6-1 遅すぎた告白
六章
朝靄の名残がふわふわと、葦の間に漂っている。
湿った土に横たえられたモーウェンナは鷺よりも白く、冷えた蝋のように無情だった。
「嘘だろう……どうして」
カスヴァは傍らに両膝をついてくずおれ、震える手を伸ばして指先で頬に触れた。ふやけて弾力のない、残酷な感触。
急を知らされて駆けつけた時には、もはや何もかも手遅れだった。早朝に舟を出した漁師が、浅瀬に沈んでいる彼女を見付けたらしい。慌てて引き上げたものの、既に死んでいるのは明らかだったという。
カスヴァに一足遅れ、ユウェインも息を切らせてやって来た。泣いていたのか、目が赤い。その顔を見た瞬間、カスヴァは胸に氷柱をねじ込まれたような痛みを感じた。吹き荒れる感情の嵐に心が引き裂かれ、狂乱しそうになるのを必死で堪える。
おまえのせいだ。モーウェンナに何をした。おまえがいなければ――神よ、なぜ助けてくださらない!
憤激と悔しさと、何かのせいにして喚き叫びたい衝動。同時に、どうしようもなく鈍くて何も見ていなかった、この愚か者の首を刎ねてしまいたくなる。
昨夜は妙に寝苦しかった。気温自体はさほどでもなかったはずだが、身体が熱を持ったように休まらなくて、ようやく眠りに落ちた後のことは何も覚えていない。なぜ起きていなかったのだろう。妻がいつの間にか寝床を抜け出していなくなっていたのに、なぜ己は惰眠を貪っていたのだ。なぜ。
息ができない。胸をかきむしり、土に額がつくほどに身体を折る。その時、ぐいと力強く肩を掴まれた。
「事故だ、カスヴァ」
はっきりとユウェインが断言した。カスヴァは痺れた頭で言葉の表層だけをなぞり、呆然と顔を上げて相手のまなざしを受け止めた。
「きわめて不幸で悲しい事故だよ。誰のせいでもない」
「嘘をつくな!」
反射的にカスヴァは怒鳴り、手を振り払った。立ち上がって突き飛ばそうとしたものの力が入らず、がくりとまた膝をつく。低い位置から、それでもあらん限りの意志の力を込めて、榛色の目を射抜くように睨む。
ユウェインはいったん悲しげに身を引いたが、すぐに彼もまたしゃがみ込み、感情を抑えた口調で説いた。
「しっかりしろ! 誰よりも強く《聖き道》の教えを信じ、戒めを守り、地上をさまよう死者の影を恐れてきた彼女が、自ら命を絶つはずがないだろう!」
教会の教えでは、自死は固く禁じられている。自らを殺した者の魂は楽園に入れないのはもちろん、霊界にすら行けず地上をさまよい、果ては魔に呑まれて外道の力の源となるのだ。そうして、決して癒えぬ渇きと飢えに駆られて同じ境遇の魂を貪り続け、ますます飢えてゆく。地獄に堕ちるよりもぞっとする末路。
今この瞬間にも、自分には見えないだけでモーウェンナの影が隣に佇んでいるのでは、と思われて、カスヴァは耐えきれず嗚咽を漏らした。
「どうして……ならどうして、こんな場所に」
「それはわからない。君にも秘密にしている何かがあったんだろう。とにかく事故だったんだ、それは絶対に間違いないよ、カスヴァ」
そこまで強く言ってから、ユウェインは眉をひそめて小声でささやいた。
「まさか、誰かに連れ出されて沈められたような痕が?」
「――!」
その可能性をまったく考えていなかったカスヴァは、驚愕におののいた。この村の誰がそんな凶行に及ぶと言うのだ。理由も目的もありはしない。それでも一抹の黒い疑いが胸に兆し、彼は妻の遺体に向き直った。
着衣に乱暴された形跡はない。麻のカートル一枚にショールを羽織り、前で結んでいたが、それも外れていないままだ。首に絞められたような痕もないし、そっと抱き起こしてみたが、背中側に刺し傷などがあるでもない。横からユウェインも検分に協力したが、共に何も見付けられなかった。
「……少なくとも、村に殺人者がいるわけじゃないな」
無理やりながら理性を取り戻し、カスヴァは息をつく。そうだね、とユウェインもうなずき、ふたたび安置された遺体に向かってしばし黙祷したのち、聖印を切った。
「楽園の門は開かれ、主と聖御子がお迎えくださるだろう。汝の魂が喜びに包まれ、安らかならんことを」
葬儀はしめやかに執り行われた。最初に司祭が事故だと断言したおかげで、自殺者を弔うなど……といった反対は出なかったが、しかしやはり、どこか腑に落ちない死であるがゆえに、村人の間には穏やかならぬ空気が漂っていた。
そもそもなぜ、若奥様は夜中に館を抜け出し、あんな場所まで行ったのか。
番小屋にいながら――本人いわく――熟睡していた下男のアヴァンは厳しく叱責されたが、そもそも木柵は外敵を防ぐものである。平和な夜に誰かが出て行くのを止められなくても、弛んでいるとは言えない。結局、具体的な罰は下されなかった。
もしや逢い引きでは、と下世話な勘繰りで漁師を疑う者もいたが、そうしたささやきは司祭が厳しく封じた。
「モーウェンナは誰よりも敬虔で貞節、賢明にして勇敢な女性だった。どんな悪魔の誘惑にも屈しなかったろう。彼女の名誉は決して穢されてはならない」
良き妻、良き母であり、館の女あるじとして優秀でもあった。そう称えてモーウェンナを偲び、魂の平安を祈る彼の言葉は、いつにもまして会衆の胸を打った。
そしてまた、額を寄せて噂に興じる暇も長くは続かない。不幸があろうと悲しみに打ちひしがれようと、麦は刈り取らなければならないし、霧ばかりの秋になる前に野菜や果物を乾燥させたり漬けたりと、保存食を作らねばならない。ドングリが落ち始めたら豚を森にやらなければ。ぐずぐずしていると季節はあっと言う間に駆け抜けてゆくのだ。
葬儀の後、五、六日もすると、もう村も館も平常の仕事に忙しくなっていた。むろん死者の身内は哀悼に沈んでいたが、それでも日々は続いてゆく。
カスヴァは時間の許す限りオドヴァに寄り添い、そばにいられない時、あるいは少年が独りになりたそうな時は、誰かが近くで見守っているようにはからった。気にかけるべき子がいるおかげで、彼は自身の悲嘆と正面から対決せずにすみ、心をごまかしながら傷が癒えるのを待っていた。
――そうして、麦の収穫もすっかり終わり、徴税吏が例年よりは遠慮がちにふんだくっていった後のある日。
「若様」
アヴァンがおずおずと、人目を憚りながら彼のもとへやって来た。いつも館の外回りで汚れる力仕事をしている彼が、居室にまで来るのは珍しい。
「どうした。……あの日の話か?」
カスヴァは態度を決めかねたまま、哀れな下男を思いやる気持ちをなんとか呼び起こして問うた。
おまえがしっかり起きていれば、と難詰し、彼一人のせいにすれば少しは気が晴れるかもしれないが、その罵倒は自分にも跳ね返るのだ。それに、気が済むまで責め立てて、その後も変わらず主人と使用人の関係を続けるのは難しかろう。
あれこれ考えているカスヴァと同様に、アヴァンの方も複雑な思いを抱えているようだった。そわそわし、落ち着きなく視線をさまよわせて逡巡したのち、失礼を、と断って間近まで寄ってきた。
盗み聞きを恐れるように限界まで声を潜め、彼は告白した。
「あの晩、わしは起きとりました」
予想外の言葉だった。カスヴァは瞠目し、下男を凝視する。アヴァンはごくりと固唾を飲むと、胸元でせわしなく聖印を切った。
「主よ、悪魔を退けたまえ。カスヴァ様、そのうち、わしの身にも何かあるかもしれません。若奥様はこの村に悪魔がいると信じておいででした。ユウェイン様じゃ、その……頼りねえとおっしゃって、わざわざノヴァルクの司教様にあれこれお尋ねになって」
カスヴァは危うく叫びを上げかけ、かろうじて飲みこんだ。急に速まった動悸を鎮めようと胸に拳を当て、かすれ声でささやく。
「まさか、あの『恋文』か?」
おかしいとは思ったが、結局モーウェンナに確かめないまま、雑事として保留の棚に放り投げていた出来事を思い出す。アヴァンはあの時のように顔を赤らめることもなく、怯えた表情のままうなずいた。
「へえ。誰かに見咎められたら、そういう風にごまかせ、と言われまして。悪魔を欺くためだ、と。カスヴァ様、若奥様の書きもの机をあらためてくんなせえ。きっとどこかに手紙がしまってあるはずです。あの晩も、若奥様は日暮れ前に番小屋に角灯を用意しとられました。誰にも知られず行かなきゃなんねえ所がある、と仰せになって……本当に忍んでこられた時には驚きました。まだ夜も明けてねえし霧も出てるし、危ねえからおやめくだせえ、とお願いしたんですよ。どうしてもってんなら、わしもお供します、とも言いました。だけど、まさか、ああ」
次第に感情が昂ぶって声が揺れはじめ、下男はとうとう両手に顔を埋めてすすり泣く。カスヴァは涙を堪え、天を仰いだ。
(モーウェンナ。君はずっと、独りで戦っていたのか)
ユウェインが悪魔に憑かれている、あるいは少なくとも、道を踏み外し魔に染まりつつあると信じて。悪魔から家族を守り、ひょっとしたらユウェイン自身をも救おうと。
痛切な後悔が胸を突く。もっと彼女が納得するまで話を聞けば良かった。ユウェインは問題ない、だから大丈夫だと何度も説いたが、そうでなく、彼女の気持ちを受け止めてやるべきだった。何もかも手遅れだ。
カスヴァは涙をこぼさないようゆっくり瞬きし、下男をいたわってやった。
「よく話してくれた、アヴァン。すぐに調べてみよう。主と聖御子が、おまえをお守りくださるように」
司祭の祝福ではないが、あるじが加護を願ってくれたので少し安心したらしい。アヴァンは洟をすすりながら、頭を下げて部屋を出ていった。
カスヴァはすぐには動かず、心の準備をした。モーウェンナの執務室はまだ手付かずのままだ。いずれは遺品を整理し、館の奥方が取り仕切るべき仕事を誰かに継がせなければならないと承知していたが、気持ちは簡単に割り切れない。
そうした仕事に慣れた女を他所から求めて後添いに取るよりは、オドヴァの妻となる娘を選んで今から教育するのが現実的ではなかろうか。幸い村の女たちも、当面自分たちで相談して差配するから大丈夫だと請け合ってくれたことだし。
急に老け込んだ気分になり、カスヴァは自嘲気味の吐息を漏らした。まだ三十路を越えてもいないのに、早すぎるだろう。
顔をこすって気力を立て直し、よし、と彼は歩きだした。
女あるじの執務室に入ると、そこかしこに残っている妻の気配が予想以上に強く、鼻の奥がツンとなった。瞬きしてごまかし、書き物机に向かう。
種々の書類や覚え書きが、きちんと整頓されていた。明日からまたすぐ仕事にかかれるように、大切なものが紛失しないように。モーウェンナらしい優雅な几帳面さ。
(しっかりしろ、今は感傷に浸りに来たんじゃない)
カスヴァは頭を振り、己を叱咤して抽斗を開けた。




