3-1 赦しと諭し
三章
まただ。またこの夢。
わかっているのに目覚められず、うんざりするほど繰り返したはずなのに、心臓が暴れ息が詰まる。
「……さまぁ」
ヴェセリ。ほんの十六歳ほどの若者、いや、子供だったのに。
夢の中でぎゅっと目を瞑る。何が、恥じるところのない最期、だ。
霧の向こうから獣の息遣いが聞こえた。固い爪が地面をひっかく音。カスヴァは剣を抜き、構えた。いっそ何もせずにいれば獣に喰われて悪夢も終わるのでは、と捨て鉢な試みをしたこともある。だが何度やっても、いつの間にか彼は剣をふるっていた。
今回も同じ。襲撃の瞬間は飛ばされ、刃と牙がガチンと噛み合って我に返ると、辺りはもう外道に囲まれている。
村を焼いて狂乱の宴に酔っていた一行は、堕した狼の群れが迫っているのにまるで気付いていなかった。
外道のせいにして虐殺し略奪した愚か者に対する天罰なのか、それとも、嘘を真にして欺瞞の罪から救ってやろうという悪魔の親切心なのか。
外道の接近を察知したのは、カスヴァを含むごくわずかの者と、司祭だけだった。司祭がうろたえ、耳慣れない言葉を叫んだが、求めた主の御わざが何であれ発現には至らなかった。暗闇から飛び出した狼が三頭、真っ先に司祭の喉笛を狙い、引きずり倒した。
カスヴァのほうにも一頭、突進してきた。普通の狼のように出方を窺ったりはせず、吼え猛って。
黒い影をまとった外道はやたら巨大に見えた。どうやって逃れたのか覚えていない。顔の間近に迫った牙が鳴り、熊と紛うほど太い前肢でこめかみを殴られた――と思ったが、寸前で避けたのだろう。一瞬の後、彼は泥の上に転がっており、外道は別の獲物に鼻をひくつかせていた。
仰向けに倒れた無防備な状態から、反射的に転がって伏せる。頭上を四つ足の跳躍が越えてゆく。着地の音が、あり得ないほど深く腹に響いた。狼は面倒な相手を放置し、楽な標的へと疾走する。
「ヴェセリ!」
顔だけ上げて絶叫する。名を呼んだところで、逃げ場もなければ助ける術もないのに。
あかあかと燃える火を背に、若者の影があっけなく突き倒される。ついさっきまで、この世のすべてを手にしたかのような高笑いを放っていた口から、哀れで無惨な悲鳴がほとばしった。
「若様! わか、さまっ、助けて! たすけ……」
ぶちり。ぎちぎち、ぶつん。遠くで絶叫が、耳元で肉を噛み切る音が。
カスヴァは立ち上がれず、うちひしがれ無力に這いつくばっていた。
(やめてくれ、もう見せるな)
頼むから――
かっ、と目を開いた。
涙が溢れてこめかみを伝い、耳のそばを不快に濡らしている。いつから息を止めていたのだろうか。重石が載ったような胸を意識して動かすと、砕けそうに痛んだ。のろのろと身を起こし、カスヴァは疲れた気分で妻の様子を窺った。静かだ。あまりにも。
「……起こしたか?」
そっとささやくと、案の定、すんなりした手が伸ばされて涙を拭いた。
「眠れないのね」
「君まで巻き添えにしてしまうな。寝室を分けるか」
「馬鹿言わないで」
モーウェンナは即座に却下したが、声が眠そうなのは隠せない。カスヴァは暗がりの中を手探りし、いつもの場所から服を取って身に着けた。
「歩いてくる。寝直してくれ」
声音から、夫がどこに行くつもりかを察したのだろう。妻は引き留めなかった。
館を出ると、空はまだ深い藍色だった。夜明けには遠いが、それでも物の形はしっかり見える程度に明るい。彼は蒼い世界に佇む小さな教会を見やった。ユウェインの声が脳裏によみがえる。仕方ないと思わず教会に来て欲しい、と。
帰郷してから五夜、まだ一度もまともに眠れていない。帰りの旅の日数も加えたらもうとっくに、意固地に大丈夫だと言い張れる期間は過ぎているだろう。
(行ってどうなるとも思えないがな……)
あの司祭の欺瞞。外道を招いた油断、あっけない死にざま。ああまったく、あんな連中に人が救えるものか。
(だがユウェインは友人だ)
ただの司祭じゃない。カスヴァは意を決し、教会の扉をくぐった。
予想外にも、礼拝堂には明かりが灯っていた。祭壇に置かれた三枝の燭台に蝋燭の炎が揺れ、司祭の後ろ姿を照らしている。驚いた様子もなくユウェインは振り返り、ごく自然に微笑んだ。
「もう起きていたのか」
カスヴァは怯んだ声を漏らし、まだ無意識に逃げ腰でいたことを自覚した。天に見透かされたようで、彼はその場に立ち尽くして顔を伏せる。
「今朝は礼拝があるからね。準備をしていたんだ」
ユウェインは穏やかに答え、カスヴァのそばへゆっくり歩み寄ってきた。
「主の御光が汝の足元を照らしたもうように」
ささやきながら聖印を切り、祝福する。それだけすると、彼はおどけた面持ちになって言った。
「で、どうする? 司祭に告解したいかい、それとも友人と一緒に自棄酒?」
「礼拝があるのに司祭が酔っぱらったらまずいだろう、馬鹿」
軽い口調に救われて、カスヴァも苦笑を返す。それから、会衆席と呼ぶのもはばかられる簡素な木のベンチに腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。ユウェインも別の列に座り、微妙に位置をずらして向かい合う。真正面からではあまりに真剣な話し合いになってしまうから、逃げ場をつくり、それでいてちゃんと聞いているよと示すように。
カスヴァは幼馴染みの心遣いに安堵し、なおしばらく沈黙を保った。何から話せばいいのかよくわからなかったし、こうして座っているだけで、そもそも話す必要などない気がしてくる。
ややあって彼は口をつくままに問いかけた。
「おまえがノエミに言った、まず自分を赦せ、とはどういう意味なんだ?」
なぜそんなことを訊こうと思ったのか。不透明な胸中をおぼつかなく手探りしながら、言葉を拾い上げてゆく。
「自分で自分を赦すなんて、おこがましいにもほどがあるだろう。そんな好き勝手が許されるなら、司祭が神にとりなす意味がない。どんな罪も邪悪も赦されてしまう」
偽りも、殺戮も略奪も。強欲ゆえのすべての悪行が赦免されるだなんて。
カスヴァが黙ると、ユウェインは充分に続きを待ってから、おもむろに口を開いた。
「もちろん、本当に罪を赦し得るのは主おひとりだ。だからこそ、人が勝手に自分自身を裁いて罰するのは、それこそおこがましいのじゃないかい。ああ、人の定めに基づく刑罰は別の話として、ね。そうではなくて……僕は、私は、罪深い。道を外れた。だからもう駄目なんだ、そう思い決めて主の恵みを拒むようになっては、自らの魂を損なうばかりでなく、まわりの人間まで不幸にしてしまう。だから、罪を自覚したならまず、自分を赦してやりなさい、と言うのさ。そうしなければ他人も赦せないし受け入れられない。偏狭で頑迷な『正しさ』は、誰も幸せにしやしないんだよ」
優しく抱擁するような語り口は、聞く者をただ素直にうなずかせる力があった。カスヴァはなんとなく納得しそうになり、強いて疑念を搔き立てる。
「ならば、俺は」
言いかけて、火傷したように竦んだ。感情のまま口走りかけた言葉を胸に引き戻し、吟味する。
俺は、俺を赦すべきなのか。あれほどの暴虐を看過し、村の若者を無駄死にさせた、どうしようもなく無力で愚かな卑怯者を。
そうすれば他人を赦し受け入れられる? ひどい偽りで大勢の兵を悪行に導き、地獄送りにしたあの司祭を、ノヴァルクのザヤツを、諸悪の根源たる二国の王を?
「赦していいはずがないだろう……っ!」
血を吐くような声が届いたのか、燭台の炎がまるで生き物のように身じろぎした。握り締めた両拳の内側で、爪が掌に深く食い込む。
ユウェインは友の激情を見守り、そっと言った。
「カスヴァ。君は己の罪を悔いる一方で、その罪を犯させた人々を憎み恨んでいるね」
司祭の口調で放たれた指摘に、カスヴァは恐れと反発を同時に抱いた。だがそんな負の感情をも慈しむように、ユウェインが手を伸ばし、彼の膝で震える拳を柔らかく包む。
「その怒りは正当なものだよ。けれど、彼らをいかに憎み罵ろうと、君には彼らを裁く力はない。罰や赦しを与える神の権能がないのはもちろん、地上の権力においても、まったく手出しできない。君がどれほど苦しもうと、彼らはなんら痛痒を感じないし、悔い改めもしないだろう。だから、君は君を赦すべきだ。彼らのことは放っておけ」
胸中の悔しさを明瞭な言葉にされ、カスヴァの目に涙が溢れた。怒りと無念を閉じ込めた、熱い涙が。
「おまえは……知っているのか。教会が各地の紛争で何をしているのか」
「ありがたいことに、直接自分の手を染めるほどには出世しなかったから、観察と伝聞に基づく判断だけどね。だから嫌気が差して帰郷を願い出たのさ。図抜けて優秀なわけでもないから、聖都に残って刻苦勉励しても大して重要な役職には就けないし、向こうも僕ぐらいの司祭なんて惜しくない。おかげですんなり、希望が通ったよ」
ユウェインは鼻を鳴らし、カスヴァの拳を包む手に力を込めた。
「君は罪を犯したのかもしれない。でも罰するか赦すかを決めるのは主ただおひとりだ。君に罪の毒杯を呷らせた連中のせいで既に胸を焼かれているのに、なおさらに憎しみで脳髄まで焦がさないでくれ。君はもう充分苦しんだ。あとは主にお任せするんだ。彼らはいずれその口が吐く毒に溺れ、自ら放った火に焼かれるだろう」
「ずいぶん過激だな。司祭の立場を忘れているんじゃないか」
カスヴァは強いて苦笑いをつくった。友人の言葉はあまりにも己の心中を代弁しすぎていて、そのまま認めると何か外してはならない掛け金を外すような気がしたのだ。
ユウェインはばつが悪くなった様子で手を離し、ふいと視線をそらしてぼやいた。
「大事な友達が苦しめられているんだ、司祭だって一個人として怒るさ。……僕は君のために帰ってきたんだよ、カスヴァ。君と、モーと。大事な二人のために」
感情が昂ったのか、声が湿ってかすれた。幼馴染みの真心を、カスヴァはやや照れくさいながらも「ありがとう」と素直に受け取る。誠実な友情がいかに得難く救いになるものか、つくづく身に染みた。
「おまえに話して良かった。自分を赦せるとはまだ思えないが……まぁ、そのうち答えが見つかるだろう」
少なくとも、自分が何に対してどう憤り苦しんでいたのか、はっきりと言葉にされることで得心がいった。正体がわかったのなら、いずれ対処もできるだろう。
カスヴァは伸びをして、ふっと息をついた。
「邪魔したな、館に帰るよ。今夜からはまともに眠れそうだ。モーウェンナも安心するだろう」
「毎晩うなされてたんだね」
「それもあるが、おまえのことでな」
「僕?」
「ああ。おまえがあんまりユルゲン様と違うから、本当に司祭なのか心配しているようだった」
カスヴァは冗談めかしてにやりとした。いくらなんでも、魔道に堕ちたかと案じられているなどとは言えない。ユウェインが「ひどいなぁ」と眉を下げて萎れたので、カスヴァは肩を竦めて補足した。
「比べてやるな、と言っておいたよ。泣き虫ユウェインが格好つけられるわけないだろう、って」
「うわ、それ言っちゃったのか。参ったな、尊敬に値する立派な司祭になった、ってモーに見直されたいのに」
あーあ、とユウェインは大袈裟に落胆する。カスヴァは悪気なく笑い、念を押すように問うた。
「おまえがあれこれ気軽に教えているのは、教会でも問題ないとされている事柄なんだろう?」
禁忌である外道への対処法などは、いかに『大事な友達』が食い下がっても頑として教えなかったのだから、そうした判断はきっちりしているはずだ。
やはりユウェインは、真顔になってうなずいた。
「もちろんだよ。ユルゲン様の頃に比べて大幅に知識が刷新されているからね、僕はそれを伝えているだけだ。ユルゲン様も、教会特使が届ける年報は読んでいらしたはずだけどね……まぁ何しろお年だったから」
言葉尻で渋面になる。聖都から各教会に届けられる年報は、聖職者の重要人事のほか、新知識の発見あるいは禁忌の指定、各地で見付かった魔道士の報告などが記されている。もっとも、田舎村で一番求められているのは、祭事や農事が書き込まれた暦だが。
一呼吸の後、ユウェインは気を取り直して張り切った声を出した。
「よし、若奥様にご満足いただけるよう、今日の礼拝は申し分なく執り行って見せようじゃないか。だから君も居眠りしないでくれよ」
「わかった、ちゃんと起きて見届ける。完全に目が覚めるまで顔を洗ってこよう」
カスヴァは畏まって宣誓のしるしに右手を挙げ、それじゃあ、と扉に向かった。数歩行ったところで、ユウェインが小さくつぶやくのが聞こえた。
「そうか、モーウェンナがね……」
明確に聞き取れず、ただ含みのある声音だと感じて、訝しみつつ振り返る。ユウェインはこちらを見ていなかった。天窓から降る弱い光を受けて、物思わしげに微笑んでいる。陰影の加減か、若い司祭の横顔はやけに美しく整って見え、かつてはまったくなかった大人の色香とでも言うべき気配を、仄かながらも鮮やかに帯びていた。
カスヴァは不意を突かれてどきりとし、すぐ背を向けて急ぎ足に外へ出た。正体のわからぬ奇妙な危うさを警戒したのだ。あれは、見てはならない、知ってはならない、感じてはならないものだ、と。
明るくなった空を仰いで、ふう、と大きく息をつく。おかしな感覚に捉われたものだ。彼は頭を振って井戸へと歩いていった。




