4-1 特使と徴税吏
四章
チェルニュクは穏やかな春を満喫していた。
若殿様が帰ってきたし、麦を倒す嵐もなく、新しい司祭のおかげで魔の気配もすっかり遠のいたようだ。陰鬱な曇天や霧に包まれる日が多い土地にもかかわらず、爽やかな晴天に恵まれて、農民たちは土を耕し豆や野菜を蒔くのに忙しい。
陽気は暖かさを通り越して暑くさえあり、羊の毛刈りも早々に済んで、今度は干草作りが始まった。村人総出の大仕事であるからして、カスヴァものんびり骨休めしてはいられない。皆と一緒にせっせと汗を流す。
教会特使がやってきたのは、そんな折だった。
西からの道を館へ向かう騎馬の影がふたつ。共に壮年の男だ。カスヴァは手を止め、鎌を置いてそちらへ向かった。
「ごきげんよう、グラジェフ殿」
呼びかけると相手も気付き、手綱を引く。数年前から定期的に村を訪れている、馴染みの巡回特使だった。
灰色の長衣に粗い麻の外套、という旅装は一般的な司祭と同じだが、腰には剣を帯びている。短く刈った灰黒の髪は狼のようで、氷青色の瞳は鋭く油断ない。顔つきも体つきも、聖職者というよりは歴戦の騎士を思わせる。厳めしい口元をほころばせ、彼は馬を下りて挨拶を返した。
「カスヴァ殿か、精が出るな。平穏な青空をお恵みくださった主に感謝を」
「主に感謝を」
カスヴァも繰り返し、特使の連れにちらっと目をやった。贅沢な房飾りや刺繍を施した胴着の上に艶やかな外套を羽織った男は、尊大にこちらを見下ろしている。カスヴァが右手を胸に当ててお辞儀すると、彼はふんと鼻を鳴らして目礼だけを返した。
特使が苦笑し、カスヴァに身を寄せて小声でささやく。
「麦が実れば鴉がついばむ。ノヴァルクのザヤツは強欲の罪で少し懲らしめを受けるべきだな。主に正義をお願いしておこう」
「腹でも下しますように」
冗談めかした口調で本心を隠し、カスヴァは肩を竦めた。
連れの男は徴税吏だ。この春に生まれた家畜の数や、麦の収穫見込みなどを調べて帰り、秋にどれだけ巻き上げられるかを計算する嫌な奴。
既にカスヴァも、父と共にこうした面倒な事柄に携わっていた。ただ無心に畑を耕し家畜を追い、自然の変化にだけ心を砕いて、苦しみも悲しみも神に委ねて過ごせたなら、どれほど人生は満ち足りるだろう。
だが残念なことに彼は領主の跡継ぎだし、人々をまとめ村を守るには、あらゆる不足不満を常に両手で捌き続けなければならないのだ。
カスヴァはグラジェフと並んで、館へと歩きだした。後ろについている徴税吏の耳を意識してか、特使は当たり障りのない話題を選んだ。
「新しい司祭は問題なくやっているかね?」
「ええ。この村の出身ですからね、皆、親しみをもって受け入れています」
「だがあまり親しすぎても、司祭のつとめに障りがあるだろう」
「はじめの頃は、やりにくい部分もあるとこぼしていましたが、今はもうすっかり」
実際、ユウェインは早くも村の人々からある種の敬意を集めていた。先代司祭に対するような畏怖ではないが、親しく接しながらも彼に対しては従順になる者が多い。
「若いからと、侮られてはおらんかね。司祭は時に、厳格な態度でもって導かねばならんものだが」
「その点はどうでしょうか。あなたはユウェインがまだユルゲン様に師事していた頃をご存じないでしょう。彼は子供時代を知られている村で厳しくするよりも、優しく柔軟な接し方で皆を導くほうを選びました。たぶん成功していると思いますよ。彼の治療のおかげで父の眼病が完治したのもあって、尊敬されています」
カスヴァは幼馴染みを弁護しながら、ふと特使に尋ねてみたくなった。
ユウェインのような司祭は、今の聖都では本当に珍しくないのか。産婆に医薬の知識を授け、告解を軽率なまでに簡略化して自分を赦せと言い、女が教会の知識に触れられないことを憤る、そんな司祭は。
だが問うては密告になる気がして、彼は口をつぐんだ。沈黙に潜む後ろめたさを察したのか否か、グラジェフはさりげなく話題を変えた。
「そういえばカスヴァ殿はつい先頃まで、ザヤツ殿のもとで剣の義務を果たされていたのだったな。具合はどうだ、傷はすべて癒えたかね」
「主のお恵みで」
カスヴァはぎこちなく微笑んだ。明け方の教会でユウェインと話してから、悪夢はすんなり遠のいた。完全にとまではゆかず、まだ暗い断片がしばしば眠りを妨げるが、以前のように鮮烈で生々しい感覚と情動をもたらすものではない。身体に傷痕が残るように、心に入ったひびも消えてなくなりはしないだろうが、共に塞がりはするのだ。
それは良かった、とグラジェフは目を細め、銀環に触れて主を讃えた。
坂道を上って木柵の門をくぐると、特使は教会へ向かった。ちょうど外に出ていたユウェインが気付き、両手を銀環に添えて丁寧に一礼する。
その様子に、カスヴァは眉を寄せた。なぜか普段のユウェインらしくない印象を受けたのだ。妙に頼りないというか、精彩を欠くというか。はてと訝ったものの、彼はじき納得した。
(まあ、さすがに特使を相手にしたら緊張もするか)
村ではただ一人の司祭であるが、教会という組織で見れば、うじゃうじゃいる下っ端にすぎないのだ。選り抜きの精鋭たる特使を前に、のびのびとは振る舞えまい。――ちょうど、まさにこれから己と父がこの徴税吏と相対するように。
カスヴァはため息をつきたくなるのを堪え、下男をつかまえてハヴェルのもとへ知らせにやると、役人を館へ招き入れた。
ほどなく、チェルニュクのあるじ親子と徴税吏は、執務室で机を挟んで対峙した。机上には羊皮紙の巻物や帳簿が用意されている。
分厚い財務記録には、住民から折々に納められる共有地や水車の使用料といった細々した収入から、村全体の家畜の売買記録、橋や木柵など土木工事に要した費用など、すべてが記されている。住民名簿は人頭税のため。
農作物の出来高帳簿には、穀物から豆、果樹にいたるまで漏らさず記録されている。これは税の算出に使うだけが目的ではなく、農地経営の改良を考える上で重要な資料であるため、一番ごまかしを疑いにくい。徴税吏はまずそれを開いた。
「ふむ……道中、麦畑を眺めてきたが、嵐に倒されたでも雹に降られたでもない様子。にもかかわらずこの麦の収穫量、見積もりが少なすぎるのではござらんかな」
「麦角ですよ。そこかしこで黒くなっておるので、見付け次第取り除いております。せっかく春先の嵐を免れたのに、かなり廃棄せねばならん様子でしてな」
ハヴェルが渋面で答える。カスヴァは平静な顔を保ちつつ、内心やや混乱していた。確かに麦角は今年も一部で見つかっている。発生しない年のほうが珍しいぐらいだが、父が言うほど被害は多くない。値切り交渉は恒例であるものの、父がこんな嘘を平然とつくのは初めてだ。
徴税吏は疑わしげに眉を上げた。
「しかしまぁ、多少まじっておってもパンなり粥なりにして食べられるだろう。捨てるにしても飢えぬ程度にとどめておけばよい」
彼としては揺さぶりをかけたつもりだったのだろうが、ハヴェルはあり得ないほど深刻に受け止めた様子で、目を剥いて驚いた。
「何をおっしゃる、学識豊かなノヴァルクの役人とも思われぬお言葉! あれは悪魔の爪だから決して口にしてはならぬ、とうちの司祭が禁じたのですぞ。けちな節約をしようとまともな麦にまぜたりすれば、悪魔の声を聞くことになり、狂って外道に堕ちると」
声音が恐ろしげな気配を帯びた。徴税吏が怯んだところへ、ハヴェルは低く不吉な唸りで追い打ちをかけた。
「この村が呑まれでもしたら、ノヴァルクも城壁があるからとのんきに構えてはおれますまい。なにせ歩いて一日しか離れておらん」
「めったなことを申されるな!」
徴税吏が青ざめて叫び、急いで天を仰ぎ主に加護を乞う。ハヴェルはまったく動じず、重々しくうなずいた。
「であればこそ、我らもそうならぬよう身を守っておるのです。麦が足りぬなら悪魔の爪を食え、などと無体を仰せにならんでいただきたいものですな」
「む……、い、今のはほんの、言葉の綾だ」
咳払いして強引に体面を取り繕うと、徴税吏は帳簿の続きをめくった。
その後も駆け引きは続いたが、最初にハヴェルが奪い取った優位は変わらなかった。おおよそ検分が済んで徴税吏が客室に引き取ると、カスヴァは用心深く父にささやいた。
「思い切った手に出られましたね」
「うん? ああ、麦角の件か。嘘ではないぞ、実際に被害は出ておるのだからな。ちょっとした『交渉術』だ」
ハヴェルはにやりとし、秘密の合言葉のようにその単語を口にした。まるきり先日のユウェインのようで、カスヴァはぎくりとする。案の定、父は肩を竦めて黒幕をばらした。
「折良くユウェインが助言をくれたのでな。使わせてもらった」
「徴税吏に対して嘘をつけ、と勧めたのですか。よりによって司祭が?」
「嘘ではないと言うておろう。おまえもこのぐらいの駆け引きができるようにならんと、村を守れんぞ。強欲なノヴァルクの連中に好き放題むしり取られるわ。貴重な働き手を戦に駆り出し、あまつさえ死なせて、その上まだ金を寄越せとは!」
どんどん語気が荒くなり、しまいには露骨に憎悪と蔑みの表情になって舌打ちする。
「奴らが何をしてくれた。こことノヴァルクを結ぶ道も荒れ放題、森が迫るに任せて伐採もしない。橋の補修もこちらにばかり負担をおしつけ、そのくせ市場に店を出そうとすれば法外な金を取る。まわりの村が皆、あそこの市に頼るしかないと知っていて、まるきり山賊ではないか! 馬鹿馬鹿しい、いつまでも奴隷奉公に耐えておれるか」
吐き捨てるように罵ったその顔は、かつて見た覚えのないものだった。カスヴァは衝撃に打たれ、感情の麻痺した目でまじまじと己が父を見つめた。
「……なんだ、何か言いたそうだな」
「いえ、仰る通りです」
睨まれたカスヴァは、さっと顔を伏せて退避した。そうして、なぜ衝撃だったのかを理解する。
(――醜い)
領主にして父たる男に対して、一度たりとも抱いたことのない感情だった。
むろんハヴェルとて理想的な人物ではない。幼心に恐れを抱き、思春期には嫌悪と反発もおぼえた。自身が子を得て父親たることの現実を知り、いくらか対等になったような納得と共に敬意を取り戻して。
歳月に沿った変遷はあれど、醜いと忌み蔑んだことはない――なかった。
自分の感情にうろたえたまま、カスヴァはそわそわと言った。
「特使殿が教会にいます。ユウェインの適性を案じていらしたので、弁護に行くべきかと思うのですが」
「よかろう、行ってやれ」
返事を聞くや否や、彼はほとんど走るような大股で部屋を後にした。その勢いで外に出ると、教会には一瞥もくれず井戸へ向かい、顔を洗う。
(父上の言い分は正しい)
てのひらで顔の水をしつこく拭う。最前の感情もこそぎ落とそうとばかりに。
(だがザヤツ様は、少なくともヴェセリのために弔慰金をくださった)
その事実を持ち出していたら、さぞかし不快な成り行きになったろう。はした金をありがたがって這いつくばるのか、誇りはどこへやった、と怒鳴る父が目に浮かぶ。彼は頭を振った。
(ああ、俺だって同じ思いはあるとも。ノヴァルクに首根っこを押さえられているのでなければ、と。チェルニュクを守るために駆け引きが必要なのもわかっている。わかっているが、しかし)
この感情は何なのだ。なぜこんなにも納得がいかない。
(ユウェインの奴、どう言って父上を唆したんだ)
八つ当たり気味に腹を立てながら、カスヴァは教会へ向かった。




