7-1 待ち伏せ
七章
「本当によろしいんですか、若様。お二人だけじゃいろいろ不便でしょうに」
「自分の世話ぐらいできるさ。それより、万が一、ここまで外道が来たら大事だ。館で皆の帰りを待っていてくれ。そのほうが我々も安心できる」
猟師小屋には女房一人が残っており、急な客人のお世話をしようと張り切ったが、カスヴァはなだめて館へ行くよう言い聞かせた。
「そこまでおっしゃるなら……それじゃ、うちにある物は好きに使ってください。燻製小屋に吊るしたまんまになってるのは、どれでも食べてかまやしません。あと、棚のここんとこにジャムとか漬物がありますけど、食べ頃のは」
「いいから、気にしないでくれ」
ほらほら、とカスヴァが急かすと、やっと女房は身の回り品をまとめにかかる。ようやく行ったと思ったらあたふた戻ってきて、せめて寝床のシーツを取り替える、だとか言うもので、追い出すのに一苦労した。
若殿様の悪戦苦闘を、特使は面白そうに眺めているだけで一言の援護もしてくれない。早くもどっと疲れた気分でカスヴァが床にへたり込むと、グラジェフは真面目くさった顔でうむとうなずいた。
「親切で善良なご婦人には、主の祝福があるだろう」
「……ええ、まあ、親切なのはありがたいんですが」
はあ、と大きなため息をつき、やれやれとカスヴァは顔を上げた。
猟師小屋は村の西はずれ、街道からやや北の森に近いところに位置している。聖域への出入りを見守る番小屋でもあり、外に立っていれば往来する人影もよく見えた。すなわち街道をやって来る人物からも、誰が待っているか丸見えになるわけだ。
逃げられ、あるいは先手を打たれないよう、二人は小屋の中でユウェインを待つことにした。もちろん、ここまで馬には乗らず徒歩で来ている。
「道すがら聖句を唱えていらっしゃいましたが、悪魔にも効果があるのですか? ほかでもないユウェイン本人が、この辺りの聖域を清めていたんですが」
カスヴァがふと疑問を口にすると、グラジェフは仕事道具をテーブルに並べながら、端的に答えた。
「我々がおこなう清めも、魔のものらが用いる禁忌のわざも、根源は同じ力なのだよ。存在そのもの、あるいは魂や霊と言い換えても良いが、そうしたところに働く力だ。定義づける言葉によって作用の対象と効果が変わる」
ごく自然に教えてしまってから、彼ははたと困り顔をした。
「いかんな、貴殿に余計な知識を吹き込んでしまうとは。私も魔に近付きすぎたか、それとも老いて秘密を守る意志が弱ったかな」
「ご冗談を。父よりずっとお若いでしょうに」
カスヴァは苦笑でいなした。単に年齢の問題ではなく、背負ってきたものの重さゆえであるとは承知で。肩の荷を少しでも軽くできないかと、彼は言い添えた。
「同じものだとは既に気付いていました。あいつが禁忌のわざを使うところに何度も居合わせましたから。魔の力が働く時は、首や背骨の辺りが熱くなるんです」
「ほう、貴殿はわかる性質か」
グラジェフがやや驚いた様子を見せたので、カスヴァは問い返した。
「司祭ならば皆、わかるのでは?」
「いや。銀環の効果で魔の存在を“視る”ことは可能だが、そうした先天的な感覚とはまた別のものだ。惜しいな、聖職者であれば浄化特使にぜひ欲しいところだが、領主の跡継ぎとあらば教会に入れと引き抜くわけにもいかん」
「無理ですよ。俺はあなたのように心が強くない。悪夢にうなされ、人を憎み、ユウェインの言葉に惑わされてばかりいる。《聖き道》を辿るどころか、今自分がどこにいて、どちらに向かっているのかも見えない」
モーウェンナがいてくれたら、あの強い瞳で迷いを晴らしてくれたろうに。霧に包まれていてもカスヴァが手を引いてくれた、と彼女は言ったが、恐らく事実は逆だったのではなかろうか。
唇を自嘲に歪め、うなだれたカスヴァに、グラジェフは静かな声をかけた。
「それでも、貴殿は間違いなく善良だ。《聖き道》がまっすぐな一本道だなどと、誰が言ったかね」
はっ、とカスヴァは顔を上げる。こちらを見る特使の瞳は、暖かな光を湛えていた。
それ以上の言葉はない。明白に諭し導く説教でもない。だが確かにカスヴァは今、救われた、と感じた。道を外れたと失望していたところへ、そうではない、今立っているところもまた《聖き道》なのだ、と足元を照らされたように。
清めのわざに教会の教えは実のところ関係ない、と気付いてしまった時に感じた絶望的な恐れが、薄らぎ、溶けてゆく。教えも《聖き道》も、人生に大きな意義をもたらすものであり、決して無力でも無意味でもないのだ。
「ありがとうございます」
心からの感謝をこめて、カスヴァは深く頭を下げた。
落ち着いた安らぎのうちにゆっくりと日が傾き、黄昏が訪れる。グラジェフは剣の刃に指を当てて、清めの聖句だけでなく何かの術を施したり、額や手足に銀鈴樹の精油をつけて加護を祈願したりと準備を整えたが、ユウェインが戻ってくる気配はない。カスヴァは何となくほっとした。
対決が先送りになった安堵だけではない。彼がノヴァルクにまで行ったのなら向こうで司教に会うに違いなく、そこで正体を暴かれる心配がないからこそ、そうしたのだ、と考えたら、彼が無実である望みが持てる。
(諦めが悪いな、俺も)
何回もユウェインを疑い、怒り、そのくせ邪悪な敵だと割り切れず未練がましく希望に縋りつく。
(……戦えるだろうか。もしあいつがグラジェフ殿を打ち負かしそうになったら、俺はその前にあいつを殺せるだろうか)
剣の柄を握り、抜き放って幼馴染みに斬りかかるところを想像する。脳裏に春の墓場がよみがえり、ああ、と彼は得心した。
(あの時あいつは、外道を追い払うために魔の力を用いたのか。だから俺は反射的に、斬りつけようとしたんだ)
あれこれの想いが去来して、眠れそうにない。カスヴァはグラジェフに声をかけた。
「そろそろ暗くなります。もう、今日はユウェインも戻らないでしょう。俺が不寝番をしますから、グラジェフ殿はお休みください。長旅の疲れを取らなければ」
「ふむ……そうだな。夜中に街道を来るとなったら、きっと何かしら力を使うだろう。貴殿ならば見えずとも気配を感じ取れるから適任だな。異変があったらすぐ起こしてくれたまえ」
特使は提案を受け入れ、床に敷いた外套の上に身を横たえる。寝床を使えばいいのに、とカスヴァが言うのに先んじて、彼はにやりとした。
「固い地面で眠るのには慣れている。うっかり熟睡してしまっては困るからな。外が薄明るくなったら交代しよう」
「わかりました」
カスヴァはうなずき、質素な腰掛けに座って長い夜に備えた。
やがてグラジェフが寝息を立て始めると、カスヴァの物思いはまた過去に、幼馴染みに戻っていった。
(なあ、ユウェイン、おまえは何を望んでいるんだ? チェルニュクで何をするつもりで戻ってきたんだ。悪魔と契約したのなら……あるいは知識に溺れて禁忌の力を好き放題にふるいたくなったのなら、もっと都合のいい場所があったろうに。どうして)
――僕は君のために帰ってきたんだよ。君と、モーと。大事な二人のために……
(あれは悪魔の嘘なのか? 教えてくれユウェイン。おまえはまだ、俺の知っているおまえなのか。司祭になって色々変わったにしても、芯は昔のままか)
いっそ、このまま帰って来ないでくれたら。ノヴァルクに向かった父と途中で別れ、それきり行方をくらましてくれたら。
そんなことさえ願ってしまい、彼はごつんと頭を小突いた。
(しつこいぞ、いい加減にしろ。……あるいはこんな風に思うのも、既に悪魔に毒されているせいかもしれないな)
戦で負った苦しみを和らげてもらったから。息子の命を救ってもらったから。
あれらの親切が全部、計算ずくだったのだとしたら、なんと恐ろしいことだろう。
(恩義は恩義。だが正義とは別だ、割り切れ!)
自分に言い聞かせ、深く息を吸って瞑目する。瞼の裏に浮かんだ幼馴染みの笑みを、今度こそ、彼は一刀両断にした。




