無感情に繰り返す。


「……食べた?」

「うん。十年ぐらい前、君の家を焼き落とした少し後だね。あれが随分楽しかったらしくてさ、似たようなことをもっと大規模でやりたいから協力しろとか人間くさいこと持ちかけてきて」

 ユウェインは再度ため息をつき、諦めの表情で淡々と白状していく。

「興味ないって断ったんだけど、しつこくてさ。しまいに、話に乗らないなら食って力を奪ってやる、とか吠えかかってきたもんだから……相手するのも面倒で。ぺろりと」

「…………」


 エリアスが石になり、壁際に退避したカスヴァが目を覆った。

 鉛のごとき沈黙に時間までが止められて――不意に、笑いがこぼれる。

 衝動的な可笑しさを堪えきれず、エリアスは悪魔の胸倉を掴んだまま、肩を震わせて笑いだした。


「くっ……く、くく……そうか、それで……」


 アレシュが夢に現れたのも、そういう理由だったのか。彼を喰った悪魔がこの大悪魔に喰われたから、最後に消え残っていた魂の欠片が未練がましく夢に。

 滑稽だ。笑うしかない。

 復讐に燃えて自らの名前と性を捨て、血の滲む努力を重ねて司祭を目指した五年間。その頃にはもうとっくに、あの悪魔は『ぺろりと』喰われていたのだ。

 笑い続ける青年に、元凶の当人が気遣わしげな表情をして見せているのも、ああ、可笑しい。


「……苦しんだか?」

「えっ?」

「奴は苦しんだか。貴様に喰われながら、卑しい野心が叶わないと悟って泣き叫んだか?」


 悪魔じみた笑みで問うたエリアスに、本家の悪魔もまた邪悪な愉悦を満面に湛えて答える。


「ああ、それはもう傑作だったよ。なぜだ、なぜ私が、って悲鳴を上げてもがき苦しんでね。当たり前の結果だってのに馬鹿だったら。情けないざまで、嫌だ嫌だ死にたくない、助けてくれ、って泣き喚いたとも」

「ふっ、ふ、はは、はははは! そうか、奴はたっぷり苦しんで死んだか!」


 エリアスは哄笑し、手の力を緩めた。解放されたユウェインがほっとして、同調するように少し笑う。

 その隙に、エリアスは彼を突き飛ばして背後の椅子から剣を取った。


「なら次は貴様の番だ! 死ね!!」

「ええぇ!? 待って、それはないよ! ここは『仇を取ってくれてありがとう』じゃないの!?」

「黙れ悪魔!!」


 神銀の刃が唸る。ユウェインは悲鳴を上げて逃げ出した。とっさにカスヴァが剣を抜き、割って入る。


「邪魔をするな!」

「事情はよくわからんが落ち着け!」

「わからんなら引っ込んでいろ!!」

 自暴自棄なエリアスの剣を受け止めながら、カスヴァが怒鳴り返す。

「いいから落ち着け! そんな身体で暴れるな、浅手ばかりでも血を失いすぎれば死ぬぞ!」

「うるさい!!」


 いつの間にかエリアスは泣いていた。悲しみか怒りかもわからないままに、泣き叫んでいた。

「そこをどけ!! 殺す、殺してやる、殺してやる……っっ!!」

 雄叫びを上げて闇雲に斬りかかる。だがもう腕にも足にも力が入らなかった。自分の血で手が滑り、剣を取り落とす。それでもまだ悪魔を追おうとして阻まれ、怒り任せに掴みかかる。目の前の邪魔な男をまっぷたつに裂いてやりたいほど激情が荒れ狂っているのに、指が痺れて何もできない。

 床板の継ぎ目につまずいてよろけ、膝が抜けて倒れ込む。抱き止められたのが屈辱を倍加させ、同時にすべてを投げ出したくなって、エリアスはもう誰のものかもわからない腕にしがみついて泣き崩れた。


 遅かった。何もかも遅すぎた。

 エリシュカ=ベドナーシュの人生が破滅させられ、家族も、住み慣れた屋敷も、当たり前に続くと信じていた生活も、いっさいを奪い尽くされたことは、もう何ひとつ償われない。何ひとつ取り戻せない。あの悪魔を殺せば得られたであろう、ささやかで虚しい、一時の満足さえも。

 すべて無駄だった。虚しく無意味だった。この十年は何だったのだ!


 ……号泣して気力体力を使い果たし、いつの間にか意識を失っていたらしい。

 気絶したという記憶もなく、一瞬の暗い断絶の後、目が覚めるとベッドに横たわっていた。清潔な麻の肌着に着替え、身体のあちこちから司祭にはお馴染みの傷薬の匂いをさせて、心を落ち着かせる銀鈴樹の香りに包まれて。


 長くて嫌な夢を見た、と彼はぼんやり思った。ここは学院の医務室だろうか。何か失敗して、ニィバ様が……

(いや、それこそ夢だ)

 瞼を閉ざし、ゆっくり深く息をする。改めて目を開き、そっと首を動かすと、視界に青年司祭の姿が入った。


 動きに気付いてこちらを振り向き、曖昧な微笑で、やあ、とだけささやく。温厚で善良で、少し気弱そうな顔。それを見ても、エリアスの胸中には感情のさざ波ひとつ立たなかった。

 こいつは悪魔憑きだ。

 強いて意識してみても、空疎な灰色の部屋に落ちた独り言のように、何ら意味を成さなかった。

 ……だから? だから何だ。


 無言のまま虚ろなまなざしを向けるだけの怪我人に、司祭は穏やかな口調で説明した。


「後に障りが残りそうな深手は、ひとつもなかったよ。さすがは浄化特使だね。少し心配な所は癒しの秘術も施しておいたし、二日もあれば、すっかり傷は塞がると思う。とは言っても、それなりに血を失ったようだから、しばらくは無理をしないようにね」


 言葉は耳に入り頭で理解されるが、心には達しない。

 何の反応も示さないエリアスに、ユウェインは懸念の表情を見せたが、すぐに優しい微笑を取り繕った。


「手当てや着替えは全部僕がやったから、その点もご心配なく。まぁ、司祭だからって疚しい感情を抱かないという保証はないけれど……」


 ああ、そういえばそんな奴がいた。

 ふっ、と脳裏にいつかの光景がよぎる。瞬間、締め付けられるような痛みが戻って来た。さもしく言い訳する土地付き司祭の前に厳然と立つ、師の姿。


「……僕は悪魔でもあるからね。数えきれない魂を取り込んできたし、今さら性別だのなんだの、気にしやしないよ。カスヴァには内緒だけど、そもそもエトラムって女性名なんだよね」

「何?」


 懐かしい追憶に浸っていたところへ、何かとんでもない一言が聞こえた気がして、エリアスは思わず聞き返してしまった。ユウェインはとぼけて肩を竦める。


「いやまぁ、僕らの時代の名前が独創性に欠けるってのは、君に言った通りでね。だから男女の区別なく使われる名前も多かったんだけど。最初の一人、カディナの炎神殿大祭司エトラムは未婚女性だったよ。当時まだ十代の小娘。少しは安心したかい?」

「何をどう安心しろと……」

「いや、ほら、相手が司祭と言っても裸を見られたのはやっぱり嫌だろうなと。僕なりに思いやりを」

「馬鹿馬鹿しい。貴様はあの悪魔ツェファムを喰らって取り込んだのだろう。そして今は司祭ユウェインの皮を被っている。今さら最初の一人がどうだと言うんだ」


 女同士仲良くしましょうね、とでも? 冗談ではない。虫酸が走る。

 チッ、と舌打ちしたエリアスに、ユウェインはかえって嬉しそうな顔をした。


「調子が戻ってきたようで何よりだ。このぶんなら、お粥ぐらい食べられそうだね。作ってくるから、君はここで大人しく寝てるんだよ」

 まめな看護人らしく、もういそいそと立ち上がる。エリアスは複雑な顔をした。人間が相手なら礼を言うべき場面だ。怪我の手当てをしてもらい、食事の用意まで。だが悪魔相手の場合は?

 ユウェインは察したらしく、愉快げに苦笑した。

「僕には感謝しなくてもいいよ。司祭なら当然すべきことだし、君を助けたいのは僕の独善だから。ただ、後でカスヴァには感謝なり謝罪なり、伝えてあげてくれないかな。君を担いでここまで運んだ上に、血と泥で汚れたシーツを今、外で洗濯してるから。故郷を失った直後だっていうのにね」

「あ……」


 己が斬りかかって罵倒した相手の事情にやっと思い至り、エリアスは反射的に起き上がろうとした。が、さっきと違って肘で上体を支えることさえできず、がくんと潰れてしまう。


「無理しないで、寝てなよ。ゆっくり身体と心を休ませて、……これからのことを考えるのは、その後でいい」


 ユウェインが慈愛に満ちた笑みを見せ、それじゃあ、と背を向ける。今までなら胡散臭く思えたその笑みを、今回ばかりは素直に受け止めて、エリアスは静かに横たわった。


 ――これから。

 天井の梁を見つめて、考えを巡らせる。さっきのあの口ぶりは、「やっぱり悪魔を殺すためにまた剣を向けるなら、それでもいいよ」と受容するものだった。君がどうするとしても僕はそれを受け入れるよ、と。


(これから……私は、これから何をすれば良いのでしょう。グラジェフ様、あなたの意志を継ぐと約束したのに)


 すべての悪魔を滅ぼす、あなたの為に、と誓った師匠はもういない。仇敵の悪魔はとっくに死んでいた。そして今や世界そのものの存続が危ぶまれ、悪魔にかまけている場合ではないと知ってしまった。

 それでも。


(この期に及んでやはりなお、悪魔を殺したいと言ったら……頑固者め、とお叱りを受けるでしょうか)


 やはりどうしても、許せないのだ。

 そもそも今のような世界のありようにした古代の人間が『悪魔』になったというのなら、その償いをさせるべきだ。のうのうと地上世界に居座り、現在を生きる人々の心を掻き乱し弱さに付け込んで、救ってやるふりで人生や命を奪うなど、決して許せない。


(死者はさっさと、楽園なりどこなりと死の国へ行くべきだ。そうでしょう、グラジェフ様。地上世界は生者のもの。我々はいにしえの亡霊に搾取される家畜ではない)


 師の面影に語りかけることで心が落ち着き、意志が固まる。

 ――もう一度。ここからもう一度、やり直しだ。

 真実を突き止め、地上世界から真の意味で『悪魔』を掃討する。それこそが浄化特使のつとめ。


(見ていて下さい)


 目を瞑り、安らぎのうちに進むべき標を定める。聖典も説教も関係ない、それこそが己にとっての《聖き道》だ。

 閉じた瞼の裏に、仄かな銀光の道が映る。エリアスは微笑み、穏やかな眠りに落ちていった。


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