美味しいごはんは生きてる幸せ
村の見回りから帰ってくると、館の前でユウェインが待っていた。しゃがみ込んで何をしているのかと見れば、カスヴァの犬を撫でている。
その犬はと言えば、猟犬らしい凛々しさはすっかり蕩かされ、腹を晒し目を細めて恍惚の態。あるじに気付いてばつの悪そうな顔をしたものの、動こうとしない。カスヴァは苦々しく唸った。
「犬のくせに鼻が利かない奴だ」
悪魔にたらしこまれやがって、という文句は声に出さずしまいこむ。万が一にも誰かの耳に入ってはならない。ユウェインは失笑し、仕上げに犬の腹から首、頭とわしゃわしゃ撫で回してから立ち上がった。
「何言ってるの。なんなら小鳥を呼び集めて手に止まらせて、聖人様ごっこでもしてみせようか?」
「糞にまみれて白くなってしまえ」
「ひどい」
青年司祭は天を仰ぎ、大袈裟に慨嘆する。
「主よ、我が友は近頃いささか思いやりを失っております。どうか彼に憐れみと赦しをたまわりますように」
「安心しろ、思いやりをなくしたわけじゃない。全部おまえ以外の人間に回しているだけだ。おまえはせいぜい主に慈悲をかけてもらえ」
カスヴァは素っ気なく応じ、ユウェインがまたしゃがんで犬に抱きつくのを見下ろした。相変わらず犬はまったく警戒せず、尻尾をぱたぱた振っている。
「……犬は飼い主より早く危険を察するはずなんだが、当てにならないな」
ぼそりとつぶやいたカスヴァに、ユウェインが答えた。
「外道の気配なら、確かに人間より他の動物のほうが敏感だよ。悪魔でも低級なやつだったら、吠えられるだろうね」
「低級?」
「存在の安定性が外道とあまり変わらない、ってこと。外道がむやみやたらと他の生き物を攻撃して喰らうのは、霊的に不安定で常に飢えているからでね。教会が説明するように、《聖き道》にあるものを憎んでいる、というわけじゃないんだ」
最後の一言は小声だった。カスヴァはもう驚きもせず、悪魔の知識に納得する。頭の中に収まった禁忌の書物は、常に理解と納得をもたらすのだ。神に対する信仰や教会に対する不信と一縷の望み、それらとは関係のないところで、理の当然として腑に落ちる。それが悪魔との契約によって心を支配されたゆえなのか否か、自分自身ではもう判断がつけられなかった。
厄介な思案にとらわれそうになり、彼は実際的なところへ意識を戻した。
「それより、何の用だ。俺を待っていたんだろう」
「うん、折り入って相談があってね。帰ったばかりで悪いんだけど、予定が空いているのなら少し付き合ってもらえないかな」
「時間はあるが……なんだ、外へ出るのか」
「そう。樵小屋の近くに、使われてない窯の跡があるだろ? あれを直そうと思うんだ」
窯、と繰り返してカスヴァは変な顔をする。確かに彼の言う通り、樵小屋の近くにかつて陶工が住んでいた跡がある。樵と協力して木を切り薪を作り、生活に必要な器を焼いていたらしい。残念ながら後継者が育つ前に親方が急死し、二十年以上前に遺棄されてしまった。
それをなぜ、と顔に疑問を浮かべたカスヴァに対し、ユウェインは多少の意気込みを見せて補足した。
「ちょっと作りたいものがあるんだ。既にある物でなんとかできないかと考えたんだけど、やっぱり無理みたいだし」
「待て。何を始める気だ、今から陶工になろうって言うのか?」
わけがわからない。カスヴァが混乱しているのをよそに、ユウェインは上機嫌だ。
「まさか。必要な物を自作できればいいんだ、お皿や壺を焼くわけじゃないよ。……あ、いや、壺に近いのかな。まぁとにかく、非力な僕一人じゃ窯の跡に辿り着くのがやっとだろうし、手伝ってくれると助かるんだけど」
「わかった、少し待ってろ。言付けてくる」
カスヴァはやれやれと諦め、いったん館に入って家令に次の行き先を告げた。聞いた家令も解せぬという顔をしたが、口に出しては「お気を付けて」と言っただけだけった。
木枯らしが吹きすさび、道を行く二人は揃って首を竦めた。既に紅葉も大半散っており、風に黄金紅玉が舞うこともなく、白い梢が寒々しく震えるばかり。
「何をするつもりが知らないが、今やらなきゃいけないのか?」
「善は急げって言うだろ。雪が降り出したらとてもそんな作業はできないし、今なら草も枯れてるから道行きも少しは楽じゃないかな」
答えてユウェインは、かじかんだ手をこすり合わせる。樵小屋へ続く道を途中で外れ、雑草と灌木をかき分けて窯の跡を探すのは、実際、真夏では困難だろう。
ガサガサパキポキ、騒がしい音を立てて草や小枝を踏み折り薙ぎ払い、ようやく到着する。木造の作業小屋は朽ち果てていたが、石を積んだ窯はまだ原型をとどめていた。
「うわー、使えるかなこれ」
ユウェインは息を弾ませながら今さらな声を上げ、しばし呆然と辺りを見回した。
労働に付き合わされたカスヴァはげっそりしながらも、己の管理すべき領内にこんな場所があったのだと確認する。もし窯を再開できるようなら、よそから陶工を呼ぶことも可能だ。
(確か、近くで良い土が採れるとか言っていたしな)
領主らしくそんなことを考えている間に、ユウェインが気を取り直して作業を始めた。邪魔な草を抜き、無事だった何かの板を見つけて、溜まった落ち葉や泥を外へ掻き出す。カスヴァも仕方なく手伝いながら、疑わしげに質問した。
「窯を掘り出すのはいいが、おまえ、焼き物なんてできるのか? 粘土をこねて適当に焼けばいいってものじゃないんだぞ」
むろんそう言う彼自身とて、何をどうすれば皿が焼けるのか知っているわけではない。ユウェインだってそれは同じだろうし、
「悪魔の知恵だってそこまでは……」
ないだろう。曖昧に口の中でつぶやいて、嫌な予感に眉を寄せる。
「本当に、いったい『何』を作るつもりだ。エトラム」
作りたい物がある、と言った。だがそれは本当に、人間が普通に思い浮かべる『物』なのか。
厳しい疑いを込めて名指しされ、ユウェインの姿をした悪魔は困ったように目を逸らした。曖昧な表情で頬を掻く。汚れた指が白い肌に黒い筋をつけた。
「……言うと怒られそうだなぁ。せめてもうちょっと片付けてから話さないかい」
「今すぐ白状しろ、この悪魔」
やっぱりろくでもない企みか。カスヴァが怒って詰め寄ると、ユウェインは慌てて一歩下がった。
「わかったよ、説明する、教えるから手伝っておくれよ? 悪事でも後ろ暗いことでもないから! ……つまり、ええと」
もじもじ恥ずかしそうに口ごもり、わざとらしく上目遣いになって一言。
「美味しいパンが食べたいなぁ、ってだけのことで……うわぁ帰らないでよ、せめてここの腐った木材よけるのだけでも手伝って!」
「馬鹿かおまえは! パン焼き窯なら村にあるだろう!」
取りすがるユウェインを振り払い、カスヴァは怒声を張り上げる。水車のそばに村の共同パン窯があって、だいたい週に一回、火を入れるのだ。それ以外にも領主館には専用の調理場と小さな窯があって、パンや肉を焼けるようになっている。
「知ってるよ、知ってるけど、あれじゃなくて! 僕が作りたいのは持ち運びできる窯で、内側に張り付けた平パンがカリッとモチッと焼けるやつ!」
「知るか! 独りで勝手にやれ、わけのわからんことに俺を巻き込むな!」
「僕だって自分の食欲だけで言ってるんじゃないよ! 狭くて暗くて換気の悪い厨房で火を使わなくても、必要な時だけ窯を外に出して、パンや串焼きを作れたらどんなに助かると思う? 調理場の苦行を軽くしてやろうって慈悲はないかな領主様!」
ぐっ、とカスヴァは言葉に詰まった。馬鹿馬鹿しいと思いつつも、正論を交えられると拒否できない。我ながら損な性分だ。
「……おまえ、そんなに食い意地の張った奴だったか? それとも悪魔が貪欲なのか」
精一杯の嫌味を食らわせてやると、さすがにユウェインは頬を赤らめた。目を伏せて唇を噛み、しばし考えてから言い返す。
「確かに昔から僕はいつも、奪い合うぐらいなら譲ってしまう性質だったけど。でも、先の奥方様が焼いてくれたクッキーだけは渡さなかったろ。人並みの食い意地ぐらいあるよ。だからこそ、……エトラムとしての記憶にも引きずられるんだ」
「懐かしいあのパンが食べたい、というわけか」
呆れつつ納得し、同時にカスヴァは妙な気分になった。今、この司祭は、間違いなく幼馴染みの記憶と感情をもって言葉を紡いだ。でありながら、悪魔エトラムの記憶と存在をも肯定したのだ。
(ユウェインの魂はまだここにある、とこいつは言ったが、実際のところ、どういう状態なんだろうか)
悪魔に喰われ、胃袋の中で溶け残ったユウェインの欠片がしぶとく抵抗している――そんな想像をしていたが、どうも違うようだ。しかし当人に質してしまえば、ぎりぎりの均衡を保っている欠片を潰してしまう予感がして、彼は恐れ躊躇した。結局、曖昧な問いかけを選ぶ。
「悪魔は元々大昔の人間だった、というのなら……おまえは、どういう人間だったんだ? パン焼き窯を自作しようだとか思いつくからには、職人だったのか」
「忘れたよ」
失笑まじりの即答だった。カスヴァが不信のしるしに眉を上げると、ユウェインは肩を竦めて淡々と作業に戻った。
「千年以上も昔のことだし、霊体だけの存在……『悪魔』になってからは、他の悪魔や魂を取り込んできたからね。どこまでが誰の記憶なんだか」
他人事のような口調はいつものように柔和で軽やかだが、あまりにも『いつもと同じ』であるのが白々しい。カスヴァはそこに憐憫をおぼえた。
「嘘をつくな」
非難の言葉がいたわりの響きを示す。ユウェインがおどけた驚きの表情をつくり、次いでたまらず苦笑をこぼした。
「ばれたか。でも半分ぐらいは本当だよ。あんまり多くは覚えていないんだ。平パンが食べたいと思ったのも、昔が懐かしいと言うより、単純に今この身体であることが嬉しい、ってほうが強いね。何しろこんなに若くて健康な肉体を得るのは久しぶりだから、とにかく食事が美味しくてさ」
ごまかすようにしゃべっていたのが、言葉尻で混じりけなしの喜びに明るくなった。至近距離から突き刺さる氷点下の視線をものともせず、彼はしみじみと感慨に耽る。
「噛みしめて味わって、おなかを満たせるって幸せだよねぇ。まさに生きていると実感するよ」
「他人の身体で生きているも何もあるか、図々しい。奈落に帰れ」
カスヴァは険悪に唸る。ひどいな、と苦笑されるのを見越しての罵倒だったが、そうはならなかった。ユウェインは真顔になり、静かに言ったのだ。
「念のために断っておこう。もし、この状態から無理に僕だけを引き剥がしたら……ユウェインの肉体と魂を僕に結びつけている『願い』の鎹を、成就させることなく引き抜いて分離させたなら。この肉体が命を失って死ぬのはもちろん、まだ残っているユウェインの魂も粉々に砕けてしまうだろう。霊界どころか、狭間に漂うことすらない塵となって消える。むろん僕のほうも無傷では済まないから、下手をすれば外道に堕ちるかもしれない」
「……っ」
カスヴァが怯むとユウェインは目元を緩め、口調を和らげた。
「だから、たとえ本気ではなくても、奈落に帰れだとか言わないで欲しい。洒落にならないんだ。それに……好いた相手に罵倒されるのはやっぱり、堪える」
寂しげな微笑はいかにも美しく純粋で、途端にカスヴァは落ち着かなくなって顔を背けた。懸想は既に過去のものだと悪魔は言ったが、それが真実だとしても、彼のほうではまだ気持ちの整理がつかないのだ。
ユウェインが小さく笑い、葉のない梢を見上げながら手を広げ、深呼吸した。
「この空気、この大地。僕は本当に愛しているんだよ。大事な友達である君はもちろん、オドヴァやノエミも可愛いし、婆様だって好きだ。アヴァンだって、ひねくれてるけど意外と根は善良単純で面白い人だし。毎日、食べて、働いて、眠って、また目覚める……それだけのことが、とてもいとおしい」
慈愛に満ちた声は人間離れして優しい。カスヴァはその姿を見ることができず、足下の腐った落ち葉を睨んで歯を食いしばった。無意識に握った拳が固くこわばる。
やめろ黙れ、と叫びたかった。
まるで聖人かのような言葉を吐くな、おまえが愛すると言うこの世界を、モーウェンナは永遠に失ったんだぞ。おまえのせいで――
胸の奥が黒い炎に焦がされる。妻だけではない。司祭ユウェインという人間もまた、悪魔に乗っ取られてまっとうな世界からこぼれ落ちたのだ。
胸倉を掴んで揺さぶり、突き飛ばし殴り倒して、骨が折れるまで踏みつけてやりたい。憤怒の衝動が理性を焼き尽くすかに思われた寸前、
(助けて)
小さな声がそれを消し止めた。
カスヴァの拳から力が抜け、指がほどけた。失われたものは大きいが、守られたものもそれ以上にある。
(そもそもの元凶はこいつが外道の獲物を横取りしたからだが……しかし、もし違うなりゆきだったら)
外道が旅の司祭を襲って喰らうのを、悪魔が見過ごしていたら。
(ユウェインは死に、魂まで喰われていた。その後、外道はさらに村を狙ったかもしれない。司祭がいない村を)
だからこれで良かったのだ、とは決して言えない。それでも納得するしかなかった。
カスヴァの感情が落ち着くのを待っていたのか、ユウェインが寂しげな目でこちらを見て微笑んだ。
「ごめんよ」
今にも散りそうな花にそっと触れるような声。カスヴァは深いため息をついた。
「その言葉が真実本物の優しさから出たものだ、と信じられたら良かったのにな」
責めるつもりでなく吐露した真情は、思いがけず痛撃を与えたようだった。ユウェインがたじろぎ、泣きそうな顔をする。
「……本当に、ごめん」
明らかに涙を含んだ謝罪を嘘だと断じることは、さすがにできかねた。相手がもはや泣き虫の弟分ではないのだと骨身に染みていてさえも。カスヴァは仕方なく肩を竦め、場の空気を変えた。
「もういい。そもそもパン焼き窯の話だったはずだろう。何をどうやって作るのか、具体的な目処は立っているんだろうな?」
「ああ、うん。基本的にはこういう形で、底に炭を入れて燃やすんだ。村にある窯と違って、パンを置く部分は要らない」
ユウェインも気を取り直して表情を明るくし、土に木の枝で図を描いて説明した。壺のようなものなのかな、と先に言っていたが、形としては甕のほうが近いだろう。その内壁に延ばしたパン生地を張り付け、鉄串に肉を刺して中央に立てて焼くのだという。
「持ち運び……できるのか、これ」
「火を入れる前なら別に熱くはないんだから、持てるよ。それより大前提として、ここが使えるようにならないと、高温に耐えられる器を用意できないからね。十日や二十日であっさり作れるとは思っていないよ。いざ焼く段になったら、また君の手助けが必要だし」
「ろくろを回せとでも?」
「回してくれるなら助かるけど」ユウェインはおどけて笑い、続けた。「それより高温の炎をつくってもらわないと。忘れたかい、僕は契約者を介さないとろくに力を使えないんだよ」
聞いたカスヴァは神妙に地面の絵を観察し、次いで顔を上げて草と苔に埋もれかけている窯跡を眺め、朽ちて潰れた作業小屋に目をやってから、最後に無謀な挑戦者をつくづく見つめた。
「よし、この計画はやめよう」
「諦めが早すぎないかな!」
抗議の叫びを上げたユウェインを放って、カスヴァはもう背を向けて帰途につく。そうして肩越しに投げやりな言葉をかけた。
「冷静に考えて無理がありすぎる。設備の面でも、俺がそんな術を使うという点でも、何もかも。故郷のパンは諦めろ。厨房仕事がきついのは何か別の改善方法を考える」
そこまで言ってからはたと気付き、彼は渋面になって向き直った。
「そもそも、だ。そこまでして携帯窯だとかを作ったとして、それを女達に使ってくれと言えるか? 見たことも聞いたこともない物を渡して、こういうパンや料理を作るんだと説明するのか。どこでどうしてこんな物を、と不審がられるぞ。よしんば好評だったとしても、その時は我が家にも欲しい、どうやって作ったのか、という話になるだろう。上手くごまかせるのか?」
「うっ」
ユウェインが声を詰まらせた。珍しく理屈で言い負かされてしまい、情けない顔になる。カスヴァは呆れて眉を上げた。
「言っておくが、俺が嘘をつき通せると思うなよ」
「それはわかってるよ。わかってるつもりだったけど、ああ、そうかぁ」
はあっ、と深いため息をついて、ユウェインはがっくりうなだれる。恐ろしいまでに知恵が回ると思っていた悪魔も、実際にはこんな凡庸な見落としをするらしい。
「……そんなにパンが食べたかったのか」
「人を食い意地の権化みたいに言わないでくれないかな。否定はしないけど」
ユウェインはすっかり沈んだ様子でぼやき、未練げに窯跡を一瞥してから、とぼとぼ歩き出した。
「そうだね、君の言う通りだ。残念だけど諦めよう。……無駄骨を折らせたね、ごめん」
「気にするな。ここの様子が分かっただけでも収穫だ」
カスヴァはつい苦笑をこぼした。呆れるような失態を目にしたものだから、安心したのだ。
(窯ひとつでこのざまだ、警戒しなくてもいいんじゃないか?)
好きなように村を発展させられる、だとか、悪魔の知恵を存分に使えと唆してくれたが、実際はこれだ。恐れる必要などない、この悪魔は大したことの出来ない奴なんだろう。
そう判定を下すと、いくらか気が楽になった。
昔の気持ちがよみがえり、カスヴァは自然な動作で幼馴染みの肩を叩く。ユウェインはちょっと目を丸くしてから、陽が射すように微笑んだ。
「ありがとう」
今度はカスヴァも抵抗なくそれを受け止め、礼には及ばん、というしるしに軽く手を振る。
帰りの道行きは少しだけ、来た時よりも足取りが軽かった。
(終)
本編中でユウェインが食事シーンの度に妙に嬉しそうだったのは、こういう理由。
単なる食いしん坊ではない……はず。多分。




