斃るる際にも祈りを
――ああ、私はここで死ぬために喚ばれたのだな。
グラジェフは密かに嘆息した。ノヴァルクの司教から要請が届いた時の予感、加えて外道の知らせ、そしてこの……あまりに明らかな霊力の輝き。
礼拝堂に掲げられた円環と聖御子に、彼は静かな諦めをもって向かい合った。
いずれ特使として、どこかの路傍で死ぬだろうと予想してはいた。危険な旅を続ける以上、たとえ浄化の役目を拒み続けたところで、戦いと負傷は避けられない。ベッドで穏やかに死ねると思ってはいなかったが、それにしても。
(外道と悪魔、両方一度に来ようとはな……さればこそ導かれたのであろうが)
チェルニュクが滅びるのを防ぐため、あるいはせめて一人でも生き延びさせるために。
(主よ。せめてこの命で贖える限りのものを授けたまえ)
己が死ぬことに、恐怖をおぼえないわけではない。浄化の役目を退き、ここ数年は比較的平穏に過ごせていただけに、改めて戦いに臨むには覚悟が要る。
だがそれよりも、ただ無駄死にすることのほうが恐ろしかった。己の生命が、戦いと足掻きが、すべてむなしく意味も価値もないと思い知らされるのは。……かつての飼い犬のように、ただ勇敢であった結果、より悪い事態を招くような最期だけは避けたい。
かたわらでじっと待っている領主の若君を心の隅で意識しながら、グラジェフは沈黙し、祈った。
(うまくいけば外道のほうは、ノヴァルクからの兵と司祭が片付けるだろう。この村の司祭が悪魔憑きというのも、実のところ間違いであるかも知れぬ)
最良の予測。確かにここはあまりに力の名残が濃く、まともな司祭ならばあり得ないほどだが、それでも、もしかしたら彼はその才能を隠して故郷に帰り、村を守るためにこそ力を発揮しようと決めた善良な人間であるかも知れない。
(……最悪の場合、司祭は悪魔に乗っ取られており、外道は悪魔が招いたものであるかも知れぬ)
外道を操り村を滅ぼし、人を喰らった外道をさらに悪魔が喰らって力をつける、そんな筋書きであるかも。
(現実的なのはその中間だな)
あえて極端な最良と最悪を予測することで、恐らく実際にたどるだろう成り行きを平静に受け止められる。外道と悪魔は無関係。ただしどちらかとは戦うことになるだろう。可能性が高いのは悪魔のほうだ。
(しかし……司祭になりすませるほどの悪魔となると)
恐らく勝てまい。逃げられもすまい。ならばどうにかして、真実を聖都に知らせるべく手を打たねば。信書? 無理だろう、悪魔が勝てば司祭としてここに戻ってくる。村外に託す文は彼の手で握り潰されるに違いない。
(何しろ見事に騙されたからな)
苦渋と共に思い出す。前回この村を訪れた時、新任司祭と語り合った日のことを。
あの時のユウェインはまったく凡庸な若者らしく、頼りなく心細げに見えた。その彼から、いかにも悩ましげに打ち明けられた、道ならぬ想いへの苦しみ。
――いいえ、誓いは揺るぎなく意志は堅く保っております。すべては過去のこと。さればこそ、故郷に帰る決意もできました。しかし実際に日々親しく接しておりますと、どうしても心が騒ぐのです。この想いは果たして許される友情であるのか、それとも親愛の度を越し、司祭として公平を欠いていまいか、と……
グラジェフは祭壇前を一瞥し、唇を引き結んだ。両膝をついて赦しを乞う青年のまぼろしが見えるようだ。
同性愛は《聖き道》の教えにおいて禁じられてはいるが、あまり厳しくはない。自死や傲慢といった、より深刻な禁忌につながらぬ限りは、暗黙のうちに見逃されているのが実情だ。とは言えグラジェフ自身は、嫌悪感もないが理解共感できるわけでもないので、ユウェインの告白には正直いささか動揺してしまった。
(それが狙いだったのだろう。あんな話を聞かされては、特使が誰であれ、霊力の痕跡がどうだと気にする余裕はなくなる。悪魔の狡猾さなのか、元来悪知恵がはたらく性質だったのか、まだ断定はできぬが)
いずれにしても、ありきたりの方法では出し抜けまい。はっきり言葉で伝えることは諦め、何か手がかりを残す方法はないだろうか。特使グラジェフの死には、隠された理由があると気付かせる方法……
ふっと脳裏を懐かしい面影がよぎり、彼は我知らず目元を緩ませた。
(エリアス。そなたならば気付くか)
ただ一人の弟子、特別な秘密の共有者。あり得たかもしれない人生の、持ち得たかもしれない息子にして娘。
――では、あと十七年。死なずに生き延びられるように。
嗄れた声が耳によみがえる。不思議なものだ、とグラジェフは他人事のように感じ入った。十七年。まるであれが予言かまじないであったかのようではないか。グラジェフが浄化特使として独り立ちしたのは二十五歳の時だ。そしてちょうど十七年目の今、死に直面しようとしている。
(まあ待て、そう急ぐな。死ぬと決まったわけでもあるまい)
弟子を思い出したおかげか少し余裕が生まれ、彼は己に苦笑した。
(久しぶりにそなたに会いたくなったな。……主の御心にかなうならば)
楽園ではなくこの地上で再会したければ、諦めてはならない。
気力を取り戻し、彼は顔を上げた。
「さて……どうしたものだろうねぇ」
明るい窓辺に置かれた机、広げた羊皮紙の上で陽射しを受けてきらめく銀環がひとつ。
羽ペンの先を削りながら、黒髪の青年司祭は曖昧な声音でつぶやいた。
「司祭ユウェインの地にある限り、か」
ペンの用意はできたものの、記すべき文言はまるで頭に浮かばない。
外道との遭遇によりチェルニュク領主が殺され、ノヴァルクの司祭と兵が呑まれた。それらをたった三人で辛くも防ぎきったが、特使グラジェフは深手を負って死亡。
経緯を報告するだけなら、この説明で済まされる。だが、持ち主が死んだにもかかわらず輝きを失わない銀環については、どう書いたものか。力尽きた司祭が、死に際にわざわざ己の魂を銀環に留めた理由は何なのか。
グラジェフが施した条件付けを読み解けるほどの術士はいないだろうが、納得のいく説明を付けられなければ誰かが疑念を抱くかもしれない。
「あの場ではユウェインの意識が勝っていたからなぁ……そうでなくとも死に瀕した人間の『願い』を無碍にはできないし」
渋い顔で唸り、こめかみを揉む。しばし目を瞑って思案するうち、その顔に微苦笑が浮かんだ。
「つくづく聖職者というのは、往生際が悪いと言うか、ただでは死なないと言うか。いやはや」
つぶやいてから、くすくす笑う。ユウェインもグラジェフも、そしてまた己自身も。なんと皮肉なことか。
「まあ、せいぜい有効に使わせてもらうさ。しぶとさに敬意を表し、悪魔らしく巧みな嘘をつこうじゃないか」
挑むように辛辣に言いながら、そのくせ銀環に向けるまなざしは慈愛に満ちている。
彼は優しい手つきでペンを持ち、白い先を黒い液体にゆっくりと浸した。
(終)




