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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第二部 霧の中を彷徨うとも
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4-2 司祭として

 本当に弁護するつもりであったなら、遅すぎた。カスヴァが前髪を濡らしたまま教会の前に立つと同時に、中から特使が出てきたのだ。


「あっ、と……失礼、グラジェフ殿。もうお話は済みましたか」

「うむ。もしや友人を庇い立てするために来たのかね」

 グラジェフが厳しい面持ちで応じたので、カスヴァは怯み、固唾を飲んだ。庇い立て、とはまた穏便でない。

「何か、あいつに落ち度がありましたか」

 手ぬるくしすぎだ、というのか。それとも、彼が気安く教えたあれこれに禁忌の知識が含まれていたのか。


 カスヴァが懸念もあらわに答えを待っていると、特使は不意に表情を緩め、悪戯っぽく眉を上げて答えた。

「友人とは良いものだな。貴殿の助けがあれば、若く未熟な司祭でもつとめを果たせるだろう。本来ならば司祭こそが人々に安心安寧をもたらし、時に土地のあるじの行いにさえ目を光らせねばならぬのだが」


 そこで彼は眉をひそめ、背後を瞥見した。カスヴァも半開きの扉を通して礼拝堂を見やり、祭壇前でひざまずいて祈る後ろ姿にどきりとする。打ちひしがれた子供のように、無力で小さな背。よほどの叱責を受けたのだろうか。


「そんなに力不足でしょうか。確かに昔のあいつは弱虫でしたが、俺が見る限りでは司祭として立派にやっていると思います」

「本人に伝えてやってくれ。彼も安心するだろう。だが、もし彼が貴殿に……」

 なぜかそこで言い淀み、グラジェフは言葉を探して視線をさまよわせた後、曖昧な声音で続けた。

「そう、あまり頼りすぎるようであれば、あるいは貴殿の友情をあまりに大事にしすぎるようであれば、時には厳しく突き放して、司祭の立場と理性を思い出させてやってくれぬだろうか」


 不可解な頼みだ。カスヴァは眉を寄せて即答を避けた。

「あまりに、というのをどう判断すれば良いかわかりませんが、胸に留めておきます」

「よろしく頼む。では失礼、私はハヴェル殿にご挨拶せねば。ノヴァルクの役人との対決は終わったのだろうな?」

 特使は小声で問いかけ、指を交差させて戦をあらわす。おどけた仕草につられて、カスヴァも微笑んだ。

「我がほうの勝利で。ご心配なく、父もそれほど不機嫌ではありませんよ」

「ならば重畳」


 芝居がかった仕草で重々しくうなずき、特使は館へと足を向ける。数歩ではたと思い出したように振り返り、なにげない態度で問うた。


「そうだ、カスヴァ殿。彼は秘術をよく使うかね」

「は?」


 ぽかん、とカスヴァは間の抜けた声を返す。司祭が外道退治に何やら術を使うのは知っているが、それを頻繁に使うような状況ではない。怪訝な顔をした彼に、グラジェフは苦笑を見せた。


「単に聖句を唱えて祈るだけでなく、癒しを施したり、明確な魔除けの結界を張ったり、といった司祭のわざだ」

「いいえ。そういうことは、ほとんど何も。森の聖域を清めてくれてはいますが」

「……そうか。ふむ」


 特使は思案げに応じて眉を寄せ、それにしては、とか何とかつぶやいた。が、結局それ以上は説明も質問もせず、軽く手を挙げて歩み去った。


 カスヴァは当惑したままその場に佇んでいたが、ややあって意を決すると中に入り、扉を閉めた。司祭の弱さを人目に晒すべきではない。

 物音に気付いてユウェインが身をこわばらせる。カスヴァは一番後ろのベンチに腰を下ろし、できるだけさりげなく声をかけた。


「背後の番はしてやるから、気が済むまで祈れ」

「……ふ」


 湿った失笑が漏れた。ユウェインはうつむいて肩を震わせていたが、嗚咽だか笑いだかの衝動をどうにか抑えると、長く深い息を吐いた。

 ぎこちない動きで時間をかけて立ち上がり、長衣の裾をはたいて埃を払う。まるで儀式かのように慎重に、丁寧に。それから彼は仰向いて、円環と聖御子に手を合わせた。


「主よ、このような友をお恵みくださり、感謝いたします」

 雨上がりの雲間から薄日が射すような祈り。泣いていたのは明らかだったが、カスヴァはそれには触れなかった。ただ無骨に、率直に問う。

「俺にできることがあるか?」


 司祭のように、やんわり巧みに宥めたり慰めたりできないのだから、仕方ない。だが短い言葉は予期せず深く刺さったようで、ユウェインはびくりと竦み、両手に顔を埋めて堪えかねた呻きを漏らした。

 思わずカスヴァは腰を浮かせた。そのまま彼が泣き崩れそうに見えて、とっさに支えようとしたのだ。


 カスヴァが駆け寄る寸前、ユウェインはいきなり荒っぽい仕草で顔を上げた。両手を振り下ろし、「ああまったく!」と虚勢の窺える声を出す。

「本当に君は昔から、人の一番弱いところを突いてくれるなぁ!」

「……悪い」

 余計な世話だったか、とカスヴァは鼻白んで立ち尽くした。危ういところで崩落する崖から逃れた司祭は、もう弱々しくは見えなかった。

「君は悪くない。ただ、君の善意が時々……」

 自嘲気味に言いさしてやめ、彼は首を振った。つかのま瞑目したのち、友人に向かい合うと、銀環に手を触れて一礼する。

「ありがとう、カスヴァ。君の善良さは天の賜物だよ」


「そんな大層なものじゃない、やめてくれ」

 カスヴァは苦々しく否定した。敵でもなんでもない村人を手にかけた者を、善良だなどと。蛮行に抵抗もできず、悪夢にうなされるだけの良心に、何の価値があろうか。

 暗い考えに陥りそうになり、いや、と気持ちを切り替える。話すべきは相手の問題だ。俺ではなく、おまえの話。


「グラジェフ殿に相当きつく絞られたのか?」

 やや強引に軌道修正したカスヴァに、ユウェインは一瞬、ぽかんとした。榛色の目をぱちくりさせ、次いで柔らかく微笑む。

「心配させてしまったね、ごめん。叱責されたわけじゃないよ。まぁその、お説教は頂戴したけど、それも僕が望んでのことだ。色々と悩み事を打ち明けたから」


「おまえは、司祭として立派にやってる。教会の基準でどうなのかは知らないが、少なくともこの村で、おまえは間違いなく本物の司祭だよ」

 力を込めて断言した直後、ちくりと小さな棘が胸を刺す。つい先ほどの、父に対する感情の残滓だ。


(考えるな。あれはこいつのせいじゃない。長年ノヴァルクに搾取されて、父上も腹に据えかねていたんだろう。麦角をまぜて使うなと禁じられたのを、これ幸いと交渉の材料にしたんだ。こいつはただ司祭として、皆を危険から守ろうとしただけだ)


 問い質してやろうと思っていたはずなのに、すっかりそんな気は失せてしまった。しかも目の前で、いかにも心を打たれた表情をされて、

「そう言ってもらえると、……本当に、救われるよ」

 泣きそうな声で言われてしまったのでは、今さら疑えない。カスヴァは逃げるように顔を背けた。ユウェインもさすがに恥ずかしくなったか、そそくさと祭壇に向き直り、改めて深く頭を下げた。


 彼が祈り終えるのを待ち、カスヴァはひとつ咳払いして空気を変えた。

「おまえの悩みが司祭としてのことなら、俺では相談相手にならないだろうな。だが自棄酒に付き合うぐらいはできるし、特使殿や村の皆には言えない愚痴でも、友人のよしみで聞いてやるよ。だから、必要な時にはいつでも言ってくれ」

「ありがとう。そうだね、その時には」


 応じてうなずいたユウェインは、いつもの落ち着きを取り戻していた。カスヴァのそばまで歩み寄り、聖印を切って祝福すると、手近なベンチに腰を下ろす。


「特使殿が来たのは通常の巡回で、問責を目的として派遣されたのじゃないから、安心してくれたらいいよ。この機会にと思って、日頃から感じていた司祭としての悩みを聞いてもらったら、予想外に気持ちが動揺してしまってね……修養が足りない、って叱られた。その通りだ、本当に」

 駄目だなぁ、とこぼしたつぶやきは、内省よりも自嘲の色が濃い。カスヴァが何とも言えずにいるうちに、彼は気を取り直して話を続けた。

「グラジェフ殿は教会年報と、ついでに手紙も届けてくださったんだ。聖都で師事していた司教様からね。特に重大な知らせはないから、ハヴェル様にも簡単に挨拶だけして、明日にもすぐモルテュクへ向かうとおっしゃっていたよ」

「そうか。ならあの役人には、一人で帰ってもらわないといけないな」


 カスヴァは少々意地の悪い喜びを感じながら言った。まさか特使がぐるっと各地を回って帰って来るまで、チェルニュクに滞在する気ではないだろう。帰路もまたここを通るとは限らないのだから。

 ユウェインが面白そうな表情になり、身を乗り出す。


「あのきらびやかな連れは徴税吏だろう? 派手にやり合ったのかい。一人で帰らせて大丈夫かな」

「馬なんだから、朝に発てば昼には着くだろう。おまえのおかげで村の近くには外道の気配もないし、熊もあれ以来、近寄ってこないしな。問題ないさ」


 そもそもノヴァルクの市場に出る時は、家畜を引き連れ、荷車に品物を積んで、えっちらおっちら行くのである。むろん清められた武器を扱える者が同行するが、もし外道に出くわしたら無傷では済まない。安全ばかり気にしたところで、生きてゆくためにはどうしようもない、というのが実際のところだ。


「少しはノヴァルクも遠慮してくれるといいんだけどね。チェルニュクはあっちよりずっと人も少なくて、そんな中から若者を失ったんだ。南への経路という意味でも、この村を維持する重要性を理解してもらいたいよ」


 ユウェインが憂慮するのを聞いて、カスヴァはまた棘の痛みを感じた。これ以上長居しては危険だ。友人の肩をぽんと叩き、明るい声を取り繕った。


「そういう悩みはこっちに任せておけ。おまえは外道を退け、皆の心の平穏を守ってくれたらいい。ただでさえ司祭として悩みが多いんだろう、世俗のことまで気を回すな」

「はは……そうだね」


 力不足を恥じてか、ユウェインは儚げに微笑む。カスヴァはしまったと思ったが、言葉を重ねるほどに気まずくなりそうで、黙って背を向けた。扉に手をかけたところで、もう一度「ありがとう」と礼を言われたが、彼は答えなかった。


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