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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
74/133

2-6 ここから、もう一度(前)


 その少し前、丘の上では徹夜明けのカスヴァが茫然と地べたに座り込んでいた。横に転がって眠っていたユウェインが、うーんと唸って目を覚ます。

 炎の海を睥睨して狂ったように笑い続けていたのが別人のように、憔悴した顔だ。


「……笑いすぎておなか痛い」


 起き抜けに発せられたろくでもない一言に、カスヴァは意識を飛ばしそうになる。知るか、と突き放したいのを堪え、彼はどんよりした目で振り返った。そこにいるのは、大悪魔はおろか悪魔憑きとも思われない、くたびれた人間の司祭に見えた。


「悪魔でも霊力酔いするってことか」

「ああ……普段は平気だけど、さすがにこの規模だとね。どうしようもなく高揚して笑いがおさまらないのに、絶望的に悲しくて息が止まりそうで、本当に疲れたよ。今更だけど、僕が喜んで故郷を焼き払ったとは考えないでおくれよ」

「わかってる」


 カスヴァは素っ気なく答えた。契約したばかりであったなら、あの高笑いに不安になっただろう。だが、自分の存在を乗っ取られかけるほど意識のつながりが強まれば、相手の思考感情も正確に感じ取れる。


 村を火の海に変えたあの時、この悪魔は明らかに歓んでいた。世界の境が壊れるほどの危機でさえ、己の力とわざをもってすれば阻止できるという慢心。強大な力を思うさまふるえる歓喜、満ち満ちる全能感による陶酔。

 でありながら同時に、彼の人間としての部分は慟哭していたのだ。村で生まれ育ったユウェインの魂は喪失の痛みに引き裂かれ、悪魔エトラムの中にあるかつて人間だったものの魂が共感して泣き叫ぶ。

 相反する感情が限界まで高ぶり、それでも力の制御を失わず保ち続けることが、どれほど難しく消耗するか。


 もちろん、だからと言って村を焼き払われた事実が軽くなるわけではない。カスヴァは何も話したくない気分で、色彩の薄い夜明けの世界に黒々と横たわる土地を眺めていた。

 長い沈黙の末、ユウェインが独り言のようにぽつりとつぶやいた。


「もう気付いているだろうけどさ。僕……一番はじめの一人、エトラムは、火の神に仕える神官だったんだ。だから正直、霊力酔いに加えて『我が神』の健在強大なるを喜んでいたのは否定できない。もはや地上にかの神が宿るべき神殿はなく、祭殿に響く歌も、うずたかく積まれた供物も消え、信じて仕える者は僕一人しかいないだろうに。因果なものだよね。こんなに歳月が過ぎても……」


 切ない郷愁を帯びた声が不意に途切れる。だらしなく地べたに座った状態から、弾かれたように立ち上がった。そのまま彼は、門の下、黒く灼けて湯気を上げる土の際まで駆け寄り、遠くに目を凝らす。


「何かあったのか」


 カスヴァも気持ちを切り替え、隣に並んで目蔭を差した。見慣れた地形がなくなってしまっているせいで、目の前の景色を現実と認識するのに少し手間取る。

 じきにカスヴァも、それを見付けた。かつて道のあった場所を辿って東へ村を出たところ、緑の世界との境近くで、消え残った星のような銀光が瞬いている。

 まさか、と彼が息を飲むと同時に横でユウェインが呻いた。


「嘘だろう、もう戻って来たのか。何を考えてるんだ、ああっほら外道に囲まれてるじゃないか! くそ、どうしよう」

「助けられないのか」

「無茶言わないでくれよ、そりゃ大昔は神殿で火渡りの儀式なんてものもやったけどさ、今ここからあそこまで走って行こうとしたら十歩で灰になるよ!」

「雨を降らせて冷ますのは?」


 カスヴァは当てずっぽうに言った。できるはずだ、と無意識に確信していたのは、恐らく悪魔の知識があるからだろう。

 だがユウェインは、ちらりと空を見上げてから首を振った。


「大気中の水は充分あるけど、ここいらの地面を大急ぎで冷やす勢いで降らせたら、あそこで一人で戦ってるエリアスも巻き添えだ。僕らが駆けつけるより先に、外道にやられてしまうよ」

「じゃあどうすれば」

「今、考えてる」


 邪魔するな、とばかり苛立たしげに遮り、彼は唇を噛んでじっと銀光の瞬きを見つめた。唇が小さく動き、主の加護を願う聖句を唱える。ほとんど無声の祈りだったそれが、次第に朗々とよく通る詠唱になってゆく。折しもそれに応えるかのように、雲間から陽光が降り注ぎ、丘上の司祭を照らした。

 敬虔な信徒であれば、それだけでもう奇蹟が起きる予感に打ち震えただろう。今にも光の梯子を伝って天使の軍団が現れ、孤独な戦いを続ける神のしもべをたすけてくれると信じただろう。

 だがカスヴァは慄然とユウェインを凝視した。


「主よ、大いなる慈しみの翼で我らを覆いたまえ。悪しき災いの手から守りたまえ」


 彼は本気で祈っていた。霊力を紡ぐ秘術でもなんでもなく、ただひたすらに、一途に。教会が奉じる神が本当にいるのなら助けて見せろと挑むばかりの力強さで。


(悪魔のくせに、神頼みする以外に手立てがないと言うのか!? そんな馬鹿な、くそっ!)


 何かあるはずだ。何か……必死で知識の書物を繰って探しても、これならと思った端から駄目だと気付くばかり。結局やはり祈るしかないのかと絶望しそうになりながら、それでもカスヴァは、雨を降らせる術を組み立て始めた。


 ユウェインはちらりと視線をくれたが、手伝いはせず、ただ祈り続けている。カスヴァは苛立った。己が既に捨てた神に、よりによって悪魔が縋るのか。なぜそんなことができるのだ。教会の教えが嘘っぱちで、国々の争いから生じる利益を吸い上げていると知っているくせに。

 祈りをやめさせたかったが、むきになるのも腹立たしい。彼は司祭の朗々たる祈りに隠れるように、小さな声で術を唱え始めた。


(……なんだ? 妙にひっかかるぞ)


 水路が急に細く狭まったように、霊力が上手く流れない。ユウェインが術を諦めたのはこのせいもあったのだろうか。

 だがしばらくすると、弱くはあるものの滑らかに力が動き始めた。少しずつ空に灰色の雲が集まり、空気が冷たく重くなっていく。

 遂にユウェインが祈りをやめた。同時にカスヴァは高く手を掲げて雲を指す。


「《降り注げ(ジャナム・タザム)》!」


 途端、待ちかねた雨が一挙に大地を叩いた。もうもうと蒸気が上がり、視界が真っ白になる。村全体が雲に呑まれたかのようだった。当然、二人も同様だ。慌てて門番小屋に駆け込んだが、わずかな時間にずぶ濡れになってしまった。


 狭い小屋の中で、もどかしげにユウェインがそわそわ足踏みする。カスヴァはつられそうになるのを堪え、わざと突き放した声音で言った。


「今からそれじゃ、向こうに着く前に息切れして倒れるぞ」

「嫌なこと言うなぁ君は!」


 ユウェインは憤慨したものの、指摘の正しさは認め、動き回るのをやめた。小窓から雨の向こうを見つめる横顔には、純然たる心配だけが見て取れる。


「悪魔の癖に変な奴だな。神に祈り、浄化特使の身を案じるなんて」

「それはまぁ、僕は善良な司祭だからね。……そんな顔しなくてもいいだろ。真面目な話、たぶん僕は今の君よりも神を信じているよ。教会が欺瞞に満ちた悪臭芬々たる組織だってことは、その成り立ちからも、現在の内情からしても確かだけどね」

「なら、どうして」

「それでも神は神だ。我が神のいまだ健在なるように、教会がでっち上げた神だって、今やこの世界に根付いた信仰の対象である以上、何らかの力は得ているだろう。だったら信徒の一人ぐらい守るべきじゃないか」


 さも当然とばかりに言われて、カスヴァは絶句した。

 そうか。彼――エトラムにとっては、神を信じられるか否か、といった二択ではないのだ。『神』は常に複数であり、ある神を否定したからとて別の神を信じないわけではないし、時にはその両方が並び立つこともあり得るのだ。

 カスヴァは軽いめまいをおぼえた。自分達にとって、神とは常に単数だ。この世界で頼るべき、信じるべき、唯一の神。それに比べて……


「エリアスにはちょっとした因縁もあるし、そうでなくとも人が死ぬのをただ見物しているだけなんて僕はごめんだ。ほら行こう、そろそろ歩けそうだよ」


 ユウェインの声が思索を断ち切る。見ると彼は小屋の戸を開けて屈み、こちらに流れて来る雨水に指を浸していた。辺りに立ちこめていた蒸気はもうすっかり消え、しとしと降る弱い雨だけが残っている。ありったけの水を集めて降らせた雲は薄くなって、陽射しが感じられる明るさになっていた。

 考え事は後回しだ。カスヴァはユウェインと共に、飛沫を跳ね飛ばして走り出した。


 道がなくなっているので最短距離を突っ切って行けるのは良いが、足元が悪くて走りづらい。でこぼこしているかと思えば、いきなりつるっと滑る。おまけに濡れた衣服は重く、身体にまとわりついて動きを妨げる。

 案の定、ユウェインはじきに息が上がって脱落した。カスヴァは構わず先に行き、村外れの草地に横たわる浄化特使のもとへ急ぐ。


 散乱した小動物の死骸に囲まれて、青白い顔色の青年が倒れていた。そばの地面に神銀の剣が突き立っている。どうやらしばらくそれに縋って堪えていたらしい。雨に打たれて最後に失神したのだろう。濡れた赤毛が血に染まっているように見えて、カスヴァはぎくりとした。


 急いで手を伸ばして首筋に触れ、脈があるのを確かめてほっと息を吐く。軽く身体に触れていくと、ところどころで手に血がつくものの、深刻な傷はないようだ。

 戦場で負傷者を運んだことなら何度もある。久しぶりでややてこずったが、カスヴァはエリアスを背中に担ぎ、神銀の剣を地面から抜いた。

 そうしてゆっくり館に引き返す途中で、よろよろ歩いているユウェインと合流する。


「ああ……無事だった、かな。担いで運べるぐらいには」

「多分な。どっちにしろ館の乾いたベッドに運ばないと、まともな手当ては出来ない。剣を持ってくれ。ほかに荷物があるはずだが、探して回収するのは後でいいだろう」

「そうだね。どうせ、この辺りに近付く人間も動物も、しばらくいないだろうし……ふうん、これが神銀か」


 歩きながら興味深げに剣を眺めていたユウェインが、はたと思い出してカスヴァを振り返った。


「運び込むのは司祭部屋にしてくれないかな。薬とかあれこれ、手が届くところにあるから」

「わかった」


 ぽつりぽつりと落ちていた雨も止んで、空に晴れ間が覗く。明るい光の下で見ると、黒い異様な大地にぽつんと残った領主館の丘が、むしろかえって不吉な印象を与えた。

 さすがに息切れしながら、丘上への坂道を登る。門をくぐったところで、背中のエリアスが小さく呻いた。

 ユウェインが気遣いのまなざしを向け、礼拝堂の扉を開けて押さえる。カスヴァは時々よろけながら、ぎりぎり踏ん張って司祭部屋まで持ちこたえた。ずぶ濡れで血塗れの負傷者をベッドに横たえるのはためらわれたが、もう限界だ。どさりと下ろして、自分も床に座り込んでしまった。


「ご苦労様。君は館に戻って休んでくれていいよ。手当ては僕がやるから」

「ああ……」


 応じたものの、すぐに立ち上がる余力がない。せめて邪魔にならない位置に移ろうと腰を浮かせたところで、ふと奇妙なひっかかりを覚えた。


(任せてもいいのか? こいつにとって浄化特使は邪魔者、不倶戴天の敵だろう。しかもさっき、因縁があるとか言ってなかったか? いつも力仕事は全部俺に押しつけるくせに……)


 意識のない人間の服を脱がせ、身体を動かし支えて傷の手当てをするのは意外と難しい。治癒の秘術でなんとかするにしても、助手がいたほうが楽なのは明らかだ。なのに、帰って休めと言う。


「いや、手伝おう」

 試みに申し出てみると、案の定ユウェインは首を振った。

「大丈夫だよ、一人でできる。それより君も早く着替えたほうがいい、濡れたままでいたら風邪をひくよ」

 謝絶と言うにはいささか強すぎる、命令口調。やはり何か隠している――疑いが確信に変わり、カスヴァは腹を立てた。

 この悪魔ときたら、どうしてこういつもいつも、不信の種をせっせと蒔くのか。悪魔の本性ゆえなのだとしても、だったら信じて欲しそうな素振りをするなというのだ!

 憤懣を力に変えて立ち上がり、負傷者に向き直って剣帯の留め具に手をかける。


「お互い様だろう。二人でやれば早く片付く。だいたいおまえ、武具の外し方を知っているのか?」

「いいって言ってるだろう! 頼むから君は帰ってくれ!」

 途端にユウェインは必死になり、カスヴァの腕に手をかけて引き剥がそうとした。非力な幼馴染みの奮闘を無視して、カスヴァは浄化特使の武装一式を外していく。

 ついにユウェインが叫んだ。


「駄目だってば! 相手は女の子だよ!!」



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