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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
71/133

2-3 煮える村



 南への道を辿る間、カスヴァは無言だった。途中で右手に折れて畑と牧場の間を走る小道に入り、まっすぐ南へ向かうユウェインとは充分な距離を空けてから、重い口を開く。


「……あの場所で、何か分かったか?」

「恐らく本当にあいつは奥方を殺してはいない。それだけだな」


 返事は素っ気なかった。どうして、だとか詳しい説明を求められる雰囲気ではない。カスヴァは困惑と喜びを中途半端に味わい、ややこしい顔で黙り込む。そこへエリアスが淡々と続けた。


「実際にその時何があったのか、具体的なことはいっさい不明のままだ。それにもちろん、奴が善良だという根拠にもならない。ただ、司祭ユウェインの魂が奴に強い制約をかけているのが事実である限り、奥方のことは事故として納得するほかあるまい」


 言いながら彼は首に手をやり、細鎖を引き出した。見えないよう服の下に隠していた、もうひとつの銀環。恭しく天に掲げてその輝きを確かめてから、そっと丁寧に戻した。

 カスヴァは相手の仕草が意味するところを察し、黙って目を背けた。グラジェフの最期の言葉が脳裏によみがえる。


(悪魔に手綱をつけておけ、か……今のところ俺が振り回されているばかりだな。契約者だとか言っても、主従関係ではないし)


 そうなりたいとも、なれるとも思えない。

 カスヴァが天を仰いでため息をついたと同時に、エリアスが「それよりも」と話を変えた。


「鶏小屋が荒らされただけなら、よくある話だ。様子が妙だというのは、具体的にはどのように?」

「……実際に見てもらうのが一番いい。もうすぐそこだ、ほら」


 カスヴァが行く手の農家を指し示す。低い石垣で囲まれた、茅葺き屋根の一軒家だ。すぐそばに家畜小屋がある。カスヴァはまたうなじに違和感をおぼえ、手をやった。禁忌のわざが行使された時の熱と似ているが、あれとは違って妙に疼くような不快感がある。エリアスも眉を寄せて、怪しむように周囲を観察していた。


 家畜小屋には牛や豚が入れられており、そちらはまったく異状なしだった。鶏小屋は別個に、母屋の南側の壁に接する形で設えられていたが、今はばらばらに崩れて見る影もない。周辺には木片や鶏の羽根が飛び散り、何羽もの死骸がそのままにされている。


「……喰われていないな」


 エリアスがつぶやき、カスヴァもうなずいた。普通の野獣、あるいは外道の襲撃であっても、被害に遭った生き物は皆、喰われているものだ。まれに、戯れに殺すだけ殺して獲物を放置する狐などがいることもあるが、そんな状態でもない。


 ――なぜなら、鶏もその小屋も付近の地面も、穴だらけだったから。


 まるで小さな泡が次々と生じては、その中に入ったものを呑み込んで消えたかのように、そこかしこが球形に抉れている。子供の頭ほどもある穴がひとつ、拳大のものが五つ六つ、豆粒ほどの小さな穴は無数に。鶏の死骸もすべて丸く抉れ、牙の跡などひとつとして見られない。

 何だこれは、というエリアスの言葉は、カスヴァが最初に抱いた感想そのままだった。


「特使殿にも、これの正体がわからないか」

「まったく初めて見る。こんな現象について聞いたこともない」

 エリアスは唸り、地面に屈んだ。

「獣の足跡もないな。逃げ惑う鶏のものばかりだ。霊力の残滓はあるが、魔術と断ずるには……。そうだ、家主は無事なのか?」

「ああ。おかしなことになっているのは、鶏小屋周辺のごく狭い範囲だけだ」


 カスヴァが答えると同時に、家の中から農夫が青ざめた顔を覗かせた。話し声が聞こえたらしい。


「お館様、司祭様。どうですか、やっぱりこれは呪いですか」

「いや」エリアスは即答した。「何かの意図をもってなされたわざとは考えづらい。この家を特に狙って誰かが悪さをしたというのではないだろう。今までにない、新しい外道か、あるいはひょっとすると自然の現象……」


 そこまで言って、彼はぎくりとしたように口をつぐんだ。遅れてカスヴァも聖典の一節を思い出す。


 ――世界は泡立ち、乱れ、荒れ狂う海のように……


 円環の断裂、人間の傲慢が引き起こした災厄の描写だ。

(まさか。何を大袈裟な)

 反射的に首を振り、不吉な考えを払い落とそうとする。泡立つ、という表現に連想がはたらいただけだ。たかが鶏小屋ひとつのことに、世界がどうだとか。


 エリアスが立ち上がり、何か言おうと口を開いたところで、ふと眉を寄せて背後を振り返った。カスヴァもそちらへ目をやり、胡乱な顔をする。南に向かったはずのユウェインが、ばたばたと腕を振り回すようにして走ってくるではないか。

 あちらでも異変があったのだろうか。不安に胃が締め付けられる。思えばいつもユウェインは、腹が立つほど悠然としていた。彼が必死になるのは、本当に誰かの命がかかっている時だけだ。じっと待っていられず、カスヴァは小走りで迎えに行った。


 ユウェインはぜえぜえ息を切らせ、足をもつれさせてよろけながら最後の数歩を進み、転びそうになって危うくカスヴァに支えられた。


「おい、大丈夫か? 何があったんだ」

「……ごめ、……まっ……」


 ちょっと待って、の仕草をするのが精一杯。ユウェインは両手を膝につき、息を整える。遅れてやって来たエリアスが冷ややかに言った。


「さっきも思ったが、貴様、呆れるほど脆弱だな。たるんでいるのではないか」

「あいにく……昔から、運動は……苦手、でね。武闘派の、特使殿と……一緒に、しないで、ほしいな」


 ユウェインは喘ぎながらもしっかり言い返し、はーっ、と大きくひとつ息をついた。額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、しゃんと背筋を伸ばす。


「まずいことになってる。清めの結界がずたぼろだ。特使殿、東から南回りでこの村に来たのなら、茨森の近くを通ったはずだね? 特に外道が多かったのじゃないかい」


 茨森はエリュデ王国南部から大峡谷にかけて広がる、魔の森だ。周縁はやや外道が現れやすいぐらいで普通の森と大差ないが、奥に入るとじきに、捻くれて絡み合う樹木や、毒の棘を持つ巨大な茨の茂み、生き物のように蠢く蔓に行く手を阻まれ、道を見失う。虫や動物も奇怪な姿をした凶暴なものばかりになり、向こう側へ抜けることなど不可能。よほどの幸運に恵まれない限り、生きて帰ることすら難しい。


 エリアスはユウェインを睨み、掠れ声でささやくように答えた。

「あの道を通ったのは初めてだ。『特に』かどうかなどわからん。ただ確かに外道は多かった」

「大型じゃなく、小型のやつが数多く現れた?」

「ああ。……何か知っているのならいい加減に白状しろ、この悪魔め」

 ちっ、と舌打ちひとつ。視線だけで斬り殺せそうな浄化特使の気迫に対し、ユウェインは眉間を揉んで唸った。

「わかってる、ちゃんと話すよ。少し整理しないと」


 ひどいなと抗議もせず、ぎゅっと目を瞑って考えている様子は、どうやら嘘や冗談を言っている場合ではないらしいと窺わせる。カスヴァはそわそわし、剣の柄に手をやった。ぐずぐずしていると手遅れになる、そんな気がしたのだ。久しぶりに意識の中に古い書物が浮かび上がり、ぱらりと開かれるのを感じる。一葉、また一葉。ゆっくりと頁がめくられるにつれ、カスヴァの不安が確信に変わってゆく。


 ややあってユウェインは目を開き、正面からエリアスを見据えて言った。


「特使殿。君が居合わせてくれて幸いだったよ。これからチェルニュクの全住民をノヴァルクに避難させるから、道中の護衛を頼みたい」

「――!?」

 エリアスが目をみはり、カスヴァはぎょっとして思わず声を大きくした。

「何だと? 避難?」

「うん。家財は諦めて最小限の持ち物だけに絞り、全員、二度とここには戻れない覚悟でノヴァルクに移ってもらわなきゃならない。カスヴァ、君は領主の権限をオレクさんに譲って、オドヴァの養育を頼んでくれ。悪いけど一緒に避難はさせられない。僕とここに残って、異変を食い止めるんだ。一時しのぎだけどね」


 問答無用の声音で、既に決まったことのように指示するユウェインは、今まで見せたことのないほど厳しい表情だ。そこへエリアスが待ったをかけた。

「まったく整理できていないぞ、状況も理由も目的もわからん。外道の群れが押し寄せるとでも言うのか」

 ぞっとする仮定を、ユウェインは端的に「似たようなものだよ」と肯定した。カスヴァは南の空を仰ぎ見て、信じられん、と首を振る。


「何の異常も感じられないが、本当にそんな大変なことになるのか? モルテュクはどうなる。皆を説得するにも、何もなしでは無理だろう。誰かを偵察に行かせるか」

「南から順番にやって来るとは限らないんだ。あっちのほうが不安定になっているのは確かだけど、偵察に行かせても無駄だね。もし異変を目にして慌てて戻って来るとしたら、その時は『泡立つ嵐の海』を引き連れて、だ。そうなってから逃げる猶予はない」


 古代の知識をもつ悪魔はそう応じて、忌々しげな渋面をした。


「この身体が寿命を迎えるまでぐらい、のんびり平和な農村生活ができると思ったのに。神々のやることは昔からひどいものだよ、まったく! 教会の欺瞞を知っている僕ですら、新しい神に宗旨替えしたくなる。ああくそ、嫌な予感はしてたんだ。この地方にしては暑すぎるし乾いてるし、外道ばかり多くて悪魔はさっぱり見かけない。あれから千五百年も経ってるし、そりゃイファラムも限界だろうとも!」


 吐き捨てるような最後の一言が、カスヴァの中にある禁忌の書物の封印を解いた。ゆっくり進んでいた頁が凄まじい勢いでめくられて、情報の波が溢れ出る。溺れそうになって彼は喘いだ。


 イファラム。聖御子。かつて円環の断裂を、身をもって塞いだ者。

 世界のありようが脳裏で危うげに波打つ。固い地面と確かな地平を持つ今までの『世界』は既にない。波のようにうねる布のような面、だがそれは連続しておらず、無数の生き物の集合のように蠢き、表、裏、目まぐるしく入れ替わる。

 変化を制御する円、二相をつなぐ数多の環はすべて唯一の円環の影であった。ひび割れて断裂し、継ぎ当てのされた不完全な円環。それゆえに、面の所々で小さな泡が生じては消え、消えては生じ、次第に寄り集まって煮え立ち始める……


 古代の魔術に基づく知識を、言語化して明確に理解できたわけではない。だが、ぼんやりとでも全体像を把握すれば、話についていけた。

 この世界は聖御子一人の存在によってかろうじて支えられている、極めて危うい状態だったのだ。昨日の会話が脳裏にこだまする。


 ――秘術が使えること自体がまず奇蹟なんだからさ、この世界がきちんと成り立っていることに感謝しないと……


 カスヴァは事態の深刻さに戦慄し、同時に今さら改めて相手を恐ろしく思った。

(こんな知識がありながら、こいつは一年以上『良き司祭』になりすましてきたのか。教会の説く世界のありようが、都合よくごまかされた嘘まみれだと知っていて、さも真実かのように村の皆に説教してきたのか。いつ破綻してもおかしくない、不安定なあぶくだらけの世界に生きていると承知で、普通の平和な人生が続くと信じさせて)

 なんという大嘘つきであることか。


 カスヴァが凍りついている間に、エリアスも推測から状況を理解したらしい。眉間の皺をさらに深くして大悪魔を睨み、低く呻いた。


「まさか、世界が終わると言うのか」

「そうならないように、聖都の深奥で密かに研究が進められているんだろうさ。グラジェフ殿の銀環に施した僕の『霧』を暴いたのは、その成果だ。聖御子が駄目になる前に交換するべく用意された、新しい聖御子様のしわざってわけだ!」


 衝撃のあまり、カスヴァは声を失った。歯を食いしばり、こめかみを押さえる。己の契約悪魔が何をするつもりで、己がどうすべきかが、言葉にされずとも理解できた。


「聖御子の代替わりの準備は進められているが、それまでにどこかが『煮え』たら、そこから世界の綻びが広がってしまう。だから皆を避難させておいて、俺がおまえの力を使って食い止める。そういうことだな? しかし可能なのか。俺はおまえと契約したあの時以来、まともに魔術を使ったことがないんだぞ」

「無理でもなんでもやるしかない」

 きっぱりと答え、ユウェインは司祭の顔に戻って言った。

「カスヴァ、特使殿、手分けして村人全員を教会に呼び集めてくれ。僕が皆を説得する。天のお告げを捏造しても、状況が状況だからね、聖御子はお怒りにならないさ。もちろん君も邪魔しないだろうね、特使殿?」


「……やむを得まい。あの不可解な現象について私の知識で説明がつけられない以上、対策を打つという貴様を妨げて人々を危険に晒すことは、本意でないからな」

 エリアスはこれ以上ない渋面で応じ、忌々しげに唸った。対照的にユウェインは満足げな笑顔になり、活気づいて指示を飛ばす。

「よし、じゃあすぐ仕事にかかってくれ。エリアス、君は村の皆をノヴァルクまで送ってくれたら、後は好きにしていいよ。チェルニュクが『煮えた』って聖都に知らせに行ってもいいし、これから酷くなるだろう騒ぎに巻き込まれないように、ずっと北のほうへ逃げてもいい。気にせず悪魔を殺しに行ってもいいけど、その時は外道が多発する土地に長居しないことだね。特に、小さいのがたくさん出る所は危ない。第一そういう場所に悪魔はいないだろうし」


「待て。つまり何か、貴様ら悪魔が世界の安定に寄与しているとでも?」

 さすがに受け入れがたい、とばかりエリアスが問いただす。ユウェインは苦笑して否定の仕草をした。

「結果的にそうなっているだけで、それを目的として『悪魔』になったわけじゃないよ。悪魔が善良な存在だって話でもない。ああ、もちろん今の僕は、善良にして誠実な司祭ユウェインだけどね!」


 おどけて余計な一言を付け足した悪魔憑きに、エリアスとカスヴァは揃って冷ややかな目を向ける。

「「胡散くさい……」」

 図らずも二人の感想がぴったり重なった。ユウェインは「ひどい」とよろめき、白々しく顔を覆って嘘泣きする。やれやれ、とカスヴァは息を吐いた。どこまで本気でどこから芝居かわからないが、他愛無いおふざけで少し気が軽くなった。竦んでいた足も動きそうだ。


「馬鹿言ってないで、急ぐぞ。おまえはまっすぐ教会に戻れ、俺はここから西側を廻る。特使殿は東を。説明は後にして、司祭から重大な話があるとだけ告げてくれ」

 仕事を割り振り、東側に住む村人の構成を教える。了解した、とエリアスは端的にうなずき、最後に無惨な鶏小屋周辺を一瞥してから、足早に立ち去った。


「じゃあ僕は、ムドゥリさんにも協力をお願いしてから帰るよ。多分僕が先に着くから、館の人にもあらまし伝えておく」

「ああ、頼む。……本当なんだな?」


 カスヴァは最後にもう一度、念を押した。

 丸く抉れた死骸や地面。あんな『泡』がそこかしこに発生するとなったら、おちおち暮らしていられないのは確かにそうだ。だが世界がどうこうと言うほどの話なのか。本当に?


「信じられないのも無理はないけどね。今の僕にとって、チェルニュクは大事なふるさとなんだよ。出来ることなら失いたくない。なんとか食い止められたら、ちょっとばかり地形が変わるぐらいで済んで、聖御子の交代が無事に終われば、またここに帰ってこられるかもしれない」

「次はノヴァルクが『煮える』ってことはないのか」

「可能性としては無いとは言えないね。でも、この周辺の不安定さは全部ここに集中しているから、一度ここで泡を消して安定させられたら、しばらくは心配ないよ。十年は保証しかねるけど、少なくとも二、三年はもつ。その間に教会のお偉いさんが何とかしてくれるさ」


 ユウェインは友の不安に対して丁寧に答え、優しく微笑んだ。


「我が親愛なる契約者よ、君の魂はチェルニュクを救うために売り渡された。だから、もう一度だ。もう一度」

「……そうだったな」


 苦笑いをこぼし、カスヴァはうなずく。あの時あの場所で、チェルニュクを救えるのなら自分はどうなってもいいと決めたではないか。些末な不安にかかずらうなど愚かしい。

 二人は目顔でうなずき合い、互いの拳をごつんとぶつけて、それぞれの方向へ歩き出した。


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