5-5 決断、その結果
オドヴァの熱は翌日になっても下がらなかった。
産婆とノエミが交代で看病し、モーウェンナもほとんどつきっきりになっていたが、病状は一進一退だ。ユウェインはモーウェンナが見ている前で、産婆から経過や処置を聞いて助言や提案をしたが、子供部屋には一歩も入らなかった。
カスヴァも様子を気にしてはいたが、うつるかもしれないから寄るな、もっとはっきり言えば邪魔だ、という対応をされては、できることなど何もない。
だが妻に任せきりでは、彼女のほうが参ってしまうのではないか……と案じていたら、さすがに夜になって寝室にやってきた。昨日の朝からずっと休まず看病していたので、疲れと眠気で朦朧としている。
「良かった、少しでも眠れそうか」
カスヴァは今にも倒れそうな妻を支え、服を脱いで寝床に入るのを手伝ってやった。
「婆様が呼んだら、すぐに起こして……」
半分寝言のように頼み、モーウェンナは頭を枕につけるや否や深い呼吸に沈んでゆく。カスヴァは妻の口元にかかる栗茶の髪をそっと払ってやったが、それ以上は触れず、眠りを妨げないよう慎重に隣へ潜り込んだ。
何かあるのではないか、と警戒していたせいだろう。カスヴァは浅いまどろみにたゆたい、いくらも経たずにふと目が覚めた。
背中が妙に熱っぽい。まさか自分までが、と焦ったが、すぐに違うと察した。寝床から滑り出て、手早く服を身に着け、忍び足で急ぐ。子供部屋を覗くと案の定、ユウェインがいた。
「若様」
付き添っていたノエミが息を飲む。黙って司祭を呼んだことを叱責されると恐れたのだろう。カスヴァは手振りでなだめ、我が子の枕元に寄った。赤い顔でうとうとしている。息が苦しそうだ。
「どんな具合だ」
彼の問いに答える前に、ユウェインはノエミに目配せする。少女は承知とばかり一礼すると、部屋を出て扉を閉めた。見張りをしてくれるらしい。
司祭は厳しい面持ちで、左手で銀環に触れながら右手をオドヴァの胸に置いて、静かに言った。
「良くないね。婆様がこっそり教会に来たんだ。若奥様には休んでもらったから診てほしい、と。夕方にひきつけを起こしたが、モーはそれも知らせるなと止めたんだそうだ。すぐ治まったから大丈夫だと言い張って」
思わずカスヴァは舌打ちした。ユウェインは振り向きもせず、小さな身体の各所に手を当てていく。
「彼女を責める筋合いではないよ。すぐに治まって状態に変化がないなら、大騒ぎしなくていい場合が多いから。ただ、これは……」
眉根に険しいしわを刻み、手を離して考え込む。ささやき声のやりとりで目を覚ましたオドヴァが腫れぼったい瞼を開き、熱に潤んだ目で大人たちを見上げた。
「父上、来てくれたの?」
「ああ。そばについているからな、心配するな」
「苦しい……ぼく、死んじゃうの? いやだよ、お別れしたくないよ」
「まさか。大丈夫だ」
カスヴァは笑みをつくり、汗に濡れた息子の額を拭ってやる。オドヴァはちらりとユウェインを見て、心細げに言った。
「でも母上は、悪魔が魂を奪いにくる、って」
「馬鹿なことを。大袈裟に心配しているだけだ、悪魔なんかいない。悪いものは全部、この頼れる司祭が追い払ってくれるから、安心しろ」
カスヴァは優しくなだめてやったが、オドヴァはまだ不安そうだ。ユウェインが壁際に退き、来い来いと手招きしたので、カスヴァは息子の頭をくしゃりと撫でてからそばを離れた。
ユウェインは寝床に背を向け、ぐっと声を低めて切り出した。
「どうするか決めてくれ。禁忌のわざを使わなくても、切り抜けられるだろうとは思う。だが完治するまで長引くし、ひょっとしたら命を落とすかもしれない。絶対に治せるとは言えない。治っても、何かしらの障りが残るだろう」
「見込みは?」
「わかるわけがないだろう、そんなこと。力は尽くすさ、だが駄目な時は駄目だ。それでも主の御心だとわきまえ、楽園に迎えられるならばよしと納得するのなら、その先は君たち夫婦と家族の問題だ。心に開いた穴を埋め、跡継ぎをどうするか協議したまえ。私は小さな魂の平安を祈るしかできない」
はっ、とカスヴァは息を詰まらせた。そう、これは跡継ぎの問題でもあるのだ。
オドヴァに何かあったら、ハヴェルから続く血筋が絶えてしまう。たとえ死ななくとも、領主のつとめを果たせない身体になれば結果は同じだ。モーウェンナがまた男児を産んでくれるのを期待するか、あるいは家令の叔父へ当主の座を譲り渡すか。
カスヴァは息子の様子を見たくなるのを、ぐっと堪えた。今この瞬間も、彼は大人たちの会話に耳をそばだてているだろう。何か不穏な話し合いをしているのは、理解できなくともわかる。そんな時に父親が暗い顔を見せたらどう受け止めることか。
爪先に目を落とし、彼は唇を噛んだ。
叔父の一族に譲ること自体は、不満ではない。そもそもそういう可能性を常に考えて、領主のつとめをきちんと継いでいけるように、親族が館の切り盛りをしているのだから。ツィリが雑用をしながら館の庶務を学んでいるのも、いざと言う時、オドヴァの代わりに立てるようにだ。
だから、ハヴェルさえ了承すれば問題はない――ないのだが。
(近頃の父上はよくわからないからな……俺を失うのを恐れて徴税吏相手に小細工するぐらいだ、もしかしたら自分の孫に継がせようとこだわるかもしれない)
実務的な事柄を考えて感情を落ち着かせようとしたが、裏腹に瞼が熱くなり、涙がこぼれそうになった。
そんなことより、何よりも。
(オドヴァにどう言い訳するんだ。小さな胸を痛めて、死にたくないと恐れているのに)
救える手立てがあると知りながら、それは『良くない』からと不確実な方法だけを用いて。きっと治るから頑張れ、万一の時も楽園に行くんだから心配ないぞ、とでも言い聞かせるのか。あまりにも醜悪な欺瞞ではないか。
深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。胸の中が空になるまで。
それから彼は顔を上げ、辛抱強く待っている司祭に告げた。
「頼む。オドヴァを救ってくれ」
「わかった」
ユウェインは端的にうなずいた。決断を支持し喜ぶでもなく、銀環を握って天を仰ぎ、許しと加護を乞う。
「モーウェンナが知ったら、それこそ悪魔に魂を奪われた、と思い込んで激怒するだろうな。私になだめられるとは思えない。頼んだよ、カスヴァ」
不吉な予言にカスヴァは怯んだものの、腹をくくってうなずいた。ユウェインはそれを確かめてから、何の懸念もないように平穏な表情でオドヴァの枕元に戻った。
「司祭様……やっぱりぼく、死ぬの?」
「いいや、死なせるものか。主の御許へ行くには早すぎるよ。君の人生はまだまだこれからだ」
ユウェインは微笑み、右手を少年の額に、左手を胸に軽く置いた。唇が動き、耳慣れない音韻を紡ぐ。司祭だけが知る禁忌の言語。所々、知っている単語がまじっているように聞こえるが、空耳だろうか。
(あの司祭も死ぬ直前、何か叫んでいたな。つまり禁忌の力でなければ、外道に立ち向かえないのか)
従軍司祭の最期を思い出し、カスヴァはそんなことを考えたが、じきにうなじが熱くなる感覚に気を取られた。もう間違いない。禁忌の力がふるわれる時、あるいはその予兆がある時、彼はそれを感じ取っている。
帰郷してユウェインに接するまで、こんな感覚をおぼえたことはなかった。戦場で外道に襲われたせいで身に備わったのか、単に今までこの力がふるわれるところに居合わせなかっただけか。
慣れてくると不快ではないし、身の危険を察知した時のような不吉さも感じないので、もしかしたらこの力そのものは邪悪ではないのかもしれない。ユウェインがいみじくも要約したように、変質する人間の問題なのかも。
じっと司祭の手元に目を凝らすと、微かな光の流れが蜘蛛の糸のように指先にまとわりつき、オドヴァの中へ流れ込んでいるのが見えた。
(本当に良かったのか)
今さらぞくりと震える。こんな得体の知れない力に、大事な我が子の命を委ねて、本当に――
いつの間にかユウェインの声が止み、光も消えていた。カスヴァは瞬きし、息子の顔を見る。火照っていた頬の赤みが引き、浅く速かった呼吸が落ち着いているではないか。
「主よ、ありがとうございます」
劇的な変化に、彼は思わず天を仰いで感謝した。ユウェインはオドヴァの脈を確かめてから、ちらりと皮肉な気配を口元に浮かべた。
「主がお聞きになったら、苦笑いされるかもね。いや……主は気になさらないか。聖御子は渋面だろうけど」
「知り合いみたいに言うなよ。どういう意味だ」
カスヴァは不審げに質したが、「しっ」とユウェインに指を立てられて口をつぐんだ。オドヴァの安らかな寝息が、すぅ、と静かに響く。ただそれだけのことが、部屋に穏やかな幸福をもたらした。カスヴァは満ち足りた気持ちで目を細める。
ユウェインが扉をそっと叩き、ノエミを呼び入れて小声で指示を出した。
「ノエミ。坊ちゃまの熱は下がったよ。今はよく眠っているから、目が覚めてから汗を拭いて着替えを。ずっと起きて看病していなくてもいいから、君も少しお休み」
それを背後に聞きながら、カスヴァは急ぎ足に寝室へ戻った。あまり長く空けていて、モーウェンナに気付かれたら大変だ。
幸い、妻はずっと眠っていたようだった。カスヴァがごそごそ潜り込んだ時になってやっと、小さく呻く。
「……あなた?」
「ああ、オドヴァを見てきた。よく寝てるよ、大丈夫」
優しくあやすように言うと、そう、と安堵のつぶやきが応じた。
それきり、夜は静寂と平穏のうちに更けていった。
翌朝、カスヴァが目覚めた時には寝床に妻の姿はなかった。
「しまった!」
先に起きて、彼女がオドヴァのところに行く前に、何らかの手を打っておくべきだったのに。せめて同時にその場にいて、彼女が叫び出すのを止められるよう、備えなければならないのに。
大急ぎで身支度し、ベルトを締めながら大股に子供部屋へ向かう。妻が産婆と弟子をなじって修羅場が始まっているのではないかと戦々恐々だったが、意外にも静かだ。それもそのはず、部屋にはベッドで眠い目をこすっているオドヴァと、途方に暮れた様子のノエミがいるだけだった。
「モーウェンナはどうした」
カスヴァが鋭く問うと、少女は困惑顔で答えた。
「おいでになって、坊ちゃまがすっかり良くなっているのを見て安心されたんですけど。急に顔色を変えて、何も言わずに飛び出していってしまわれて」
「教会か」
ちっ、とカスヴァは舌打ちして身を翻す。慌てたノエミの声が追ってきた。
「あのっ、あたしどうすれば」
「誰か来るまで待ってろ!」
じきに下女があれこれ世話するために来るだろう。構っていられない。カスヴァは館から走り出て、扉を蹴破らんばかりの勢いで教会に飛び込んだ。
司祭の居室に駆け込むと、既に空気は一触即発に緊迫していた。こちらに背を向けているモーウェンナの肩越しにユウェインが、遅いよ、と言いたげな視線をくれる。彼女も誰が来たか察したはずだが、そのまま振り向かず、司祭だけを見据えて言った。
「もう一度訊くわ。あの子に何をしたの」
声は重く、激情を内に秘めているとしても、わずかな震えさえなく平板だった。カスヴァは天を仰ぎ、矛先をこちらへ向けさせようと試みる。
「モーウェンナ、決断したのは俺だ。ユウェインを責めるな」
無視されはしなかったが、妻はこちらを一瞥しただけだった。それも、直視を避けるように伏し目がちに。奇妙なことに、表情はまるで読めなかった。カスヴァは戸惑い、次に口にすべき言葉を見失う。
モーウェンナは怒りも落胆も向けなかった。妻の意志を知っていながら反する決断をした夫に、非難のまなざしをくれるのが当然だろうに、そうではなかったのだ。かと言って諦めや蔑みもなかった。彼女が何をどう考えているのか、まったく推測できない。
「答えてちょうだい」
再度モーウェンナが求める。ユウェインは観念したように、ため息をついてから口を開いた。
「驚いたよ、まさか痕跡まで見えるなんてね。君の目にどう映っているのか知らないが、あれは一時的な処置だ。病のもとが消えて安全になったら、自然に術も解ける。あくまで肉体的に作用するだけで、君が案じているような、精神や存在に働きかけるわざじゃない。だから、『魂を奪われる』なんて言うのはよしてくれ」
平静で理性的な説明を、モーウェンナはやはり、氷のごとく静かに聞いている。
「……本当に、あの子の魂は損なわれてはいないのね。楽園の門で追い返されるような、穢れたしるしをつけられてはいないのね?」
「そんなに死後が大切かい? いや、今のは失言だな、取り消そう。ああモー、主と聖御子にかけて、円環にかけて、オドウァの魂は完全に清らかだとも。誓うよ」
ユウェインは左手を銀環に添え、右手を挙げて誓いの仕草をする。モーウェンナは暗いまなざしをひたと据えて言った。
「奈落にかけても?」
男二人がぎょっとなり、身じろぎする。思わずカスヴァは口走った。
「なんてことを」
それこそ悪魔の誓いではないか。司祭が魔道に手を染めたと疑うだけでも並外れた侮辱であるのに。
顔をこわばらせたユウェインに向かって、モーウェンナは冷ややかに切り込む。
「悪魔のわざを使うのだから、主と聖御子にかけて誓うだけでは不充分なのではないかしら。あなたが用いる力とわざの根源たる奈落にかけて、オドヴァの魂には触れていないと誓える?」
「……モーウェンナ、悪魔は嘘をつくものだよ。司祭の誓いを信じずに、悪魔の誓いを信じると言うのかい」
苦渋の表情で、ようやくユウェインが返答を絞り出すと、モーウェンナはあっさり引き下がった。
「そう。わかったわ」
独り勝手に納得し、ふいと踵を返す。置き去りをくった男二人は、共に困惑し、顔を見合わせた。幼い頃、二人にはわからない理由で少女がぷりぷり怒って帰ってしまい、途方に暮れて見送った時から何も進歩していないような気分で。
と、そんな彼らを哀れんでか、モーウェンナは出て行く前に振り返り、ごく微かな笑みを見せた。
「オドヴァを助けてくれてありがとう、ユウェイン」
途端にユウェインは、ぱっと無邪気な喜びを満面に湛えた。カスヴァもほっとして、友人の肩を叩いてから妻の後を追う。
礼拝堂に出ると、モーウェンナは立ち止まって円環と聖御子を仰ぎ見ていた。ゆっくりとひざまずき、祈りを捧げる。カスヴァもそれにならい、息子が救われたこと、妻が友を受け入れてくれたらしいことを感謝した。
短い祈りの後、立ち上がったモーウェンナの顔からは笑みが消えていたが、険しさはなく、ただ穏やかだった。
「ありがとう、モーウェンナ」
カスヴァが礼を言うと、彼女は不思議そうに瞬きし、それから苦笑をこぼした。
「わたしが金切り声を上げてユウェインに掴みかかるとでも思っていたの? そういうのが女のやることだ、って」
「あ、いや」
突っ込まれてカスヴァがうろたえる。モーウェンナは機嫌を損ねたふりで夫の腕を軽くつねったが、そのままうつむいて黙り込んだ。カスヴァは細い肩に手を置き、優しくさすってやる。
「……まだ不安か?」
「いいえ。ありがとう、大丈夫よ」
ささやき返し、モーウェンナは夫の胸にもたれかかった。いたわるような抱擁には慈愛だけが感じられ、縋りつくでも縛りつけるでもなく、危うさの入り込む余地はまったくなかった。
だからカスヴァは、本人が言う通りもう大丈夫なのだ、と安心した。これからはモーウェンナも、ユウェインのやり方に妥協し折り合いをつけてくれるだろう。そうしたら、死者の影に怯えずにすむよう、彼女の人生を覆う霧を晴らしてやれる。
すべてが良い方向へ流れはじめたのだと感じられ、未来が明るく見えた。
――数日後、彼女の遺体が池に上がるまでは。




