3-2 礼拝
七日に一度の礼拝は、早朝から始まる。
村人たちは起床後、朝食をとらずに教会へ集まる。その頃にはちょうど朝陽が祭壇奥に射し込むようになっており、壁に飾られた主のしるしである円環と、その中に納められた聖御子の像が、光を受けて神々しく輝いていた。
司祭は祭壇の手前、会衆と同じ側に立って主と聖御子に向かい合うと、まず深く頭を下げる。背を伸ばし、祭壇の小さな手揺鈴を取って一振り。
リーン……
澄んだ音が響くと、礼拝堂の空気が厳かな静寂に塗り替えられる。
「妙なるかな、主の御光の地に満ちて、我らの歩みを照らしたまわん」
司祭が聖句を朗詠し、会衆が繰り返す。チェルニュクに教会ができたその日から百年以上にわたって続いてきた、決まりきった祭式だが、こんなにも若く張りのある声が司るのは今代が初めてかもしれない。心なしか会衆の声も明るい。
カスヴァも皆と一緒に、幼少時から刷り込まれた聖句を朗誦した。続いて短い賛美歌。むろん伴奏などはなく、村人らはちょくちょく音程を外すし、拍子もずれる。だが、それなりにまとまってさえいれば良いのだ。要は心がけである。
礼拝に必須の内容はそれだけだった。忙しい農民の時間を長くは取れないし、込み入った儀式だと覚えきれない。きわめて簡素に、単純に。
しかしその短時間でも、ユウェインは実に立派な司祭ぶりを見せてくれた。いつもと違って、背中に美しい刺繍が施された祭服を纏い、普段の話し方とは明らかに異なる発声で会衆の心に聖句を響かせる。
賛美歌が終わると、司祭は祭壇の横手に退いてから、会衆に向き合った。
ここからは、町や村ごとに内容が変わる。大抵はその一週間に起きたできごとをおさらいし、結婚や出産は改めて祝い、死者を悼み、怪我人や病人がいれば快癒を祈る。その上で司祭が、必要と思われる説教をするのである。
今日の話題はもちろん、カスヴァの帰還とヴェセリの死だ。
「皆さん」
ユウェインが慈しみを込めて語りかける。賛美歌の余韻を残す礼拝堂に、その声は薔薇の香りのように広がった。
「既に知れ渡っていますが、今日は改めて、チェハーク家の若君、カスヴァの帰りを主に感謝しましょう。そして立派に役目を果たしたヴェセリの魂が天に迎えられ、安らいでいるように祈りましょう」
言って自ら手を合わせ頭を垂れる。会衆もそれにならったが、カスヴァの動作はぎこちなくなった。うつむいて目を瞑り、『彼らのことは放って』おいて、己ひとりの心で神に向き合う。
(生きて帰らせていただき、感謝します。私は罪を犯しましたが、その裁きは主の御心にお任せします。どうかヴェセリの魂を赦し、楽園には入れぬまでも、地獄に落ちぬようお救いください)
《聖き道》を歩んだ者だけが入れる楽園には、ヴェセリも、恐らく自分も、迎えられまい。だがせめて霊界に留まれるように……灰色の無味乾燥な荒野に虚しく漂うだけで赦されるように願う。それならば、供養して魂を安らがせてやれるから。
若く愚かなヴェセリ。生きて償いをする機会を奪われた憐れな少年に、永劫の責め苦はあまりに重い。
黙祷が済むと、ユウェインが顔を上げ、小さく咳払いして空気を変えた。
「さて、そろそろ皆さんも、私の司宰に慣れてくださった頃かと思います。この辺りで一度、世界のありようと聖御子の教えについて、おさらいしておきましょう。既に聞き飽きたという方も今一度、日々の暮らしや人生を振り返り、歩んできた道が《聖き道》に沿っているかどうか、思い巡らせてください」
なるほど、そう来たか。カスヴァはにやりとしそうになってぐっと堪えた。モーウェンナに司祭らしいところを見せてやる、と意気込んでいたが、基本中の基本を押さえれば確かに文句なしに「らしい」だろう。
ユウェインは微笑を湛え、柔らかな口調で続けた。
「遙かな昔、世界はこの円環のごとく完全で、わずかな欠けもありませんでした。自然は穏やかで豊かな恵みをもたらし、国々は富み栄え、人々は満ち足りていました。そこに小さなひびを入れたのが、一握りの人間の傲慢でした。神の慈悲により授けられたこの世界に満足せず、自分たちの手で世界を造り変え、神よりも上手く扱って見せる、と思い上がったのです。その結果は……皆さんもご承知の通り。円環が断裂し、世界は嵐の海のごとく泡立ち乱れ、本来地上に現れるはずがなかった魔のものらが溢れ出したのです。
聖御子は傲慢な人々を諫め、そのような取り組みに加わってはならぬと人々に説きました。自らもその信念を貫いて、罪人らが生み出した世界のひび割れを、御身をもって塞がれたのです」
そこで彼は聖御子の像に向けて合掌し、感謝と畏敬を表した。改めて会衆に向き合い、力を込めて語りかける。
「しかし、聖御子の犠牲をもってしても、世界は元通りにはなりませんでした。まったき世界において人は皆、死したのち肉は地に還り、魂は天の楽園に安らぎ、そしてふたたび喜びの地上に生まれて出でる円環をなしていましたが、環が途切れた今、それは叶いません。いつか円環が修復された時のため、善き魂は楽園に留まり、そうでなければ薄暗い霊界を漂い続けます。罪を犯し悔い改めなければ地獄の業火に焼かれ、たとえ主の栄光により世界が取り戻されても、責め苦を逃れて円環に戻ることはできません。ですから、私たちは決して傲慢の罪に堕ちぬよう、聖御子の歩みを忠実に辿らねばならないのです。偽ってはならない。盗んではならない。驕り高ぶり、手に余るものを欲してはならない」
不思議なことに、それは戒めというより励ましとして心に響いた。そこでカスヴァはやっと、いかにユルゲンの厳格さが村を縛っていたかに気付いた。本来の教えとは、《聖き道》を歩むよう促し励ますものであって、それ以外の所に爪先すらはみ出してはならぬ、とがんじがらめにするものではなかったはずだ。
ユウェインは違う。この村で生まれ育ったからか、聖都で進取の気風に触れたからか。
(これならモーウェンナも安心するだろう)
期待を込めて、隣の妻を横目で窺い見る。だが彼女は感銘を受けた様子もなく、生真面目な硬い表情を崩さないまま司祭を凝視していた。
「過ちを恐れ立ち竦むことはありません」温かい声が続ける。「世界がひび割れた後も、主は私たちから理性と意志を取り上げず、自ら歩むことをお許しくださいました。目を開き、多くを知り、真実を見極めるのです。怯え縮こまり、悪魔や外道のなすがままにされるのではなく、しっかりと地を踏みしめて立ちましょう。もし私たちの心が弱く、《聖き道》に背いてしまったとしても、必ず立ち返る機会は与えられます」
頼もしく約束され、カスヴァは胸を打たれた。ああ、これは自分に向けられた言葉だ。未明の会話の続き、自分を赦せという諭しを、もう一度告げてくれているのに違いない。確信すると共に感謝の念が込み上げ、瞼が熱くなる。彼は頭を垂れた。
「主は常に手を差し伸べてくださいます。私たちが自ら振り払うのでないかぎり、救いは必ず、そこにあるのです。主の慈愛を讃え感謝しましょう」
御心のなされますように、と司祭が締めくくり、会衆も同じ語句を復唱する。一呼吸置いてざわつきが生じ、村人らは空腹を思い出して立ち上がった。
帰る前に一人一人、司祭の前に並んで祝福を授けてもらう。いつものように、領主ハヴェルから始まってカスヴァ、モーウェンナ、オドヴァ……と。ユウェインは誰ひとりおろそかにせず、左手で銀環をかざし、右手で聖印を切る。繰り返し、繰り返し。
カスヴァは祝福を授かった後も帰らず、隅の方に控えて友人の司祭ぶりを眺めていた。モーウェンナも一緒だ。二人に遠慮してか、告解したいと申し出る村人もおらず、じきに礼拝堂はがらんとなった。
「いい説教だったな、ユウェイン」
カスヴァがまず褒めると、途端に司祭は目尻を下げ、ありがとう、と含羞の笑みを見せた。幼い頃の面影が残る表情。気持ちまで昔に返ったか、彼は瞬きしてご褒美を期待するようにモーウェンナを見る。与えられたのは、曖昧な微苦笑だった。
「何度も聞いてよく知っている話でも、語り手が変わると新鮮なものね。なんだか……初めて聞くみたいな気がしたわ」
褒め言葉、と言うにはいささか困惑の色が濃い。ユウェインが笑みを消し、カスヴァも軽い緊張に身じろぎする。モーウェンナは急いで言い繕った。
「あっ、違うのよ。不満だと言うのじゃなくて、やっぱりまだ慣れないわね、って。それだけよ。ユルゲン様と比べちゃいけないのはわかってるわ。良かったわよ」
わざとらしくはあったが、明るい声音のおかげで緊張が解ける。ユウェインは礼拝堂を見回して、誰も残っていないとよく確かめてから、そっとささやいた。
「戸惑うのも当然だろうね。君は物心ついた頃からずっと、ユルゲン様や村の皆に、見るな、しゃべるな、って強い禁止令を刷り込まれてきたんだから。僕がさっき言った、目を開いて多くを知れ、なんて言葉はまったく逆で……困らせてしまうだろうな」
静かな言葉に、モーウェンナのみならずカスヴァもまた、はっとなった。思い違いに気付いて頬が熱くなり、悟られぬよう顔を背ける。
(ちょっと考えたらわかるだろう、こいつはモーウェンナに司祭らしいところを見せると言っていたんだから、意識して語りかけるとしたら俺じゃない、彼女だ。決まっている)
礼拝の雰囲気とあの力強い声に包まれて、てっきり自分に語りかけられているのだ、と思い込んでしまった。この司祭は己を気にかけてくれている、と。
(子供か、俺は)
カスヴァが羞恥を堪えているのをよそに、ユウェインは改まった口調になって続けた。
「モーウェンナ。私は、君の苦しみは解消できるものだと考えている。君が目にする白い靄、あるいは死者の影は、地上と冥界の狭間に在るものだ」
「やめて!」
モーウェンナはぎょっとなって後ずさる。その顔は一瞬で蒼白になっていた。ユウェインはいったん口をつぐみ、哀しげに眉を曇らせる。
「可哀想に。そんなに怖がっているのに、それでもまだ、触れてはならない、ただ耐え忍ぶしかない、と思い込んでいるんだね」
「待て、ユウェイン」
さすがにカスヴァは見過ごせず、割り込んだ。ちらりと向けられた司祭の目に、君もかい、と言いたげな色を見て取り、しかめっ面をする。
「本人が怯えているのに、無理に聞かせるな。そもそも……そういうのは、禁忌じゃないのか。外道を退ける方法が門外不出なら、冥界のものについて語るのも同じだろう」
「ご賢察の通り、本来は司祭たる者だけが知るべきとされている事柄だよ。でも、現に見えている人に隠し立てしても無意味だろう。核心に触れなくても、ああそうだったのか、と納得するぐらいの説明はできるよ。望むなら、死者の影を祓う方法だって教えられる。何がどうしてそうなのかを伝えなくても、安心して暮らせる程度の対処はすべきだ」
ユウェインの瞳が次第に熱を帯びる。いまやはっきりと、彼は怒っていた。
「馬鹿げた規則のせいで、女はどう頑張っても司祭になれない。それなら、埋め合わせはするべきだろう! いつこの世ならぬものを見るかとびくびくしながら、縮こまって一生を過ごす必要はないんだ」
声高にならないぎりぎりのところで抑え、彼はそこまで言い切ると、ゆっくり深く息をついた。当のモーウェンナも、カスヴァも、返す言葉が見付からない。
「……ああ、駄目だなぁ。ちょっと頭に来た。ごめんよモー、怖がらせるつもりじゃなかったんだ」
ユウェインは肩を落として両手で顔をこすった。手を離した時にはもう、普段の柔和な表情に戻っていた。
「本当にごめん。うん、無理にどうしろとは言わないよ。でも、心に留めておいて欲しいんだ。僕はいつでも君の助けになる。君がもっと明るく笑って、余計な心配をせずに暮らせるようにしたいんだ」
「ご親切に。わたしはそんなに哀れかしら、司祭様?」
モーウェンナが表情をこわばらせ、辛辣に言う。ユウェインは天を仰いで祈りの文句をつぶやいてから、すっかり萎れてぼそぼそ答えた。説教の時とはまるで別人だ。
「侮辱じゃなくて……参ったなぁ。僕はさ、八年ぶりに懐かしい君たちに会えるのを、本当に楽しみにしていたんだよ。土砂降りにやられて身も心もどん底に惨めなざまになったけど、ここまで帰り着いたら君たち二人が出迎えてくれる、きっとすごくびっくりして、それから大喜びしてくれるはずだ、って。なのにカスヴァはいないし、モーにはあんなに怯えられて。しかも何日経っても警戒されたままだし。さすがに堪えるよ」
それこそあまりに哀れっぽいもので、カスヴァは我慢できずふきだしてしまった。モーウェンナも身に纏う薄氷を溶かし、春風のように微笑む。
「あなたに泣かれると勝てないわね。昔からいつもそう」
「泣いてないだろ、そりゃ泣きたい気分だけどさ。なんだい、ほんのちょっと年上なだけで二人して」
ユウェインがわざとらしく袖で目元を拭う。カスヴァは意地悪く大仰にお手上げの仕草をしてやった。
「せっかく張り切って司祭らしいところを見せたのに、これじゃあな」
「うるさいよ。司祭だって人間なんだから、怒るし拗ねるし落ち込みもするさ。ちぇっ」
そこでとうとうモーウェンナが声を立てて笑った。朗らかな響きに空気が軽くなり、ユウェインもいじけた顔をやめて唇をほころばせる。
「手段はともかく、結果としては君を笑わせることに成功したから、良しとするかな」
「あら失礼、ごめんなさい。……ありがとう、ユウェイン。あなたの説く新しい考えや方針は、ちょっと受け入れられないけれど……あなたの優しさには感謝するわ」
「うん。今はそれでいいよ。気が向いたら、さっきの話を考えてみて」
互いに譲歩し、相手の領分を尊重しつつ握手で和解する。また朝食の席で、と言い置いて、若夫婦は教会を後にした。
外には優しい風が吹き渡り、世のいっさいを祝福するように太陽が照り輝いていた。




