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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第二部 霧の中を彷徨うとも
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2-4 妻の疑い

 二人はくつろいだ気分で村を見て回り、最後に北西の外れの猟師小屋を訪れた。ノエミの父母と兄が暮らし、聖域の番人を務めているのだ。

 男たちは不在だったが、女房は二人を歓迎し、森の様子は変わりないと教えてくれた。


「主のご加護で悪いもんは寄ってきませんし、この春は野苺もたくさん採れて。またジャムを作って届けますから、楽しみになさっとってください」


 素朴な善意に送り出され、カスヴァとユウェインは森の中へ小道を辿っていった。

 木立の間に入ってから、ユウェインはずっと聖句を唱えている。左手で銀環を握り、右手で時々木の幹に聖印を描きながら。

 カスヴァも無意識に、剣の柄に手を置いていた。と言っても魔の気配がするというのではなく、習慣的なものだ。たとえ外道が潜んでいなくとも、森ではどんな危険に出くわすか知れない。


 梢を通して降り注ぐ陽光は、だいぶん傾いている。遠くで鳥の声や小さな生き物の立てる音が聞こえるほかは、静かなものだ。主の加護を願う聖句が光の中を漂い、木々の間を縫って流れゆく。

 友人の横顔をちらりと見て、カスヴァは安堵をおぼえた。

(素朴な信仰だけでは司祭はつとまらない、だとか言ったくせに)

 祈りに没頭している様子は、完全に敬虔な司祭そのものだ。単に神に縋るだけの一般人とは違う、教えを深く知り主の御力をもって魔のものらを退ける……そう、まさに戦士。


(何にしても、こいつが戻ってくれて良かった)

 ユルゲンが衰えてからは、森の境がじわじわ村を蚕食してくるように感じられたものだが、今はそんな不安はない。まともな司祭がいるかいないかで大違いだ。


(もっと俺に力があれば)


 ぐっ、と剣の柄を握る。傲慢の罪すれすれと知りながら、願わずにはおれなかった。もっと教会が人々に力と知識を授けてくれたなら、ただ襲われるのを待っていなくとも済むのに。せめてもう少し、森を拓き村から遠ざけ、畑を広げられもするだろうに。そうして安全になれば、外道退治にかこつけた兵が暴虐をはたらくのも……


(こいつは知っているんだろうか。そんな口振りだったが、本当のところを聖都で見聞きしたのか)


 どこの国の軍隊も、司祭を伴わずには動けない。目的が何であれ行き先がどこであれ、魔を退け人の心を《聖き道》につなぎとめる司祭がいなくては、決して戦えない。その特別な立場を利用して、教会は各国の懐から富を吸い上げているのではないか。


(……やめよう。考えるな、もう終わったんだ。今はただ、この村を守ることだけに心を砕けばいい)


 世界にまたがるような話は、別の誰かの仕事だ。どのみち選択の余地などない。従わなければ、チェルニュクにとって命綱である流通を断たれ、村が滅びる。ノヴァルクの市に頼らずとも、塩や諸々の品物が手に入るなら、鬱々とこんな思案をせずとも良いのに……


 いつの間にか、すっかりうつむいていたらしい。カスヴァはユウェインにぶつかりそうになり、我に返った。立ち止まった司祭の肩越しに、森の奥から出て来る人影が見える。猟師の父子だ。各々腰に山刀を帯び、兎や鳥を手に提げている。


「おお、ユウェイン。それに若様も、ありがとうございます」

 カスヴァのことは昔から、坊ちゃん、若様、と呼んでそれなりに丁寧に接してきたが、ユウェインに対しては、司祭になったからとて急に態度を変えられないようだ。そんな環境について散々愚痴っていた当人は、しかし、まるで気にしていない風情でにこやかに返事をした。


「獲物に恵まれたようですね、ラデクさん」

「まぁ、ほどほどにな。それより、熊の母仔が一組、近くをうろついてるようだ。清めてくれるのはありがたいが、この辺までにしておいたほうがいいぞ」


 熊、と聞いてカスヴァの手がぴくりと痙攣した。人里を明確に目標として襲う熊はほとんどいないが、数年に一度は不幸な遭遇がある。何より、村の近くで熊が外道に堕ちたら大惨事だ。警戒したカスヴァの隣で、ユウェインも険しい面持ちになった。


「村に近寄ってきそうですか」

「今のところは安全だろう。だがこれからは注意して見廻らんとな」

 猟師は渋い顔で唸り、息子を促して家に戻っていった。それを黙って見送ったユウェインが、唐突に言う。

「君も帰りなよ、カスヴァ」

「は? おい待て、何を考えている」

「僕はもう少し奥まで入る。君はここまででいい」

 断固とした厳しい声音だった。カスヴァは承服できず、しかめっ面で抗議する。

「馬鹿か、おまえ一人で進んで何かあったらどうする。丸腰だろう」

「何もないよ、絶対に。……人がいると不都合なんだ」

 察してくれ、とばかりにユウェインは目を伏せた。カスヴァは腕組みして唸る。

「教会の秘密のわざ、か。どうしても、絶対に見られてはいけないのか。獣に襲われる危険を冒してでも」


 相手が魔のものだというなら納得もいくが、熊なのだ。走るのが苦手で腕力もない、この幼馴染みが、どうやって追い払えるというのか。熊のほうにしても、人間が一人だけなら侮るだろうが、二人いれば警戒して遠ざかるかもしれないのに。

 だがユウェインは譲らなかった。困り顔で微笑みながらも、帰ってくれ、ともう一度繰り返す。


「心配はありがたいけど、危険はないから。頼むよ」

「どうしてもか。おまえが何をするにしても、俺はそれを見て見ぬふりをする。ただの剣として近くにいる。それでも駄目か」


 食い下がられたユウェインは、一瞬、心揺れたようだった。まなざしにふっと霧がかかる。わずかな逡巡ののち、彼は吐息のようにささやいた。

「……いずれ、そのうちに。君には教えるかもしれない。でも今じゃない」

 なかば独白のようにそこまで言い、彼は曇りを払った。

「大丈夫、僕は安全だよ。熊だって、すぐそこまで来てるわけじゃないんだし。かすり傷ひとつ負わない、約束する。さあ、君は家族のもとへお帰り」


 声は力強く、もはや抵抗を許さなかった。カスヴァは奥歯を噛みしめ、怒りを込めて背を向ける。引き返すものか、呼び止めても遅いぞ、と腹を立てながら荒々しく落ち葉を蹴散らして大股に十歩。そこで不意に彼は、ぞくっとして竦んだ。

 墓地で察知したような、不穏な気配。だが今回は、背中に悪寒ではなく熱を感じた。反射的に身体ごと振り返る。だが、そこには誰もいなかった。




 館に帰って父に熊の一件を報告すると、カスヴァは妻の仕事部屋に向かった。村の女仕事――糸紡ぎから機織り、仕立てに刺繍、諸々――を差配するのは館の奥方のつとめであるから、あるじとは別に専用の執務室があるのだ。ハヴェルの連れ合いは早くに亡くなっており、今は若奥様たるモーウェンナが取り仕切っている。


 夫の姿を認めると、机に向かって難しい顔をしていた彼女は目元を和らげ、いそいそ歩み寄ってきた。

「お帰りなさい。だいぶん顔色が良くなったみたいね」

 ほっとした様子で夫の頬に手を添え、確かめるようにうなずく。カスヴァはその手を取って、指に口づけした。

「心配させたようで、すまない」

「いいのよ。気を揉むよりも、村を歩き回るほうが効くってわかったし」

 モーウェンナは屈託なく応じたが、そこでふと面を翳らせた。声の調子を沈ませ、そっと問いかける。

「……どうだった? あなたから見て、ユウェインに妙なところはなかったかしら」


「なんだって?」

 カスヴァは思わず聞き返した。質問の意図がわからない。彼女が心配していたのは、夫ではなく司祭なのか。

「俺があんまり気を尖らせているから、怯えていたんじゃないのか。どうしてユウェインなんだ」

 当惑するカスヴァに、モーウェンナは気心の知れた苦笑をこぼした。

「あなたがヤマアラシになるのは昔から時々あったもの、待っていればおさまるのはわかっていたわ。もちろん、無闇に刺激しないように気を遣いはしたけれど。でも……ユウェインは、ほら、八年以上離れていたし」


 口を濁し、顔を伏せて軽く唇を噛む。神経質に両手指の爪をこすり合わせて。その仕草がどれほどの不安を意味するか、付き合いの長いカスヴァはよく知っていた。ああ、と不甲斐なさに嘆息する。


「昨日は無理をしていたんだな。すぐに聞いてやれなくて、すまなかった」

「いいのよ。あんなに疲れ切って帰ってきたんだもの、一日ぐらいゆっくりしないと」


 モーウェンナは微笑んで首を振ったが、限界だというのは明らかだった。本当はもっと後にしたかったのだけど、とつぶやいた声には力がなく、表情がまた暗くなる。カスヴァは妻の顔を覗き込んだ。

「そんなに、あいつが帰ってきた時は恐ろしかったのか? 実は化け物じゃないかと今でも疑うぐらいに」


 モーウェンナはかつて、特異な感覚を訴える子供だった。死んだ村人の影、あるいは人の背にとりつく白いもやもやが見えるとか、夜中に外から声が聞こえるとか。

 大人たちは気味悪がって、不吉なことを口にするな、と彼女をたしなめた。司祭ユルゲンも、それらは《聖き道》を外れて世界の狭間をさまよう呪われたものどもだから、見ても聞いてもいけない、聖句を唱えて無視しろ、と諭した。

 そうして次第に彼女は、何も言わなくなった。だが、不思議な感覚がなくなったわけではないのだと、幼馴染みの二人だけは知っている。


「わたしだって、思い過ごしであって欲しいのよ。でも……忘れられないの。大雨の中、黒い影がやって来るさまを。とても人間には見えなかった。あの人が館の敷居をまたぐのを、命に代えても拒みたかったわ。あの恐ろしさはとても言い表せない」


 思い出しただけで寒気がする、とモーウェンナは我が身を抱いて震えた。ずっと誰にも話せず、耐えていたのだろう。カスヴァは妻を引き寄せて背をさすってやりながら、慎重に問うた。


「今でもそうなのか。あいつを見る度にぞっとする?」

「いいえ、今はそんなには。だから思い過ごしであって欲しいと……ただ、ね。ユウェインは司祭様……ユルゲン様と、違いすぎるから。婆様と親しくしたり、村の皆にも、なんて言うか……あんまり気安いのよ」


「ああ、そうみたいだな。ノエミが道端で告解を始めたもんだから驚いた。あれはないだろうと俺も思うよ」

 カスヴァはひとまず妻の言い分を認め、うなずいた。その上で、ちょうど道々話していたことを思い出しながら続ける。

「だが今はあいつみたいな考え方も、聖都では珍しくないらしい。それに第一、あいつがユルゲン様と同じようにできるわけがないだろう? 本人もぶつくさこぼしてたぞ。泣き虫の子供時代を知られているのにどうしろって言うんだ、とかなんとか」


 言葉尻で、おどけた笑みをちらりと浮かべる。つられてモーウェンナも、小さくふきだした。


「本当ね。それについては同情するわ。ええ……そうよね。そうなんだけど。でも、厳しくできないのはともかく、お義父様の眼の治療について婆様にも教えていたのが気になって。そんな顔しないで、カスヴァ。薬の話だけじゃないし、婆様にだけでもないのよ。ユウェインは聖都で学んだ知識を、あんまり誰にでも簡単に教えてしまうの。ユルゲン様は慎重だったでしょう」


「比べてやるなよ」

 カスヴァは首を振って諫めた。

「あいつなりに村のためを思ってのことだろう。ちょっと具合が悪い程度の時にいちいち教会まで来なくても、自分でどうすればいいのかわかっていれば、皆も助かる。聖都の方針も、ユルゲン様がいらっしゃった頃とは変わっているのかもしれない」


 第一、教会がいったい何を基準に『禁忌』を定めているのかすら一般人には明かされていないのだ。ユウェインが惜しげもなく産婆と弟子にあれこれ教えていたのも、もしかしたら教会で新たに認められた知識なのかもしれない。

(ここから先は駄目だ、と線を引けるのは、その向こうにあるものについてよく知っている者だけだ。俺たちは自分がその線に近いのか遠いのかさえ、推測もできやしない)

 胸に浮かびかけた不満をごまかすように、彼は妻の髪をそっと撫でた。


「聖域を清めている時のあいつは、紛れもなく本物の司祭の顔をしていたよ。上手く言えないが……敬虔で、ひたむきで。もし外道に堕ちたのなら聖句を唱えられるはずがない。心配ないさ」


 筋の通った説明でなだめても、モーウェンナの表情は晴れない。カスヴァもそれはわかっているから、彼女をぎゅっと抱擁して言い添えた。


「大丈夫だ、これからは俺がそばにいる。何か妙なものが見えたら教えてくれ、俺が倒してやるから。ユウェインがもし魔に憑かれているのなら剣で祓おう。あいつ自身が血迷ったのなら、ぶん殴って目を覚まさせてやる。だから大丈夫だ」

「ありがとう。愛してるわ」


 ようやっとモーウェンナは安堵の息をつき、肩から力を抜いて夫の背に手を回す。カスヴァは妻のつむじに口づけし、俺もだ、とささやいた。


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