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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第二部 霧の中を彷徨うとも
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5-4 提案(あるいは誘惑)

 音を立てないよう気を付けて礼拝堂に入ると、案の定、ユウェインはまだ円環と聖御子に向かって祈っていた。燭台では、捧げられた燈明がすっかり短くなっている。

 途切れることなく紡がれる聖句。窓から射し込む光は既に角度を変え、ちょうど司祭のいる辺りを照らしている。カスヴァはそっと会衆席の端を回り、相手の様子がわかる位置に移った。

 斜め後ろから、光を受けて白く輝く頬が見える。


(魅力……と言うか)

 何だろうな、と彼はつい考え耽った。敬虔な祈りの姿に心動かされはするが、女たちが魅力を感じるものなのかどうか、よくわからない。ただ昔からユウェインは繊細な顔立ちではあったし、聖都で暮らしたおかげもあってか、すっかり大人になった今も、村の大勢と違ってすんなりした印象を受ける。

 そんなところに惹かれる女もいるだろうし、だからこそノエミのように複雑な感情を抱く者もいるかもしれない。

(だがモーウェンナはそうじゃない。俺と結婚してくれたぐらいなんだから)

 彼女がユウェインに魅力を見出し、さらには脅威と捉えるなど、あり得まい。やはりあれはノエミの思い込みだ。


 結論づけると安堵して、つい、ほっ、と息をついた。その音が聞こえたらしく、ユウェインが身じろぎする。同時に、途切れた祈りの続きとばかり腹が鳴いた。

 あまりに見事な間合いだったので、堪えきれずカスヴァは盛大にふきだした。ユウェイン本人も、赤面しつつ天を仰いでから笑いをこぼす。やれやれと首を振りながら、彼はゆっくり会衆席のほうへやって来た。


「オドヴァの具合が悪くて呼びに来たわけじゃないみたいだね。良かった」

「ああ、おまえが腹を空かせてるんじゃないかと思って持ってきた」

 カスヴァはからかい口調で言って、布巾の包みを差し出す。ユウェインは喜んで受け取った。

「主よ、思いやり深き友に祝福を。やあ、干し杏だ。嬉しいなぁ」

「おまえの分のスープを取っておけば良かったな」

「充分さ。部屋に行こう」

 機嫌良く言って、ユウェインは手招きした。礼拝堂の裏の祭具室を抜けた先に、司祭の住まいがあるのだ。大きな教会なら司祭館が別にあるが、ここはそんな規模ではない。


 通されたのは窓のある明るい居室だ。司祭が書きものをしたり、信徒と私的な交流をもつための部屋。奥にはごく狭い寝室がある。カスヴァはぐるりと室内を見回し、ユルゲンがいた頃の名残がほとんど消えていることに気付いた。道理で居心地が良いはずだ。


 ユウェインは小さなテーブルに土産を置くと、戸棚から二客組の磁器茶碗を出して水を注いだ。彼が聖都から持って帰ってきた貴重品だ。陶器のものならノヴァルクでも手に入るが、値段のわりに野暮ったく脆い。比べて、カスヴァの前に置かれた碗は、形も装飾もごく単純なのに洗練されている。把手がなく、てのひらにすっぽり収まって持ちやすい。藍色の花がさりげなく縁や見込みに配されている。

 カスヴァがつくづく鑑賞していると、ユウェインが小首を傾げた。


「銀器のほうが良かったかな」

「これがいい。さすがに聖都の品は違うなと感心していただけだ」

「まあね。それはたまたま蚤の市で見付けた掘り出し物で、使い勝手が良いから気に入っているんだ。聖都の品と言っても、ごてごて悪趣味なのも多いよ」


 言い訳するように肩を竦めてから、彼は改めて布巾を解いて広げ、ささやかな糧を主に感謝してから堅パンを割った。一口頬張って嬉しそうに噛みしめ、次いでカスヴァの視線に気付いて目をぱちくりさせる。


「君も食べるかい? それとも、聖都の司祭はやっぱり違うな、って?」

「いや。……おまえの祈りは、ちゃんとした祈りなんだな」

 ほんの一言、文句もほとんど変わらないのに、ハヴェルのそれとはまるで違う。

「禁忌の知識やわざを使ったりして、時々不安にさせられるが、それでもおまえは間違いなく本物の司祭だよ」

 まともに褒められたユウェインは気恥ずかしそうに目をそらし、控えめに答えた。

「ありがとう。正直に言って僕は教会の内部事情に幻滅したし、そのせいで君やモーを不安にさせる言動もしてしまうけれど、だからこそ僕自身は、良き司祭でありたいと強く願っているんだ」


 押しつけがましさも、正しさと善を振りかざす強圧的な力もない。木々の葉に宿った露の滴がひっそりと伝い落ち、土に染みこむにも似た声。

 カスヴァは心に浮かんだその露を受けるように、ゆっくり一口、水を飲む。それから現実に立ち返り、ふっと息をついた。

「残念ながら、モーウェンナはすっかり不信の塊になっているようだがな。昔はあんなに仲が良かったのに、どうしてこうなったんだか」

 愚痴っぽくなってしまい、彼は額を小突く。ユウェインは黙ってパンを食べ、返事を保留した。


「……本当のところ、昔もそんなに仲良くはなかったよ」

 しばらくしてユウェインが言ったのは、カスヴァが夢にも思わなかったことだった。針樅色の目を丸く見開いて、幼馴染みを凝視する。

 彼の驚きように対し、ユウェインは恐縮そうに肩を竦めた。

「僕は年下のちび助で、お二人さんの間に居座るお邪魔虫だったからね。ああ、うんと小さな頃は確かに仲良しだったけど。それでも時々、僕が君らの足を引っ張って、モーは僕の世話をしなきゃならないのが不満らしい、って感じることはあったかな」


「いや、おまえ、それは」

 子供同士が集まって遊ぶ時には、つきものの関係ではないか。年少者や発育の遅い者、弱い者を、体が大きく健康な年長者が面倒見る。そうやって子供たちなりに、社会というものを学ぶのだ。

 カスヴァ自身も小さい頃は兄に世話してもらったからこそ、ユウェインやモーウェンナの手を引くことを厭わなかった。長じて男女の意識が芽生えた後も、恋情と友情に優劣をつけたりせず、三人がそれぞれ互いの関係を尊重し、共に過ごす喜びを分かち合ってきたではないか。

 ごくまっとうな感覚で彼がそう言うと、ユウェインはまぶしそうな微笑を見せた。


「君がそうだから、僕たち二人とも君に寄りかかってしまったんだね。とりわけモーは、いろいろ……見えないほうがいいものが見えていたから」

 そこまで言うと、彼は笑みを消して感情のない口調で続けた。

「彼女がことさらに霊や魔のものを恐れるのは、致し方ない。正しい知識を学び対処を身につけたなら、彼女の視界を遮る霧も晴れるだろうにと思うが、彼女の望みは違う。霧の中に留まったまま、君に手を引かれていたいようだ」


 いささか手厳しい評に、カスヴァも表情を険しくする。ユウェインはちょっと手を挙げてそれをなだめ、声を低めて言い添えた。


「無理強いはしないよ。自ら立ち向かおうとしない者には、主の御手も届かない。だからカスヴァ、もし覚悟があるなら……君が彼女の代わりに知っておいてくれるかい」

「俺が?」

「以前に言ったね。いずれ君に教えるかもしれない、と。あの時はそんなつもりではなかったけれど、モーウェンナが一生このままで過ごすつもりなら、手を引く君の目は開かれているべきだ」

「待て!」


 ガタン、とカスヴァは立ち上がった。勢いで腰掛が倒れ、足がもつれて体勢を崩す。テーブルに手をついて堪えようとしたが、伸ばした指先が磁器茶碗に触れそうになって、反射的に高く上げた。結果、

「うわぁ!」

 まともに転倒し、派手な騒音を響かせてしまった。ユウェインは呆気に取られ、次いでぷっとふきだした。


「意外と鈍くさいところもあったもんだね、若様」

「うるさい。はずみだ、はずみ」

 カスヴァは呻きながらぶつけた腰や足をさすり、家具を壊していないか確かめる。

「茶碗は無事か?」

「うん。もしかして、そのせいで転んだのかい?」

 ユウェインは苦笑に驚きをまじえ、助け起こそうと手を差し出す。彼は若殿様を立たせると、手を離す前に強く一度ぐっと握った。


「こんな茶碗より君の身が大事なのに」

 呆れたのを装いながらも、目元は優しい。カスヴァはわざと大仰に渋面を返した。

「そう思うなら、あんまり不穏な発言は慎んでくれ。『こんな茶碗』でも、割れたら代わりは手に入らないぞ。聖都じゃないんだから」

「そうだね。ありがとう」

 真情のこもった感謝が、言われたほうの胸にも沁みる。みっともない失敗をしたせいでカスヴァは頑なな態度を取れず、曖昧な表情で言った。

「……俺は、司祭になるべき修練を一切積んでいない。それでも、禁忌の知識を授けていいのか? そんなことが教会にばれたら、おまえは破門されるぞ。その時は俺も」


「ばれなきゃいいんだよ。いや、冗談」

 しれっと悪童のごとき発言をした不良司祭は、友人の顔色を見てすぐに首を竦めた。真顔になり、座るように促しながら続ける。

「教会も一枚岩じゃない。ばれたとしても、事情を話せば理解してくれるお偉方もいらっしゃるし、そもそも特使を説得できれば上には伝わらない。グラジェフ殿はチェルニュクの担当になって長いんだろう? だったら無慈悲な対応はされないさ。君が、禁忌の知恵とわざを手にしても決して悪用しない、稀に見る善人だ、ってこともご存じだろう」

 穏やかな語り口に気負いはない。カスヴァもそのまま流されそうになったが、ふと心に引っかかるものがあった。無意識にそれをつぶやく。


「悪魔は善意と優しさの仮面を装う」


 すっ、と一瞬で世界から音が消えた。気配の変化に即応し、カスヴァの中で冷徹な警戒が覚醒する。失言したか、という懸念など影も差さず、感情は凍ったようにさざ波ひとつ立たない。身体は次の反応に備えて力を蓄える。


 ――が、深いため息がすべての緊張を解いた。

 肩を落として長々と息を吐いた司祭は、途方に暮れた顔でこめかみを揉み、つまらなさそうにパンの残りを崩しにかかった。


「やっぱり君もそうかい。禁忌を破るぐらいなら、ただ黙って苦しみに耐え続け、死さえも甘受する殉教者の道を選ぶ、と言うんだね。僕はそんな馬鹿げた思い込みの枷を外したいんだけど、余計なお世話ってわけだ」

「いい歳していじけるなよ。おまえは禁忌の知識を既に知っているからそんな風に言えるんだ。俺に知識とわざを授けても悪用しないと信じてくれるのは光栄だが、現実にどうなるかなんて俺自身にさえわからない。溺れた子供を助けたり、モーウェンナを脅かす影を追い払ったりできるなら……多分、俺はその力を歓迎するだろう。だがそれだけでは済まないからこそ、禁忌とされているんじゃないのか。ただ人助けができるだけの知識なら、教会が厳重に秘密にする理由がない」


「ご賢察」

 ユウェインはおどけたが、揶揄というよりは喜んでいる声音だった。

「君はただ頑固なだけじゃなく、そういう思慮と慎重さを備えている。だからこそ、君になら教えても大丈夫だと思えるんだよ。それこそ、下手な司祭よりもね」

「最後の点については俺も同意する。だが、腐った司祭どもだって最初からそうだったわけじゃないだろう。教会の……暗い部分にどっぷり浸かったせいで、善悪の判断が怪しくなったんだろうし、民草よりもすぐれた知識と力を手にしているという自負が性根を歪めたのかもしれない。俺が同じにならない保証はない」

「なるほど。力そのものが問題なのでなく、力を得ることで変質する人間の問題だ、と言うんだね。だから聞きたくない、か」

 しょうがないね、と諦めの笑みを浮かべて司祭が言う。カスヴァは顔を伏せた。

「……少し、考えさせてくれ。モーウェンナがこのままおまえの助けを拒み続けるなら、俺がなんとかしてやらなければならない。それは確かだが」

 口を濁し、つかのま沈黙する。邪魔したな、とつぶやくように言って、彼は司祭の部屋を後にした。


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