6-3 魔を討つもの
カスヴァも愛馬に鞍を載せ、見回りに出ることにした。ノヴァルクへ向かう西はユウェインに任せるとして、村の南側をぐるっと回ってモルテュクからの街道が無事か確かめておかなければ。
家令に行き先を告げ、オドヴァの世話を頼んで門へ向かう。見送るアヴァンがいかにも不安げだったので、大丈夫だと示すようにぐっと顎を引き、そのまま丘を下りていった。
街道から外れて畑や牧場の間を東へ向かい、村を取り囲む森の縁に沿ってゆっくりと馬を歩かせる。秋が近く、一部の樹木は既に紅や黄に衣替えしていた。風に冷たい息吹がまじり、空は高く遠い。
不意に、モーウェンナと二人で散策した記憶が鮮やかによみがえり、カスヴァは馬上で身を折った。
野を走り回った子供時代。思春期になって、恥じらいに戸惑いながら、ぎりぎり手をつなげない距離を保って歩いた。結婚してからは腕を組んで、折々の景色を眺めながら。
もういない。彼女はもう、どこにもいない。
今ここに独りでいることが急に耐えがたくなって、彼は馬の腹を強く蹴った。突然走らされた馬は、しばらく行って勝手に歩を緩め、立ち止まった。大丈夫か、と気遣うようにちらりと視線をくれる。カスヴァは情けない苦笑を浮かべ、馬の首を叩いてやった。
「おまえにまで心配されるとはな。不甲斐ないあるじですまん」
独りごち、顔を上げる。モルテュクに通じる街道に出てきたところだった。
「うん? 誰か来る……」
遠くに騎影を発見し、目をすがめる。ややあって正体の判別がつくと、彼は驚き、急いで迎えに行った。
「グラジェフ殿! これは奇遇、いや、僥倖と言うべきか」
特使のほうも意外な出会いに、喜びと戸惑いの相半ばする顔になった。
「カスヴァ殿か。まさか、私を待っていたのかね?」
「いいえ、偶然です。この時期においでになるとは思ってもみませんでした」
チェルニュクに特使が来るのは、晩春から初夏の間に一回と、晩秋から初冬のどこかでもう一回、というのがここ数年の通例だ。今年は干し草作りの時期に来たから、次は冬のはじめだろうと思っていた。
彼の返事に、グラジェフはなぜか少しほっとした様子を見せた。
「そうか。なに、ノヴァルクの司教からのちょっとした頼まれ事でな……それより、僥倖とはどういう意味かね。私が必要とされる事態でも?」
「外道が出ました」
カスヴァが短く告げると、相手もさっと表情を引き締めた。カスヴァは馬首を返して村へ向け、手振りで示す。
「西への街道沿いに、熊の外道が出たそうです。つい今し方、父とユウェインが討伐の兵を要請するため、ノヴァルクに向かいました」
「なんと。犠牲者は」
「幸い、遭遇した者は無事に逃げおおせました。ノヴァルクから兵が到着したら、グラジェフ殿もお力をお貸しください」
「むろんだとも」
「心強い限りです。ひとまず館で休まれますか」
カスヴァは先に馬を進ませながら問いかける。グラジェフは沈鬱な表情になり、いや、と断ってから、不吉なまなざしをひたと据えた。
「教会に参りたい」
声音に含まれる意図は、間違いなく伝わった。教会を、調べさせてもらう――と。
カスヴァはごくりと喉を鳴らした。己の反応がどう受け取られたか、冷や汗をかきながら平静を取り繕う。
「先ほど申し上げた通り、司祭は不在ですが」
我ながらひどい演技だ。こんな、いかにも隠し事をしていますとばかりの態度では、何もごまかせまい。
「貴殿はどうやら、私の目的がおわかりのようだな」
グラジェフが淡々と言う。難詰の口調ではないぶん、余計に恐ろしい。何もかもお見通しなのだろうか。
カスヴァは手綱を握り締め、忙しく頭を働かせた。どうすればこの特使の糾弾を免れるだろうか。どうすればユウェインを逃がしてやれるだろうか――そもそも、逃がすべきなのか?
(ああモーウェンナ、君はいつだって用意周到だったよ)
最後の手紙の後、彼女は既に浄化特使の派遣を要請していたのだ。それがノヴァルクからグラジェフのもとへ届けられたに違いない。
(ユウェインが単に道を外れているだけでなく、もし本当に悪魔がかかわっていたのであれば……殺されるのか。その時は俺も?)
動悸が激しくなり、てのひらが嫌な汗で湿る。
彼の葛藤を察していように、グラジェフはあえて無言で轡を並べた。しばらく進み、小川を渡る橋にさしかかったところで馬を止め、川下の池を見やって問いかける。
「奥方は息災かね」
その訊き方が、まるで答えを知っているかのようだったので、カスヴァはぎりっと奥歯を噛んだ。
「……先頃、亡くなりました。池で溺れて。まさに今、あなたがご覧になっているところです」
彼女の影でも見えますか、とまで言いたくなったのを、かろうじて飲み込む。そうだと肯定されたら、衝動的に叫んで水に飛び込み妻の後を追うかもしれない。自分の行動がまるで予想できないほど、彼は動揺していた。
「痛ましいことだ。お悔やみ申し上げる」
グラジェフは短いながらも誠意のこもった弔辞を述べ、聖印を切って祈りを捧げた。それでようやくカスヴァの気持ちも静まる。グラジェフは立派な司祭だ。この村をよく知っているし、モーウェンナを含め領主一家と様々に語らってきた、実直で信頼できる人物。敵ではない。
その特使が、氷青色の瞳を翳らせてつぶやいた。
「無事を祈っていたが、間に合わなんだか」
決定的な言葉だった。やはり彼はモーウェンナの手紙を読んだのだ。重い沈黙が降り、カスヴァはうなだれる。救えなかった無力が骨身に染みてつらい。
「……すべて、悪魔の仕業なのでしょうか」
事故だ、と断言したユウェインを信じたい。自殺ではなく、殺されたのでもない、きわめて不幸で悲しい事故だ、と。だが、それはつまり。
(そうまで言い切れるほど、彼女の死にざまを知っているのか、ユウェイン。おまえは見ていたのか、彼女が死ぬところを)
心の底に沈めた疑いと憤怒が、またしても鎌首をもたげる。そこへ特使が言った。
「まだわからん。だが、魔の気配が残っておるのは確かだな」
それだけ告げて、彼は馬を進める。カスヴァはうつむきがちに後をついていった。
街道の両側には、昔から変わらぬ農村の風景が広がっており、何らの不穏もないように見えた。刈り取りを終えた麦畑と、これから収穫を待つ蕪や人参の畑。石や茨の垣で区切られた牧草地では、羊や牛がせっせと草を食んでいる。薄暗い影の存在を知らなければ、主に嘉された楽園かのよう。
やがて果樹園の間を抜け、館の丘へ登って門をくぐると、もう逃げ場はなくなった。カスヴァは黙って馬を下り、特使と共に教会へ向かう。
礼拝堂に入るとグラジェフは円環と聖御子に深く一礼し、それからまっすぐ奥へ向かった。祭具室を抜け、司祭の居室へと。
書き物机を調べ、室内を隅々まで見て回るにつれ、眉間のしわは険しくなる一方だった。
終始無言での検分が済むと、彼は礼拝堂に出た。突っ立って見守るしかなかったカスヴァも、質問したいのを堪えて従う。
グラジェフは大きなため息をついて、会衆席の端に腰を下ろした。カスヴァもその近くに座り、説明してもらえるのをじっと待つ。だが特使の口は重く、一向に開かないので、痺れを切らせて問いかけた。
「あいつはどうなりますか。前においでになった時、あなたは何もおっしゃらなかった。悩みや苦しみを聞いて、それが嘘だとは断じられなかった。あの時には何もわからなかったのですか」
返事は尚さらの沈黙だった。カスヴァは唇を噛み、うつむいた。剣の柄が目に入り、果たしてかの司祭が施したわざは効果があるのかと疑念を抱く。
(いや、効果はあるに違いないさ。外道退治はそもそも禁忌の力に頼っているんだ。教会の教えから外れようが、主と聖御子に背こうが、関係ない)
胸をよぎった考えに、彼は一呼吸遅れてぞっとなった。主と聖御子のご加護が、何の関係もない? だったら主の導きは、《聖き道》は、いったい我々の人生に……
「ユウェインは魔に憑かれている」
特使の声が物思いを破った。カスヴァははっと顔を上げ、危うい崖っぷちから思考を引き戻して意識を切り替える。
「以前あいつは、悪魔と契約していない、と誓いました。主と聖御子にかけて。それも嘘だったのでしょうか」
「どうかな。その時は『まだ』契約していない、というだけだったかもしれん。あるいは最悪……いや、とにかく悪魔は人を欺くのが巧い。前にここを訪れた折は、魔の存在は隠されていた。術の気配は残っていたが、着任したての司祭にはままあることだ。貴殿に尋ねた時、秘術はほとんど使っていないとの答えだったが……恐らく気取られぬよう用いているのだろうと、勝手な推測をしてしまった。司祭としての知識と力を示して信頼を得るために」
「泣いて打ち明けたのも、そういう話だったんですか」
「いや……司祭としての適性に関する事柄ではあったがな。その話はやめておこう」
グラジェフは曖昧にごまかし、小さく手を振って打ち切ると、しばらく黙って祭壇奥を仰いでいた。そのまなざしは遠く、円環と聖御子像を透かして天の楽園を見ているかのよう。カスヴァは次第にいたたまれなくなり、思い切って告白した。
「あいつは俺に、禁忌の知識を授けようとしました。モーウェンナが死者の影に怯えなくて済むように、そうしたものに対処するための知識とわざを。それもやはり悪魔の誘惑だったとお考えですか。もし俺がそれを受けていたら、……あなたは」
さすがにその先は口に出せなかった。それほど際どい内容にもかかわらず、まだ相手は無反応で彼方を見ている。何かを諦めるための時間を稼ぎ、心を静めて意志が固まるのを待つかのように。
呼吸の音が耳障りなほどの静寂。そして、
「カスヴァ殿。悪魔とは何だと思う?」
唐突に質問が投げられた。カスヴァは面くらい、瞬きする。悪魔は悪魔だ。それ以外の答えなど考えたこともなかった彼は、今さらながら首を捻った。
返事を待たず、グラジェフは己の手元に目を落として淡々と続けた。
「そんな提案をされるほどに、禁忌について踏み込んだ話をしたのだろう。ならば、悪魔と呼ばれるものが単純に『正義』あるいは『善』の対極の概念にすぎないとは、もはや考えておるまい。少なくとも、教会が説く世界の姿がすべてではないと感じているだろう」
つい今しがたの物思いを言い当てられ、カスヴァはどきりとする。動揺を隠そうと顔を伏せ、特使の視線を追った。歴戦の証、数多の傷痕に覆われた武骨な手。これまでどれほどの悪魔を祓い、消し去ってきたのだろうか。
「我々司祭もまた、一般人と大差ない認識でいる者が多い。だが、浄化特使としての厳しい試練に耐え抜き、悪魔や外道との接触を重ねることによって、深く秘められた真実が見えてくる」
グラジェフの手が拳に握りしめられる。ごりっ、と関節が鳴った。
「既に魔に染まった者と深くかかわった貴殿なら、恐らくそう驚くまい。『悪魔』とは……そもそもが、かつて人間だったものたちだ」
「人間!?」
「禁忌の知識ゆえ多くは語れぬ。だが彼らは奈落から湧く悪の化身ではなく、むしろ奈落にさえも行けぬ死者なのだ。理性を失ったものは外道となり、確たる自我を保ったままのものが悪魔となる」
さすがにカスヴァは愕然とした。これまで信じてきた素朴な概念が、音を立てて崩れ落ちる。一方でしかし、腑に落ちたのも確かだった。
悪魔の手口、善意と優しさの仮面を装い密やかに忍び寄るやり方は、あまりに……人間的だ。人間というものの心、弱さ、醜さを知悉し、それに寄り添えるものだからこその。
呆然とする彼の前で、グラジェフは拳をほどいて顔をこすった。
「彼らは間違いなく邪悪だ。単なる人間の邪悪さにとどまらず、一線を越えた恐るべき悪を備えている。さりながら、時には正義や善をも示すのだよ。我々生きた人間がそうであるように、彼らもまた純粋に悪だけの存在ではないのだ。ゆえに私は惑った。心が弱り、浄化の役目はもう務まらない、と辞任を願い出たのだ。しかし人材不足を理由に留め置かれ、辞令が来る度にあれこれの口実を捻り出して断り続け……結局こうして、もう見逃すことが許されない一件に立ち向かうはめになってしまった」
ほろ苦い笑みが口元に浮かぶ。倦み、疲れ、心が擦り切れた者の笑み。カスヴァにとっても戦場で見慣れた表情だったが、特使のそれはまだ気高さを残していた。
「ユウェインは、見逃せない一件ですか」
「そうだな。礼拝堂にも居室にも、あまりにも魔の痕跡が強い」
「外道が村に出たら教会に立て籠もれ、と彼は言いました。そのための措置だという可能性は?」
「なくはないが、いずれにしても、ただの司祭がこれほどのわざを施せるという点で非常に疑わしい。彼は聖都で八年あまり学んだだけなのだろう? 特別な役職に就いていたでもなく、聖都が簡単に手放した人材だ。それほど禁忌に精通してはおるまいよ。悪魔の知識だとしか考えられんな」
「……だとしたら、やはりモーウェンナはあいつに殺されたのか」
カスヴァは呻き、手紙の内容とユウェインが「忘れ物を取りに来た」ことを説明した。聞き終えたグラジェフは厳しい面持ちで瞑目し、改めて彼女の魂の平安を祈る。カスヴァは頭を振った。
「まだ信じられません。あいつがそんな……グラジェフ殿、池を調べてみますか。あいつがいた場所に案内できますが」
「その必要はない。私はそうした助けがなくとも悪魔を滅する手法を修めているし、取りに行けば罠にかかるかも知れん。ユウェインはいつこちらに戻ると言っていたかね」
グラジェフはようやっと踏ん切りをつけたように、段取りを先に進めた。
「様子を見て決める、と。安全そうなら自分だけ途中で引き返すと言っていたので、早ければ日暮れまでに戻ってくるでしょう。ノヴァルクまで父に同行したなら、向こうで兵や司祭の準備が整うのを待って、明日以降、皆と一緒に帰ってくるはずです」
「ふむ」
少し考えて、特使は腰を上げた。
「ならば、西への街道のどこかで野宿するか、猟師小屋で待機させてもらおう。ユウェインが村に入る前に待ち伏せて対処しなければな。皆の前で、この半年よく働いた司祭を燃やすわけにはいかん」
軽くふざけた口調だったが、いささかわざとらしい。燃やす、というのも決して冗談ではあるまい。カスヴァは内心怯んだのを隠し、勇んで見えるようにすっくと立った。
「承知しました。では外泊する旨、館の者に伝えて参ります」




