7-3 故郷を救うために
浄化特使は街道の中央に立って、剣の切っ先で土に大きな円を描いていた。カスヴァの見知らぬ文字だか記号だかが円周に配されるに従い、うなじがじんわりと熱くなる。外道のもたらす冷気でこわばった身体に、その力はありがたかった。禁忌だろうと何だろうと。
森の木々が揺れ、鳥が騒いで飛び立つ。その動きが、異様な速さでこちらへ近付いてくる。太陽までが惨劇を見るに堪えぬとばかり雲の覆いを引き寄せて隠れ、辺りはどんよりした薄暗がりに支配されてゆく。
「カスヴァ殿」
グラジェフが呼び、手招きする。円の内に入れというのだろう。カスヴァは線を消さないように注意してまたぎ越した。彼が入ったのを確かめてから、グラジェフは線をつないで完全な円環にした。
「この陣が防御になる。なるべく剣だけを突き出して攻撃するのだ。腕が少し出るぐらいは気にしなくていいが、足は決して線を越えるな。片足だけでも外に出たら、主の護りは届かなくなる」
「はい」
カスヴァが引き締まった顔つきでうなずくと、グラジェフは頼もしそうに一瞬だけ目を細めた。一方、円に入れないユウェインは、肩を竦めて街道から外れた北側に降りた。
「じゃあ僕はこっちで、君たちを無視して行く奴の邪魔をするよ。やれやれ……こんな所で、こんな形で命運が尽きるとはね。よりによって司祭として死ぬだなんて、神も皮肉がきついったら」
ぶつくさ言いながら地面に屈み、石を拾ってせっせと線を引き図形を描いていく。カスヴァは胡散臭げにそれを見やったが、強いて気にすまいと顔を背けた。
あれは悪魔だ。
それでも身体はユウェインのものだし、この半年は……幼馴染みだと信じて、そのように接してきた。友人として。
ぞわりと背筋がざわめく。あれこれ惑っている場合ではない。ギャアギャア騒ぐ鳥の声が大きくなり、へし折られ倒される木々の悲鳴がここまで聞こえてきた。心身を圧迫する地響きのような唸りも。
――来る。
直感と同時に、木立の間からどっと闇が噴き出した。折れた枝や木の葉が街道にまで飛ばされてくる。熊の咆哮と人間のおめき声が重なり、地獄の歌を奏でた。
黒い霧を毛皮に纏いつかせ、草や低木を薙ぎ倒しながら熊が突進する。そのすぐ後からノヴァルクの兵だった者たちが、槍や剣を振りかざして走る。
(でかすぎる!)
カスヴァは息を飲み、恐れのあまり半歩後ずさった。がくんと膝が抜けそうになって我に返り、気力を奮い起こす。
遠近感が狂いそうだ。この春に巣立ったばかりの若熊だという事実など消し飛ぶ。二足で立ち上がれば、村の小さな家など屋根から押し潰せるに違いない。
その熊は一直線に司祭へ向かっていく。元兵士らの一群は、グラジェフとカスヴァの待ち受ける街道へ雪崩を打って押し寄せた。
ユウェインの声が高らかに音韻を紡ぎ、銀の光が空中に軌跡を描く。カスヴァは視界の端でそれを捉えたが、土気色の顔が間近に迫ってそれどころではなくなった。
知性も理性も残っていない、人間らしい感情の残滓も見られない、目を血走らせ口から泡を吹きながら剣を振り回す兵。
円陣の中に突っ込もうとした一人が稲妻に身体を包まれ、悲鳴を上げて後ろにもんどり打った。猛り狂った兵が繰り出す槍が、特使の肩をかすめる。彼は動じず、穂先を剣で払いのけるや鋭い突きを食らわせた。鎧の隙間に滑り込んだ刃が銀の光を放つ。歯の浮く音を立てて鎧にひびが入り、留め具が外れて落ちた。刃が肉に食い込み焼灼し、生臭い煙が噴き上がる。狂った兵はそれでも止まらない。
カスヴァもまた、攻撃をかわし、弾き逸らせては反撃を続けていた。
正面から突き出された槍の柄を掴んで引き込み、わざと結界に触れさせて痛手を与える。白い炎が爆ぜ、外道の腕が炭になってもげ落ちた。
不可視の壁に外道が触れる度に、地面に描かれた線が煤け、不明瞭になっていく。カスヴァはそれに気付いたが、どうすることもできない。槍を握ったままの肘から先を投げ捨て、背後から隙を狙っていた別の敵に向き直り、無防備な喉を斬り裂いた。
ごぼっと音を立て、ノヴァルクの司祭だった男がくずおれる。ぎょろりと見開かれた眼が一瞬、確かな正気をもってカスヴァを射抜いたように錯覚した。恨めしい、貴様のせいで、よくも――
(助けて)
暗い記憶が瞬き、カスヴァはぶるっと頭を振った。こんな時に囚われてはいけない。今この場に集中しろ!
次の標的を定めようと視線を走らせたせいで、巨大な熊が嫌でも目に入った。丸太のような腕が振り下ろされ、小さな人影が木の葉のように舞う。
「ユウェイン!!」
考える間もなかった。彼は円陣を飛び出し、途端に兵士に襲いかかられる。武器と片腕を失ったあの男が、残った片腕でがばりと抱きつき、喉笛を食い破ろうとしたのだ。
「邪魔だ!」
カスヴァは憤怒の勢いで激しく振り払い蹴り飛ばした。荒々しい昂りと焦燥に衝き動かされ、ユウェインのもとへ走る。グラジェフが名を呼んだが、嵐の向こうのように聞こえない。
ユウェインは地面に這いつくばってもがき、かろうじて起き上がったところだった。そこを狙って踏みつけにきた熊の足を、カスヴァの剣が斬りつける。即座にユウェインも指を突き出して二言叫び、白い光の矢が同じ傷口に突き刺さった。
熊が吼え、体勢を崩して数歩下がる。その隙にユウェインがなんとか立ち直り、息を整えた。カスヴァは油断なく剣を構えたまま、様子を一瞥する。灰色の長衣は肩から胸にかけて赤黒く染まり、曇天の下でもわかるほど顔に血の気がない。ユウェインは両手を膝に置いて肩で息をしながら、苦笑いで言った。
「馬鹿だね、カスヴァ」
「助けられておいてそれか」
「ごめん。ありがとう」
短いやりとり。だがそれが、カスヴァの脳裏で火花を散らした。天啓なのか、悪魔のささやきなのか。閃いた考えを、彼はそのまま口にした。
「助かる方法があるんだな?」
「えっ?」
「こいつらを何とかする当てがあったんだろう、グラジェフ殿さえいなければ!」
よりによってこんな時に、と叫んだあの絶望の響き。すなわちそれは取りも直さず、浄化特使と出くわしたせいでおしまいだ、ということ。
そもそも助かる当てがあったからこそ、彼は怪我人を担いでまで逃げてきたのだ。外道を退け、また元の暮らしに戻れる見込みがあったからこそ。わざとらしいまでの捨て鉢な挑発も、死にたくないなら方法はあるよ、という仄めかしだったに違いない。
案の定、ユウェインは失笑で肯定した。
「ああ、あるよ。でもそうしたら、君は楽園に行けなくなる」
「かまわん! どうせ俺はもうそんな資格はない、だから教えろ!」
カスヴァは喚いた。同時に熊が再び立ち上がり、突進する。鋭い爪に根こそぎ抉られた草が、風圧で飛ばされて宙に踊った。
「こっちへ!」
ユウェインが叫び、銀環を握って聖句を唱えた。
「楽園の門は邪悪を通さぬ!」
地面に引かれた線が白く燃え上がって阻んだが、熊は構わず突っ込んだ。閃光が弾け、割れるような雷鳴が響く。二人は熊の進路から逃れ、わずかながらも距離を稼いだ。
遠くなったグラジェフが必死の声を上げる。
「カスヴァ! いかん、悪魔の口車に乗せられるな!」
その言葉ははっきりと聞き取れたが、カスヴァは無視した。ユウェインの胸倉を掴まんばかりに迫り、答えを要求する。
「俺の魂ひとつでチェルニュクが助かるなら、安いものだ。早くしろ、時間がない!」
ユウェインが目をみはる。一瞬の驚き。そして直後、瞳にぎらつく光を宿して彼は笑いだした。
「ふ……っ、ふ、はは、あははは! さすがだよ、カスヴァ! だから僕は君が大好きなんだ。高潔な若様、善良な友達! ああ、素晴らしいね! あっはっはははぁ!!」
「笑ってる場合か、死ぬぞ!」
「失敬失敬。もう察しがついてるだろ? 僕と契約するんだ。君の肉体が滅んだ後、その魂は、我、エトラムが貰い受ける。代わりにそれまで、我が力は汝の意志に従って行使される。さあ、チェルニュクのあるじ、チェハーク家のカスヴァ、汝の名において我と契約を結ぶか!?」
「我、チェハークのカスヴァは汝エトラムと契約する!」
負けじとばかりカスヴァは怒鳴り返す。刹那、視界が一面の炎に包まれた。
天地の狭間を埋め尽くす紅蓮の炎が、歓喜に躍り歌い輝いて渦を巻く。朱い輝きの向こうに驚嘆の光景が見え、彼は瞠目した。
天までそびえる無数の尖塔、真っ白な壁には汚れどころか継ぎ目すらない。繊細美麗な装飾が至る所にきらめく街。不思議な動物の背に乗った人々、華やかな服が風をはらんで軽やかに舞う。明るく暑く乾いた国――
瞬きと共に夢幻は消え、炎の壁が迫り、身体を包んで燃え上がった。焼け死ぬかと思ったのに、髪一本焦げもしない。ただ身の内が熱く、力に沸き立つ。渦巻く炎がそのまま狭まり、環となり縮んで、最後には左手にきらめく黄金の指輪となっておさまった。
「いざ行かん、我が契約者よ!」
芝居がかったユウェインの声で我に返る。同時に、胸の奥で勝手に音韻が紡がれた。
周囲の光景は何も変わっていない。ただ、闇雲に襲いかかっていたはずの外道どもは一様に凍り付いたように竦み、こちらを凝視していた。
(恐れているのか)
なんと。まだ何もしていないのに、彼らは悪魔の力がふるわれる予感におののいているのだ。カスヴァは躊躇せず、己の願いに応じて編まれた言葉を声にして解き放った。知らないはずの音韻が、口から出た途端に意味を持つ。
「《来たれ天の火 狭間に落ちし不浄の闇を打ち祓え》!」
教わるまでもなく、彼は右手の人差し指と中指を揃えて突き出し、大きく宙に文字を描いた。かつて遙かな過去に用いられていた、炎の神を称える聖句を。
空中に燃え上がった炎の文字は瞬く間に勢いを増し、端からほどけて灼熱の蛇となるや外道に襲いかかった。巻きつかれ絞められ咬みつかれ、次々に外道が燃え上がる。熊だけは炎蛇を叩き落として抵抗したが、それもじき間に合わなくなり、まばゆい白炎に包まれていった。
炎は見事にすべてを消し去った。骨も、金属の武器や鎧も、炭化した屑さえ残さなかったのだ。外道がいた場所だけ、ぽっかり何もない剥き出しの土が白く乾いている。
「はー、やれやれ、助かった!」
ユウェインが気の抜けた声を上げ、どさっとその場に座り込んだが、カスヴァはちらりと見もしなかった。あまりの出来事に、彼は立ち尽くしたまま虚脱していた。感情は麻痺し、現実感がなく、実は既に死んでいるのじゃないかとさえ思われるほど。
それでも彼はのろのろと頭を巡らせ、足元に落としたままの剣を見付けると、屈んで拾い上げた。剣と馬は決して粗略に扱わぬこと。心身に染みついた習性で。
ひやりとした気配を感じたのはその瞬間だった。
「危ないカスヴァ!」
ユウェインの警告を聞くより早く、彼は動いていた。反射的に上体を捻って振り向きざま剣をかざし、首を狙って振り下ろされた刃を防ぐ。瞬時に巻き込んで跳ね上げ、勢いを乗せて突きを入れた。
切っ先がまっすぐ腋に刺さる。ぐぅ、と苦しげな息が漏れてから、やっとカスヴァは敵を認識した。
「グラジェフ殿」
彼が愕然とした隙に、特使は刃から逃れて下がったが、もはや攻撃してはこなかった。そのままよろけて膝をつき、さらには座ってもおられず仰臥する。
カスヴァとユウェインが駆け寄ると、既に満身創痍の特使は深い息をついた。
「……やはり、私にこの務めは、重すぎたな。悪魔エトラム、貴様の勝ちだ」
その言葉を受けて、『悪魔』は天を仰ぎ瞑目した。一呼吸ののち、神妙な顔つきで傍らに膝をつく。そして首にかけた銀環を外し、見やすい位置にかざした。
「グラジェフ様、ご覧ください。私の銀環です」
「……?」
訝しげに眉を寄せた特使は、徐々に驚愕の表情になった。起き上がろうと首をもたげたものの、血を吐いて咳き込んでしまう。カスヴァが慌てて背中を抱いて支えると、特使はもはや敵意の失せたまなざしをユウェインに注いだ。
「こんなことが……」
「ありえるのですよ。ですから、私はユウェインのままでもある、と申し上げました」
言って司祭はふたたび銀環をかける。カスヴァは一人だけ意味がわからず困惑したが、辛抱強く黙っていた。
グラジェフは震える指で己の銀環を外し、一度唇をつけてから握り締めた。わずかな仕草で促されたユウェインがそこに手を重ねると、特使は切れ切れに言葉を絞り出す。
「我が銀環を、この者に託す。司祭ユウェインの……地にある、限り、我が魂もまた、銀環に宿る」
きらりと指の間で銀色が瞬く。ユウェインが目をしばたたくと、グラジェフは手を開いて銀環を差し出した。
「聖都への、報告書に、これを……添えると、いい」
「ありがとうございます。確かにお預かりします」
ユウェインは一瞬言葉を詰まらせたが、恭しく受け取り、涙声でグラジェフのために祈った。特使はわずかに苦笑し、背を支えるカスヴァに温かなまなざしを向けた。
「魔道士よ。せいぜい悪魔の首に、しっかり手綱を……つけて、おくのだぞ。……貴殿ならば、きっと……」
そこまで言ったところで、ふっ、と声が弱まった。瞼が下り、身体が力を失う。カスヴァは無言で、ただ頭を垂れた。魂の平安を祈ることさえ、今の自分には許されない欺瞞であるという気がして。
――とはいえ、そんな殊勝さは悪魔には無縁のものらしかった。
祈りを終えた途端にユウェインは顔を上げ、ぬけぬけと言ったのだ。
「さてと、それじゃカスヴァ、グラジェフ殿のご遺体は君が運んでおくれよ」
「……は?」
「ここに置いておくわけにはいかないだろ。せめて猟師小屋まで運ぼう。埋葬はたぶん、村の墓地よりも聖域の端にでもひっそりお墓をつくるほうが、喜ばれるんじゃないかな。森に入る村人の守りになれるなら、って」
さっさと段取りを決めながら、彼は預かった銀環を自分のものと並べて細鎖に通している。カスヴァは啞然となり、突如どっと疲れて、支えていた特使の遺体ごと地面に倒れてしまった。
「あ、ちょっと! しっかりしておくれよ、僕は無理だからね! 昨日から一睡もしてないし、人ひとり担いでここまで来ただけでも疲労困憊なのに、熊にぶん殴られて大量出血してるし普通なら死んでるところだよ。もう完全に体力の限界だからね、君が動けないんならグラジェフ殿と一緒にここに置いていくよ?」
「それだけしゃべれるのなら、充分元気だろうよ」
カスヴァはげんなりして呻く。体力もだが、気力が払底してもはや指一本動かせない。ユウェインは、元気じゃない、とでも主張するつもりか、しばらく黙りこんだ。静かになったおかげでカスヴァが気を失いそうになった時、彼は大きなため息をついて、すぐそばによいせと座り直した。
「しょうがないな……出発は少し休憩してからにしようか」
「悪い」
つい詫びたカスヴァに、ユウェインは心底呆れたと言いたげに眉を上げる。そして、くしゃりと顔を歪め、痛みと愛しさの相半ばする笑みになった。
「何言ってるんだよ、君ときたら本当にどうしようもない馬鹿だね」
「反論できないな。何せこのざまだ」
カスヴァは投げやりに応じ、左手をひらひらさせた。中指で炎色の指輪がきらめく。ユウェインは曖昧な面持ちになって、思い出したように説明した。
「ああ、その指輪、悪魔と契約した人間にしか見えないから安心していいよ。魔道士だと見破る奴がいたらご同類さ」
「そうか」
なら良かった、とつぶやいてカスヴァは目を瞑った。
その時ちょうど、空を覆っていた厚い雲がぽかりと切れて、明るい黄金の陽射しが降り注いだ。瞼の裏で光を感じ、全身が温められてほっと緩む。カスヴァは薄目を明けて司祭を見やった。
陽光を受けて、彼もまた屈託なく気持ち良さそうに空を仰いでいる。胸元で銀環がふたつ、太陽を映した。
「その銀環、単に司祭の証ってだけじゃないのか?」
「ああもちろん。この銀環にはね、通常の言語から上ヴェハム語……教会によれば『力のことば』に置き換えるための機構が彫り込まれているんだけど、他人に悪用されないように、誓いを立てた司祭の存在そのものと結びつけられているんだ。名前が彫られているのも紛失防止じゃなくて、そういう理由。本人にしか使えないし、本人が使う限りこの銀は決して曇らない」
ややおどけた口調で解説し、司祭はふたつの銀環を光にかざす。カスヴァはぼんやりとそれを聞いていたが、理解が頭に染み込むなり、がばっと身を起こした。
本人。グラジェフが銀環を託した時の言葉。すなわち――
食い入るように見つめるカスヴァの前で、司祭は己の胸を指し、柔らかく微笑んだ。
「そう。ユウェインの魂はまだここにある」




