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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
72/133

2-4 故郷を捨てる準備

   ※


 窓から差し込む光のもと、天の祝福を一身に受けた司祭が説く。


「悲しいことですが、私達は主の御言葉に従い、この地を離れなければなりません。かつてなされた傲慢の罪は、まだ償われていないのです」

 慈愛をこめて、悲しみ、共感し、

「いっときのことです。必ず主は私達を憐れみ、お救いくださいます。聖なる御子をふたたび地に遣わし、今度こそまったき円環の世が取り戻されるでしょう……」

 希望の火を灯し掻き立てて、人々を励まし、魅了していく。


 突拍子もない、土地財産を捨てろという残酷な話であるにもかかわらず、村人達はもはや何の疑問も抱かずこの受難を天のさだめと受け入れ、涙ぐんでいる。

 その様子を、エリアスは会衆席の一番後ろから醒めたまなざしで観察していた。


 ――君とカスヴァには素面でいてもらわないと困るからね。悪魔の誘惑を退ける術、知っているんだろう?


 皮肉めかしたユウェインの声がよみがえり、小さく舌打ちする。忌々しい悪魔め。


 司祭の話の途中で、鶏小屋をやられた農夫が恐ろしげに惨状を説明し、自分と家族が無事だったのは主のご加護にほかならない、煮え立つ泡に呑まれる前に逃げなければ、と訴えると、村人らは口々に主を讃え、すすり泣いた。

 エリアスはぞっとするような不気味さに身震いし、この状況について思案を巡らせる。


(こんな真似ができるだけの力がありながら、今の今までおとなしく司祭のふりをしていたのか)


 全住民の疎開などという一大事をおこなうのに、合意形成に手間取らずに済むのは確かに助かる。一人でもごねたら面倒になるし、言うことを聞かせるのに脅しや餌をちらつかせている時間はない。

 こうしている間にもどこかにあの『泡』が発生するかもしれないのであれば、強引な手に頼るのも致し方あるまい。だが。


(意図して大勢を魅了し従えることができるのなら、対象を限定し、それと気付かぬうちに支配するのも可能だろう。カスヴァ殿は奴に疑いを持てる程度に己の意志を保っているようだが、果たしてどこまで正気なのか……それに、まさかとは思うがこの異変そのものが奴の仕掛けた芝居という可能性もある)


 自分が逃げるために。エリアスの手をすり抜け、魔道士共々行方をくらますために……


(いや、さすがにそこまではないか。あまりにも状況に巻き込む人間が多すぎるし、行方をくらまして逃げられる先が限られてしまう。ならばすなわち、奴の語る世界の危機は真実。ハラヴァ様はそれを知っていて秘匿していたわけか)


 一人の枢機卿だけではない。聖御子の代替わりに関わっている者の中には、恐らく教皇その人も含まれているだろう。


(聖典があまりに多くの欺瞞に埋められていることは、気付いていたが)


 黄金樹の書庫にある、古く希少で無名の書物やその断片を漁るうち、師があのふたつの命題を授けた理由がわかった。エリアス自身もまた、同じ疑問に行き当たったのだ。

 聖典の説明だけでは世界のありように筋が通らない。


(しかし、これほどとは。教皇聖下も大司教達も皆、荘重華麗な典礼で世界の人々に対して説教をしていながら……同時に我々皆を欺いていたのか)


 五年前、師と出会ったばかりの頃であれば、それがどうした、と一蹴していたろう。教会が嘘っぱちを並べていようと、神が人を救わなかろうと関係ない。己は悪魔を殺すだけだ、と。

 しかし今、その悪魔が人を救おうとしている。これまで目にしたような、おためごかしの邪悪な意図ではなく、至極まっとうにただ命を救おうとしているのだ。どう考えたら良いのか、正直わからなくなった。


(グラジェフ様、なぜあなたがここにいて下さらないのですか)


 天を仰いで助けを求める。彼ならば何と言っただろうか。あの大悪魔をどう判断しただろうか。


 瞼に浮かぶ師の面影に想いの指先が届くかに思われた時、ざわめく声と足音で我に返った。見回すと、司祭の話が終わったらしく村人達が帰り始めていた。

 一人一人、司祭の祝福と励ましを受けて心底ありがたそうに祈りながら、互いに支え合って礼拝堂を出ていく。その様子にふと、かつて見た平和な村の光景が重なった。皆に慕われていた老司祭、葬儀に集まった人々の優しい表情、交わされる言葉の温かさ。

 だが彼はすぐにその幻影を追い払った。あの美しい記憶を悪魔憑きに重ねるなど、気の迷いにしても許しがたい。

 そこへ当の胡散くさい司祭がやって来て、やあ、と声をかけた。


「ご覧の通り、避難準備は問題なく進みそうだよ。君には大変な仕事を頼んで申し訳ないけど、人々を助け導く司祭本来のつとめだってことで」

「貴様はどうするのだ」


 エリアスは鋭いささやきで口上を断ち切った。ユウェインは目をぱちくりさせ、一拍置いて理解の表情になる。礼拝堂を見回して村人がもういないのを確認してから、彼は鋭いまなざしを彼方へ向けた。


「南へ行くしかないだろうね。ここの『泡』を消しても、安定するのは短期間だ。さっさと代替わりが済めばいいけど、ここまで状態が悪くなってもまだ実行していないのは、何か問題があるんだろう。僕の術を読み解けるんだから、二代目の出来が悪いってわけじゃない」

「どんな問題があるにしても、貴様が解決して見せる、と?」

「そこまで言いきれるほどの自信はないなぁ。でもやるしかない」

 穏やかな声音で、しかし強い意志を込めて一言。それから彼はいつもの飄々とした物言いに戻って付け足した。

「だから君の復讐には付き合えないし、カスヴァを皆のもとへ帰らせてあげることもできない。残念だけど諦めてくれるかな」


 エリアスは答えず、眉間に険しい皺を刻み、もはや正体のわからない何者かを睨み据えた。


 ――独りで世界を救えるつもりか。


 そんな言葉が喉元まで出かかり、しかし声にはできず飲み込む。言えば相手がどんな反応をするか、直感的に予想できたからだ。


 まさか手伝ってくれるのかい?


 きっとこの青年はそう言うだろう。一瞬だけ純粋に嬉しそうに、直後皮肉めかした笑みをつくって。その後でこちらに返答の猶予を与えず、例の慈悲深い微笑で謝絶するのだ。


 ありがとう。でも、君は安全なところへ行きなよ。


 まざまざと声までが思い浮かび、エリアスは本当に自分がそんな会話を交わしてしまったかと錯覚しそうになった。祭壇奥の円環を仰ぎ見てから視線を戻すと、ユウェインはどうしたのかと訝るように小首を傾げていた。

 忌々しい。結局エリアスは無言のまま、チッと舌打ちだけして背を向け、礼拝堂を後にしたのだった。




 チェルニュク住民がノヴァルクへ発つまで、わずか二日。

 だがそれだけの時間に、村では新たに『泡』が三回発生した。いずれも幸い無人の場所だったが、石垣が一瞬で崩れ落ちたのを目撃したカスヴァは背筋が冷えた。

 ちょうど、沸き始めるまでは静かな液面が、ある温度を超えると急激に泡立ち始める様子にそっくりだ。危機感は村人にも等しく伝染し、もはや誰の顔にも、笑みはおろか悲しみさえ浮かばない。あるのは恐れと焦燥、そして決意だけだ。


 夜明け前、村人はいったん領主館の前に集まり、最後に司祭の礼拝と祝福を授かってから出発することになった。

「父上……どうか主のご加護がありますように」

 母に続いて父まで失う瀬戸際だというのに、オドヴァは涙も見せず、青ざめた顔をこわばらせて祈ってくれた。また会えるのかと確かめることもせず、ただ使命を果たせるように、と。

 カスヴァは万感の思いをこめて我が子を抱きしめた。

「おまえにも、幸運を祈る。どんな未来が待っていようと、己に恥じない生き方をするんだぞ」

 はい、と答える声が初めて涙に揺れた。


 別れの挨拶は長引かなかった。エリアスに促されてオドヴァが歩きだし、村人たちがそれに続く。領主と司祭に向かって最後に頭を下げて、あとはもう振り向かずひたすら前へ前へと急ぐ。日暮れまでにノヴァルクに着きたいのだ。


 カスヴァはユウェインと共に、館のある丘の上、木柵の門に立って見送っていた。

 村人の列が遠ざかり、足音や声が届かず一人一人の判別もつかなくなると、カスヴァはぽつりとつぶやいた。


「あの中の何人が、ここに戻れるだろうな」

「一度は戻ってくるさ」


 ユウェインがあっさり応じたので、カスヴァは疑問符を顔に浮かべて振り向く。司祭の服を着た悪魔は街道の先を見つめたまま、感情のない声で言い足した。


「ここの『泡』を消して安定させられたら、彼らにかけた暗示の支配も薄れるよ。そうなれば当然、故郷の様子が気になって誰かが戻って来るだろう。被害の程度によってはそのまま村を再建するかもしれない。その時には、僕らはもうここにいないけどね」

「……ああ」


 カスヴァは同意し、うつむいた。皆まで言葉にされなくとも、悪魔の考えがおおよそ理解できる。これから自分がおこなうこと、失敗すれば村は壊滅すること、成功してもすべての原因を解決するには南へ――すべての始まりにして終わり、かつての世界の都へ行くしかないこと。


(最後にどうなるにしても、俺はもうここへは帰って来られないだろう)


 主のご加護で危難を乗り越えられた、良かった良かった、などとごまかして、素朴な村の領主に戻ることは叶わない。オドヴァを思うと胸が痛むが、今の世では親の生死も行方も不明、という境遇は珍しいものでもない。


「そろそろ始めよう」

 ユウェインの声が背中を押した。カスヴァはうなずき、深く息を吸って精神に浮かぶ無形の書を意識した。自らそれに手を伸ばし頁に触れる寸前、一瞬だけ惜別の痛みが走る。教会への信頼、神に対する信心を、ついに決定的に振り捨てるのだ。

(何を今さら)

 従軍司祭に裏切られ、救いはもたらされず、聖典は偽りだらけと知ってなお、子供のようにまだ“親”を信じたがる甘えを抱くとは。


 ――人は救われたいと願うものだからね。


 書の隙間からささやきが届く。弱さを軽侮するのでなく、慈しみ赦す優しい声。それはカスヴァに向けた語りかけではなく、かつて書の持ち主が抱いた感慨の栞だ。

 なるほど人間とは進歩がないものらしい、とカスヴァは苦笑いで納得し、余計な感傷を排して知識に向き合った。


 二人は手分けして村を廻り、要所に魔術の釘を打ち込んでいった。

「《汝が名は天、汝が名は地、定めに従いて分かたれよ》」

 表裏二相が混じり合わないように、泡に乱されて世界が捲れあがらないように。かつて力ある言葉であった古い言語で、霊力を紡いで網となし、一帯を覆っていく。

 地道な作業だが、こうしておかなければたった二人で広範囲に力を及ぼせない。


 一本、また一本。

 知り得ないはずの言葉を唱え、自分のものではない力を固めて銀の釘と成し、大地に打ち込む。繰り返すほどに、悪魔のわざが心身に馴染んでゆくのがわかり、カスヴァは背筋が疼くような気持ち悪さを味わった。


 これは彼自身の能力ではない。

 だが今、知識と力の供給者であるユウェイン――否、エトラムは願いに縛られ、司祭の秘術の域を越えるこのわざを使うことはできない。カスヴァが銀の釘をつくりだす度に、それが複製され、契約を通じて彼のもとへ送られているのだ。

 どういう論理と仕組みで『良き司祭でありたい』という制約をすり抜けているのか、カスヴァには理解できないが、とにかく契約者が魔術を実行しなければ悪魔が無力であるというのが実感できた。


(俺が黙り込んだらどうなる?)


 そんな場合ではないのに、暗がりから這い出た誘惑に足を取られる。

 もしかして俺が優位に立てるのでは? 大悪魔を従えることができるのでは? わけがわからないまま翻弄されるのではなく、あいつに命令し、子供時代の圧倒的な力の差そのままに……


 メェェ、と悲しげな声がいきなり耳を打ち、カスヴァは我に返ってつんのめった。

 いつの間に近付いてきたのか、石垣越しに山羊が鼻面を突き出している。横長の瞳としばし見つめ合い、カスヴァは不意に脱力して両手を膝についた。


(何を考えているんだ、俺は)


 遅れてやってきた恐怖に、ぞわりと身震いする。借り物の力と知識でしかないのに、まるで自分のものかのように錯覚していた。それでもって悪魔に逆襲したいと、否、ただ単純に自分より上位の腹立たしい輩をぶちのめしたいと、そうできたら愉しいだろうと想像していた。

 これが、悪魔と契約するということか。

 見逃してほしい、とあの浄化特使に頼んだことがいかに愚かであったか、身をもって思い知り、血がにじむほど強く唇を噛む。


《大丈夫かい、カスヴァ》

 見透かしたように悪魔の声が届いた。反乱の企てを見破られたカスヴァはぎくりと竦む。だが相手はさして問題にした様子もなく、穏やかな口調で続けた。

《一度に霊力を浴びすぎて、酔ったかな。少しずつ慣らしていけたら良かったんだけどね、ごめんよ》

「酔った……?」


 念じるだけで返事ができるのかどうかわからなくて、カスヴァは声に出してつぶやいた。

 力に酔う、という表現はあるが、それとは別の意味だろうか。心に抱いた疑問に対し、エトラムが答えをくれた。


《司祭みたいに祝福程度のごくわずかな霊力を毎日扱っていれば、自然と耐性がつくんだけどね。霊力はあらゆる力の源だから、いきなり触れると万能感に酔うんだ。権力や暴力に酔いしれるのとは違う。少し休憩して……おっとまずい》


 唐突に声が途切れ、気配が消える。どうやらあちらに『泡』が発生したらしい。

 カスヴァは息を吐いて石垣にもたれかかった。助けを求められなかったからには、魔道士を介さなくても司祭として対処できる程度なのだろう。片付くまで、助言に従って少し休ませてもらおう。

 うなだれた金髪の後頭部を山羊が狙う。察知したカスヴァは髪をむしられる前に、手で防いだ。


「危機感がないな、おまえは。村ごと煮えくり返って死ぬかもしれないのに」

 呆れてから、そうでもないのか、と思い直した。家畜とて異変を感じる。だからこそ、知っている人間がやって来たのを見付けて寄ってきたのだろう。

「……生き残れるといいな。俺も、おまえも」


 猟犬や馬のように価値が高く避難後の資産になるものは選りすぐって連れて行かれたが、置き去りにされた家畜の未来は運任せだ。泡に呑まれるか、外道や狼に食われるか、飢えと病に倒れるか。

(あまり明るくはないが、俺も似たようなものだ。どのみち世界がこんなありさまでは、誰であれ『幸せな将来』を期待するほうが難しい)

 諦めと共に山羊の首を叩いてやったところで、意識の隅を気配がかすめた。


《なんとかなった。続けよう、急がないと》


 ああ、とカスヴァは声に出さず同意する。

 歩み去る最後の村人を、横長の瞳がいつまでも追っていた。


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