2-1 夢の言伝
二章
久しぶりの夢を見た。
青黒い闇を積み上げた迷宮の底。現実には一度たりともそのような場所を訪れていないのに、あまりに夢で馴染みすぎて、懐かしくさえ感じる。
《……リィ……》
微かな声が呼ぶ。青年司祭は眉を寄せ、暗い通路の奥を睨みつけた。闇が凝り、じわりと人の形を取る。
《ああ》
それは吐息を漏らした。沼の底をずっと匍匐して進み、今やっと岸に這い上がったかのように。姿が鮮明になるより早く、エリアスはそれが何者であるかを理解した。拳を握り、半歩後ずさる。
《やっと、また……逢えた。エリシュカ》
溢れそうなほどの思慕が込められた声に、司祭は答えない。聖句を強く意識し、揺らぎそうな輪郭に力を与える。私は司祭エリアスだ。ベドナーシュの娘は死んだ。
厳しく敵意に満ちたまなざしに阻まれたように、夢の客人は踏み出しかけた足を戻した。悲しげな表情でつくづくとこちらを見つめ、
《そうか。それが今の君か》
納得と諦めの声音でつぶやいた。
エリアスは応じない。無視はしないが、無言の拒絶だけを突きつける。消えろだの偽物だのと否定を試みれば、逆に隙をつくることになると、この五年で学んだからだ。
かつて少女に美しい蝶を見せてくれた青年は、そのまぼろしよりも儚い微笑を浮かべた。
《ひとつだけ聞いてくれ。もし君が、あの時に殺された一族の復讐を今も背負っているのなら……捨ててしまえ。あの連中は、それに値しない》
ざわり。エリアスの背後で青黒い渦がうねる。濃さを増した闇に圧されて、青年貴族の影が薄れる。
《君がその道を歩むのを、止めはしない。もうそんな力もないしね。ただ……彼らの仇討ちなんか、しなくていいんだ。どうか……エリ……ああ、もう……》
声が遠くなり、青年の姿がほどけて消えてゆく。こちらに伸ばした手の指先だけがむなしく宙に漂い、それもやがて花弁となって散った。
さようなら、と声にならない想いだけが最後に瞬いた。
目覚めると同時に身を起こし、エリアスは素早く長衣を着ると立ち上がった。ベッドの周囲にさっと目を走らせ、細い銀光の陣が破られていないのを確かめて眉を寄せる。
武器は取らず手ぶらで部屋を出る。何を使って殴っても一回、とは言え剣を持って行けば殺し合いになりかねない。さすがにそれはまずい――今はまだ。
暗がりの中、銀環の弱い光と昼間の記憶を頼りに領主館から抜け出し、彼はまっすぐ教会に向かった。
礼拝堂の扉はむろん施錠されていない。円環と聖御子像に一瞥もくれず、ずかずかと大股に司祭部屋へ直進し、
「起きろ悪魔」
言うと同時に椅子を掴んで振り上げた。
寝ぼけまなこをしばたたいたユウェインは一瞬でぎょっとなり、驚異の俊敏さでベッドから転がり落ちた。間一髪、空のベッドを椅子が強打する。
「冤罪だ! 僕は何もしてない!」
床に倒れたまま、ユウェインは両手を突き出して制止しながら叫ぶ。エリアスは表情を変えず再び椅子を振り上げたが、悪魔憑きの頭をかち割るのは思いとどまった。
「……ね、寝起きに心臓が止まるかと思った……危なかった」
はぁーっ、と深く息をついて、ユウェインは胸を撫でおろした。エリアスはその様子を冷ややかに観察し、無言の圧力をかけ続ける。ユウェインはのそのそと身体を動かして、慎重にベッドの端に腰掛けた。
「どんな悪夢を見たのか知らないけど、僕は関係ない。熟睡してただろう? 第一、もし僕が手出ししたなら、何を差し置いてもまず君に殺されないようにしているよ」
眠そうに目をしょぼつかせて言い、手のひらで顔をこする。演技には見えない。エリアスは不本意ながら椅子を床に下ろし、むっつり唸った。
「確かに、防御が破られた形跡はなかったが」
「それがわかってて殴りに来たのか? あんまりじゃないかな!」
「貴様は大悪魔だ、普通の悪魔と同じに考えられるものか」
「勘弁してよ……うう、眠い」
ユウェインは欠伸を噛み殺してぼやき、麻の肌着一枚のまま居住まいを正した。
「それで、どうする? 気がかりな悪夢について司祭同士、解釈でもするかい。それともここにある葡萄酒を一杯ひっかけて館に戻るか。悪魔に訊きたいことがあるなら、お答えするよ。何でもいいから早く済ませて、僕を寝かせてくれ」
「……悪魔に喰われた魂は、いつまで保つのだ」
「司祭ユウェインの地にある限り、か。さあ、いつまでかな。かなりしぶといみたいだし、願いの内容がまた厄介だからね。ひょっとしたらこの肉体が死ぬまで保つんじゃないかな」
「一人喰うのに何十年もかかるわけか?」
「いや、皆が皆こうだったら堪らないよ。大抵はもっと早い。ただ、魂がすっかり消化されてその人間の自発的な意志が失われても、記憶とそれに伴う感情は断片的に残る。今の僕はユウェインの人生を共有しているけれど、この肉体が死んで魂が溶け消えた後も、僕の中に彼の一部は残るだろう。言い換えれば『永遠の生を得る』というわけさ」
言葉尻で彼はにやりとした。辛辣な皮肉と自嘲の笑み。
エリアスは不快げに眉を寄せて「なるほど」とつぶやいた。
聖典にも、一般司祭が学ぶ教義にも、かつて傲慢の大罪を犯した者どもの目的が『永遠の生』であったとは明示されていない。だがこの五年で集めた手がかりから推測してはいた。
どうやら円環の断裂と引き替えに、歪んだ形で彼らの目的は達せられたらしい。
(悪魔の根性がねじくれているのもそのせいかも知れないな)
ふん、と愉快がるでもなくそんなことを考え、彼は当面の問題に意識を戻した。
「とりわけ強い記憶や感情が、いつまでも残るのだな」
「そんなところだね。もしかして、悪魔に喰われた知り合いが夢に出てきて助けてくれって懇願したとか、そういう類かい?」
ユウェインが当てずっぽうを言う。むろんエリアスはいっさい反応を見せない。やれやれ、とユウェインは肩を竦めた。
「だとしたら、多分それは君の脳がでっち上げた空想に過ぎないよ。一度喰われてしまった魂が他人の夢に入り込めるほどの力を持つことは滅多にないからね。よほど深い関わりがあって、最近喰われたばかりの相手だとか、あるいは君に強力な霊感があれば別だけど。……もういいかな、夜明けまで少しでも眠りたいんだ」
「ああ、結構だ。嘘か真かわからんが、参考にはなった」
エリアスは素っ気なく言って踵を返す。二歩進んで振り向き、げっそり顔のユウェインに追加の質問を投げた。
「貴様は悪魔ツェファムを知っているか」
「ツェ……?」
何の脈絡もない問いに不意を突かれ、ユウェインはぽかんとして返答に詰まる。エリアスが探るように目を細めると、彼は急いで記憶を探ろうとしてか眉間を押さえた。
「覚えがあるような、ないような……うーん。ああいや、ほら、僕らの時代は人の名前にあんまり独創性がなくて、似たようなのばかりだからさ」
言い訳しながら首を捻り、じきに彼はお手上げした。
「ごめん、今すぐには思い当たらない。何か思い出したら教えるってことでいいかな」
「…………」
エリアスはあからさまに疑惑の目つきをしたが、ここで詰問してものらくらかわされるだけだと見切りをつけ、無言で部屋を出た。どうせ答えが得られたところで、真偽の判定はつかないのだから。
そう考えると、つまらないことで時間を無駄にしたものだ。防御が破られていないことを確かめた後、すぐ寝直せば良かった。
しきりに欠伸を堪えていたユウェインの姿が脳裏をよぎり、つられて眠気が差す。あふ、とエリアスも欠伸して、静かに館へ戻った。
気の短い浄化特使が去った後、司祭部屋では眠い眠いと言っていたはずのユウェインがまだ起きていた。
ベッドに腰掛けたまま、声を殺して笑っている。
「ツェファム、ツェファムね……なるほど。道理で知っている気がしたわけだよ。そうかぁ……」
ふふ、とこぼれた苦笑に混じる、嘲りの気配。しばらく独りでくすくす愉快げに笑った後、彼は改めてベッドに潜り込んだ。満足げに、安らかな笑みで。




