2-2 罪と恥
春の陽射しを受けて、池はきらめきに覆われていた。葦の生い茂る岸辺からやや離れて佇む特使の青年は、眩しさに顔をしかめて周囲を見渡した。
丈高く密生する葦の原には、ここと確たる境がない。水際を隠すだけでなく、人の姿まで呑み込んでしまう。迂闊に近付けば、子供でなく大人であっても危ない。
池に行くな、としつこく警告したユウェインにも、一分の理があったということだ。
そのユウェインは今、ここにいない。朝食も終わらないうちに、畑で父ちゃんが足を挫いて立てない、との救難要請に駆り出されたのだ。その後すぐにカスヴァのほうも、水車の具合がどうだとか、鶏小屋が荒らされたようだとか、領主の仕事なのかどうか疑問な案件も含めて村人に陳情され、忙しく出ていった。
そんなわけで、幸運にも単身で村を調査する時間が得られたのだが。
(これでは何もわからんな)
看破の術をかけた視界には、水面のきらめきとは別の銀光が薄く漂っている。葦原の縁をなぞるように、広い範囲をゆるゆると。もし一地点だけ反応が強ければ、そこに何かが隠されていると見当をつけられるが、そんな場所もない。ただ全体的に、池に近付く者があれば反応するような術が施されているとわかるだけだ。
(明白な構造が感じ取れない。どんな細工をしてあるにせよ、その効果は弱く曖昧なものだ……奴はあの銀環に『霧』を施したと言っていたが、そのような類だろうか?)
後から術を読み解くのが難しいとは言っても、際立って明白な目的はおのずと感知される。どんな品種の麦を使って誰がどう焼いていようと、パンは一目でパンだとわかるように。だがこの場に漂う霊力は、パンなのか肉なのかすらわからないような状態だ。
しばし観察を続けた末に、彼は用心深く歩を進めた。
爪先が銀の流れに触れた刹那、エリアスはぎくりとして立ち竦んだ。名状しがたい不穏な気配、嫌悪と忌避感に捕らわれたのだ。何かに拒まれている、この先に進んではいけない――恐怖とまではゆかず、気を殺がれるという程度だが。
《ああ、やっぱりそこに行ったね》
同時に、思念が届いた。耳に聞こえる声ではない、頭の中で勝手に形作られる悪魔の声。
エリアスはとっさに退去令を唱えようとしたが、ユウェインが先んじた。
《まぁ待って。それは水難事故防止のためにかけた術だよ。何しろ、池のまわりにぐるっと柵を立てるとか土手を盛るとか、そんな工事をする余裕がない貧乏村だからさ。とにかく君も、それ以上は近寄らないほうがいい。何がなんでも今すぐ泳ぎたいって言うなら止めないけど》
「事故防止と言いながら、逆にそうやってこの不快感を煽り、消したい邪魔者を水に飛び込ませたわけか」
鋭くささやいてやると、相手はふつっと沈黙し、それきり何も言い返してこなかった。邪魔されなくなったのは結構だが、おとなしく引き下がったとも思えない。
エリアスは用心しながら岸辺を歩き、どこかわずかでも術に変化がないか目を凝らして探した。この銀の薄靄の背後に、都合の悪いものを隠しているのでは……
「……?」
荒々しい靴音が迫るのを聞きつけ、彼はさっと身構えながら振り向いた。そして奇妙な顔になる。
肩から斜め掛けした鞄を弾ませ、司祭服の長い裾をばたばたさせながら、顔を真っ赤にしたユウェインが走ってくるではないか。
予想外の反応にエリアスが面食らっている間に、ユウェインは間近まで来るなり、拳を突き出した。簡単に防げるのろくさい一撃だったが、エリアスは敢えて受ける。
案の定、肩口を狙った拳にはろくに力がなく、殴るというより強めに押す程度でしかなかった。
「……君に、そんな、こと……っ、言う、権利は」
目に涙をためて歯を食いしばる顔は、まるで子供のようだ。ユウェインは肩を大きく上下させ、ここまで走ってくるだけで全力を使い果たしたらしく、へなへなと座り込んだ。
なんだこれは。
エリアスは困惑し、言葉もなくそれを見下ろしていた。なぜこんな馬鹿げた行動を? 悪魔なら悪魔らしく、さっきのあの術で頭の中に絶叫を響かせるとか、姿を見せずに池に突き落とすとか、それらしい攻撃をしろと言いたくなる。
看破の術を解いてまばゆい霊力が視界から消えると、眼前の青年はまったくの凡人にしか見えなかった。
「契約者を通さなければ力がふるえないというのは、本当だったのか」
思わずぽつりとこぼすと、しゃがんだままのユウェインが、きっ、と顔を上げて睨んできた。まじりけなしの怒りを漲らせ、彼はよろよろ立ち上がって再び拳を固めた。
「……愛する妻を失ったカスヴァが、僕を疑うのは当然だ。母を亡くしたオドヴァや、彼女を止められなかったアヴァンが、悪魔のしわざだと言うのも仕方ない。だが君が、……モーに対してなんらの情も抱かず関わりもない行きずりの他人が、無神経な正義を振りかざすな」
あまりにも人間らしい感情剥き出しの声音。エリアスは目を細めて相手を観察した。今ここにいるのは悪魔か、それとも喰われてなお残る司祭の魂か。
視線の意味を理解してか、ユウェインは苦渋に歪んだ笑みを見せた。
「君が何を見付けたがっているか、わかっている。彼女も同じ物を探していた。ああ、まったく……君も、彼女も、正義を奉ずる人間は残酷だね。君たちが暴こうとしたものを教えてあげるよ。確かに僕は……昔の所持品をあの家から持ち去って、池に沈めた。だがそれは悪魔祓いに利用できるものじゃない、ただの思い出の品物だ。片思いの名残りだよ」
そう告げる時、彼が自虐の槍でおのれの心臓を抉っているのがエリアスにもはっきり感じ取れた。それだけに不可解で、つい疑問を声に出す。
「わざわざ池に沈める必要があるほどのものか? 司祭になる前に想い人がいたぐらい、珍しくもなかろう」
「過ぎ去りし日々の記憶を焼き捨てるだけの強さはなかったんだよ。僕は炎で焼き尽くす弔いにも抵抗はないけれど、ユウェインは違う。土に埋めるか水に沈めるか……」
はっ、と自嘲と諦めのまじった息を吐き、悪魔憑きは度し難いというように頭を振った。そして、エリアスに暗い微笑を向け、声を低めて続けた。
「片思いの相手は男でね。だから絶対に知られるわけにはいかなかった」
「――!」
「そしてまた、きっぱり諦めた証として、何がなんでも僕は決してモーウェンナを害してはならなかった。彼女にとって不愉快なことをする時、僕はいつも、そこに醜い利己的な感情がありはしないかと恐れた」
「……待て、つまりそれは」
「ユウェインの魂、そしてその願いに縛られた僕も。ほかの誰を殺そうとも彼女だけは絶対に手にかけるものか!」
ささやき声で吐き捨てるように言って、ユウェインは土を蹴った。重苦しい沈黙が息を詰まらせる。エリアスが何も言えずにいる間に、ユウェインはふっと苦笑をこぼして軽い口調に戻った。
「さあ、この話はこれきりにしよう。罪と恥を暴いて君の正義も満足したろう?」
皮肉っぽくはあったが、辛辣さはない。悪魔の言うことを深刻に取るな、とでも言うかのように。だからエリアスも「ああ」と淡泊に応じた。
「いつものごとくだ。悪魔祓いに取り組むと必ず誰かの罪や恥を暴くことになる」
悪かったとは思わないぞ、とまでは口にしなかったが、通じたらしい。ユウェインは何とも複雑な、同情的な苦笑を浮かべて肩を竦めた。その表情からエリアスは目を逸らし、葦の原を眺めやった。
今の言い分は真実らしく聞こえる。実際、本当なのかもしれない。だがそうであっても、真情から告げたとは限らない。繊細な問題に土足で踏み込まれて頭に来たとか、冤罪に我慢ならず名誉を守ろうとしたとかいう自然な反応ではなく、こちらに揺さぶりをかけるのが目的だとも考えられる。
(グラジェフ様に秘密を打ち明けた、とこいつは言った。その時の対応で人柄がよくわかった、と。すなわちこいつはわざと司祭ユウェインの罪を暴露することで、あの方の鋭い観察眼を逃れたに違いない)
悪魔のささやきにも真実が含まれている、それはそうだろう。数多の虚言に少しだけ真実を混ぜ込むからこそ、人を欺けるのだ。
(気を許すな。真実を見極めて拾い上げ、かつそれを取り巻く意図に惑わされるな)
エリアスが改めて心の防御を固めたと同時に、遠くから呼ぶ声が届いた。
「ユウェイン! 特使殿!」
二人の司祭が揃って振り返ると、南へ続く道の途中、橋の上でカスヴァが手を挙げていた。こちらの反応を待たず、何やらせわしない様子で走って来る。ここにいたのか、とつぶやいた声音は曖昧だったが、彼はすぐに表情を改めて用件を切り出した。
「ちょうど良かった、この先の家で鶏小屋が荒らされていたんだが、どうも様子が奇妙なんだ。どちらか……いや、出来れば二人とも来て、見てほしい」
「奇妙、とは?」
エリアスが眉を寄せて聞き返すと、カスヴァは難しそうに唸った。
「ただの狐や狼ではなさそうだ。もしかしたら外道かもしれない。だがそれにしては他に被害もないし……そのくせ妙な気配は確かに感じられる。ユウェイン、おまえは何か心当たりがあるか?」
言いながら彼は、無意識のようにうなじを押さえていた。ユウェインは真剣なまなざしで南の空を見据えていたが、明言は避けた。
「気になることはいくつかあるけど、まず現場を見てみないと。ムドゥリさんの家だね? なら、君と特使殿で先に小屋を検分しておくれよ。僕が一緒に行ったら、看破の術をかけても眩しくて邪魔しちゃうだろうから。僕は森の際へ足をのばして、侵入者がいないかどうか、清めの効果がちゃんと保持されているか確かめてから、そっちに合流するよ」
「わかった、頼む。では特使殿、こちらへ。案内します」
カスヴァがうなずき、幼馴染みの肩をぽんとひとつ叩いてから歩き出す。信頼の証らしき仕草にユウェインが目元を緩めるのが、エリアスにも見て取れた。
――信頼か。
生じかけた感傷を、エリアスは素早く追いやった。師が傍らにいてくれたらどんなに心強いだろう。だがもう見習いではないし、そんな機会も二度と訪れないのだ。
唇を引き結ぶと、彼は気持ちを切り替えて足を速めた。




