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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第二部 霧の中を彷徨うとも
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2-3 自分を赦せ

 うらうらと照る太陽の下、緑の畑や牧草地の間の黒い道を辿る。手押し車の轍や牛馬の蹄で、でこぼこした道。


「聖都の中はね、ものすごく細い路地を除いて全部の道が、石や煉瓦で舗装されているんだよ。すごいだろ」

「へぇ、大層な手間だったろうな。だがそれだと、馬や驢馬なんかは歩きにくいんじゃないか? それとも、聖都には人間様以外は入れないのか」

「まさか。大都会だからね、商店の品物を運ぶ荷車なんかひっきりなしに通るよ」


 たわいない話をしながら歩いていくと、やがて辻に出た。西のノヴァルク、南のモルテュク、そして領主館、三方向に向かう道の分岐点。二人は南に折れた。ずっと先まで行くと小川を渡って池に出るが、産婆の家は橋よりも手前にあった。


 村の建物の大半と同じく、平屋のこぢんまりした造りだ。隣接する菜園に野良仕事の人影があった。半白髪の女と十代半ばの少女。食用の豆や野菜も植わっているが、半分ほどは薬草だ。咳止めや下痢止め、打ち身用の湿布、滋養強壮剤。料理に使う香草も含めて、諸々の薬の材料である。


「婆様! 氷雨草を頂きに来ました」

 ユウェインが呼びかけると、女がよいせと立ち上がって腰を伸ばした。婆といっても老人にはほど遠く、動作は機敏だ。振り向いた顔は不機嫌そうで、藍色の目に宿るのはよそよそしい警戒だけ。


「ああ、用意しといたよ。……帰ったかい、カスヴァ」


 イトゥカは愛想なく応じ、村の若殿様にはついでとばかりの一言をくれた。カスヴァは「主のご加護で」とだけ返して顔を背け、弟子の少女を見やる。産婆とは、あまりまともに話したくなかった。


 わだかまりがあるカスヴァとは対照的に、ユウェインはにこやかだった。産婆の態度は素っ気ないままだが、司祭のほうは構わず、あれこれと薬草の種類や効能について話している。畝の間にしゃがみ込んで、これはもうちょっと日陰に植え替えたほうがいいとか、そんなことまで指南しているようだ。横から弟子もふむふむと熱心に身を乗り出した。


「……だからこれは花だけ摘むんじゃなくて、根っこから全部抜いたほうがいいんだ」

「そうなんですね、じゃあ乾かす時は……」

「ふん、馬鹿馬鹿しい。ずっと同じやり方でやってきたんだよ、今さら」

「間違っていると言うんじゃないんですよ。ただ、こうしたほうがより良いって話です。教会では常に新しい知識や方法を調べて、何が本当か、実際やってみてどうかを大勢で調べていますが、あなた方のつながりはもうほとんど断たれているでしょう」

 あくまでも穏やかに司祭が説く。彼らのやりとりを、カスヴァは背中で聞いていた。


 確かに、知識を守るだけでなく進歩させていけるのは、今や教会ぐらいのものだ。独自にあれこれ研究しているまじない師や、領主お抱えの自称学者も存在してはいる。だが新たに知識を得られても、検証し、記し、伝えることができるのは、広い世界の各地に拠点を持ち、外道の爪を退ける特使を派遣できる、教会だけなのだ。


(あるいは魔道士か)


 カスヴァの脳裏をふとその単語がよぎった。今回の遠征では出くわさなかったが、この世には外道とはまた別の、始末の悪い『道を踏み外したもの』がいるらしい。魔のものに憑かれた外道とは違い、自ら悪魔と契約を交わして禁忌の知識と力をふるう人間だ。


(そは穢れしもの、人を惑わせ《聖き道》から堕落せしめ世に害なすもの……か。どうなんだかな。司祭の教えに従っているはずの人間でも、充分堕落しているのに)


 外道に堕したと聞かされ攻撃した場所は、まったく普通の村だった。ただジェマインの斥候を匿い、物資をあちら側に融通していた、それだけの。

 国境が曖昧な一帯では敵味方が流動的なのも当然で、利敵行為の代償に村ごと滅ぼしていたら、それこそ外道しか残らないというのに。

 唇を噛み、瞼に浮かぶ昏い記憶を闇の底へ突き沈める。

 戦とは残酷で欺瞞に満ちた無情なものであると、承知していたつもりだった。父に従って初めて戦場を目にし、いともあっさり兄が死んだ時、悟ったはずだった。

(だが味方に欺かれたのは初めてだ)

 それも、よりによって司祭に。


 ため息を押し殺し、彼はちらりと幼馴染みを見やった。まだ話し込んでいる。何がなしやるせなくなって空を仰ぐと、その仕草を待ちくたびれたゆえと理解してか、イトゥカが弟子に言った。


「ノエミ、まとめておいたのを取っといで。話に夢中になって頼まれものを忘れるんじゃないよ」

 さぼりを咎めるような言い方に、弟子の少女はちらりと不満げな表情をしたものの、はい、と従った。家の中に入ってガサガサやることしばし、薬草の束や小さな麻袋を手にして戻って来る。


「えっと、氷雨草と……金翅草。あと、紫豆でしたよね」

「うん。揃ってるね、ありがとう」


 司祭はそれぞれを確認し、丁寧に鞄に入れてゆく。ノエミはその手元をじっと見ていたが、産婆が畑仕事に戻ると、ひそっと小声でささやいた。


「司祭様、告解してもいいですか」


 ついでのように切り出されたもので、そばにいたカスヴァは面食らった。告解は己の罪を告白し、神の赦しを乞う大事な行いだ。たまたま道端で出会ったから済ませる、などという性質のものではない。しかも第三者がすぐそこにいるというのに。

 彼が背を向けて声の聞こえないところに去るより早く、ユウェインもまた軽く「ええ、もちろん」と答えた。思わずカスヴァは「おい」と声を上げる。


「二人とも、何を考えているんだ。俺はその辺の石ころか?」

「ああカスヴァ、違うよ。これは改まった儀式じゃなくて、簡易版とでも言うかな……とにかく、小さな後悔や不満を溜め込まないためにやっていることだから。本人が聞かれても良いと判断したのなら、構わないのさ」


 ユウェインは当たり前のように説明し、ノエミに向き合うと規定の聖句を唱えた。

「汝《聖き道》を歩む者よ、主は汝の道行きを守りたもう。過ちを自ら知る者に導きの光を示し、立ち返らせたもう。……どうぞ」

「はい、司祭様。あたし今日、朝のお祈りを忘れました。あと婆様と喧嘩して悪口言っちゃいました。司祭様がなんでも教えてくださるんだから、あんたなんか要らない、って」

 ノエミは少し強がるような、つけつけとした口調で言って、肩を竦めた。

「本当に要らないなんて思ってないし、婆様の知恵とわざは教会のとは違うって、わかってます。でも婆様だってあたしを役立たずのぼんくら呼ばわりしたんだから、おあいこですよね。謝る気はありませんけど」


 ふてくされた少女の前で、若い司祭はただ柔らかな沈黙を守っている。ノエミはもじもじしてから、さらにいくつか細かい不平不満をつぶやき、最後に、はあっと大きく息をついて姿勢を正した。

「これで全部です」

 本来ならば最後に「お赦しください」と乞うべきなのだが、彼女はそうしなかった。言うだけ言ってすっきりしたとばかりの顔をして、唇を引き結んでいる。


 ユウェインは微笑み、左手で銀環に触れ、右手でノエミに向けて聖印を切った。

「赦します。安んじてお行きなさい」

 告白された罪はすべて些細なものだし、赦しの言葉さえ肝心の部分――主の御名において――が省略された、ままごとのような儀式だ。ありがたみなどなさそうなものだが、それでもノエミは明らかにほっとした。


「ありがとうございました!」

 笑顔で感謝した少女に、カスヴァは問いかけずにはいられなかった。

「いったい、いつから告解はこんな手軽な儀式になったんだ?」

「司祭様が代わってからですよ。前の司祭様は怖くて、告解してもネチネチ言われるばっかりだし、それぐらいなら畑に穴掘って叫んで埋めちゃえ、って思ってたんですけど。ユウェイン様はお優しいから、なんでも気軽にお話しできて、本当、楽になりました。あ、でも、ちゃんと礼拝も行ってますからね! いつでも適当に済ませてるわけじゃないですから!」


 ノエミはあっけらかんと答え、若殿様のややこしい顔にも頓着しない。信頼と憧れのこもったまなざしを司祭に向けてから、少し恥ずかしそうに言い添えた。


「あたし、ずっと自分が嫌いだったんです。つい悪口言っちゃうし、やらなきゃいけないってわかってても投げ出しちゃうし。いつも怒られてばっかり。もう全然、《聖き道》の端をかすりもしない、神様に見放された奴で、死んだら地獄落ちだ、って捨て鉢になってたんですけど。ユウェイン様が来られて、まず自分を赦しなさい、って言ってくださった時、すうっと楽になれたんです」


 早口にそこまで言い、我に返ったのか羞恥に頬を染めて一礼する。そうして挨拶もせず身を翻し、放りだしたままの収穫籠のところへすっ飛んで行った。


 思いもよらない状況を目の当たりにし、話を一方的に打ち切られ放り出され、カスヴァは完全に呆気に取られた。そんな様子をユウェインが軽く揶揄する。

「今度あの子が礼拝に来たら、若殿様への失礼も懺悔するように言っておこうか」

「人に言われてするものじゃないだろう」

 反射的にカスヴァは渋面で言い返したが、問題にしたいのはそこではないと思い直し、話をそらされないうちにと続ける。


「まず自分を赦しなさい、だと? 司祭の言葉とも思えない。おまえ、本当に聖都で叙階されたんだろうな」

「随分だね」ユウェインは怒りもせず苦笑した。「君も、この村の皆も、長いことユルゲン様の厳格さに馴染みすぎたんだ。かく言う僕自身も、司祭とはああいうものだと思っていたよ。でもあのやり方を続けていたら、誰も悔い改めなくなってしまう。人は罪を犯すものだ、と言いながら、一方であれもこれも罪だ悪だ、おまえはてんでなってない、と責め立てる。《聖き道》を歩めというのが教えの根幹だけど、普通の人間は最初から正道を歩けているわけじゃない。だろう? 笞を振り回して叩くばかりじゃ、羊を囲いに入れられやしないよ」


「今はそういうのが、聖都の主流なのか」

 カスヴァは疑わしげに念を押した。少なくとも、遠征に加わっていた司祭はそんなお優しい態度ではなかった。案の定、ユウェインは曖昧にとぼける。

「主流ではないかな。でも、こういう考え方の司祭も少なくはないよ。僕が接した限りではね。……第一、ちょっと考えてもみてよ。君に置いてきぼりにされて、待ってよぅ、なんて憐れっぽく泣きながらもたもた走っていた子供時代を知られているのに、どうやって僕がユルゲン様と同じ態度を取れるのさ」


 開き直って抗議した幼馴染みに、カスヴァは思わずふきだしてしまった。涙と鼻水で顔を濡らし、ぜいぜい息を切らせていた姿が脳裏によみがえる。彼は堪えきれず腹を抱えて震えだした。ユウェインも、自分で言って恥ずかしくなったらしく、悔しそうな顔で赤くなって腕組みした。


「ほら、そうやって笑うだろ。友情って本当ありがたいよね!」

「すまん。いや、悪気はないんだ。ああ確かに、おまえの言う通りだな」

「君だって立場は似たようなものじゃないか。蛙を捕まえようとして池の泥にはまって抜けられなくなって大騒動になって、こっぴどく叱られたこととか、年寄り連中は絶対に忘れてくれないよ。なのに君は若殿様として、いずれは殿様として、村のあれこれを差配したり揉め事の裁きをつけたりして、皆に威厳を見せなきゃいけないんだから」


 ユウェインは憤慨して昔の失敗を掘り返す。カスヴァは「勘弁しろよ」と呻いたが、相手は容赦してくれなかった。


「そんな君を気の毒に思えばこそ、友達のよしみで相談相手になろうと言っているのに、君ときたら頑なに僕を弱虫のちび助扱いするんだから、ひどい話だよ」

「おい待て、俺はそこまで言ってないぞ」

「言ってるよ。顔が」

 ぴしゃりと決めつけられて、カスヴァはつい片手で口元を覆った。


「何を経験したのか、強いて聞き出そうなんて思ってない。そうじゃなく、君がもう昔ほどには教会を信じられないのなら、ただ友達として力になりたいんだってことは、わかってほしいんだ。司祭として君を裁こうとか導こうとか、そんな厚かましい考えじゃない」

 ひたむきなまなざしで訴えられ、とうとうカスヴァは負けを認めた。


「……ありがとう」


 手で表情を隠したまま、ぼそりと礼を言う。途端にユウェインが目元を緩めた。明らかに彼の雰囲気が和らいだのを感じ取り、カスヴァはいたたまれなくなって、ごまかすように顔をこすった。


「そんなに俺はひどかったか? モーウェンナをびくつかせ、父上に心配をかけ、おまえになけなしの勇気を振り絞らせるぐらい」

「まだ言うか、君って奴は。ああそうさ、迂闊に近寄ったらまっぷたつにされそうなぐらい怖かったとも。この哀れな小鳥の心臓は今にも破裂しそうだよ」

 怒った口調を装いながらも、声は明るく、瞳には優しい喜びが満ちている。参った、とカスヴァは降伏の仕草をした。

「悪かった。……ノエミを怖がらせたのでなければいいが」

「あの子は気が強いから、大丈夫だよ。婆様は言うに及ばず」

 ユウェインがおどけて首を竦め、カスヴァもちょっと笑った。


 そうか、お供するよと言い出したのは、ヤマアラシのように尖った若殿様が村をうろつき回って、皆を震え上がらせないようにするためでもあったのか。

(村の平穏を守る。まさに司祭のつとめだな)

 納得してから、その当人が帰還した時の話を思い出してにやりとする。皮肉な表情を見てユウェインが眉を上げたが、彼は黙って、なんでもない、と首を振った。自分が恐怖を振り撒いたぶんの罪滅ぼしか――などとからかうのは、傲慢というものだろう。


 傲慢。教会が最も厳しく戒める罪。

 人は謙虚であらねばならない。分を越えた欲をかかず、己が手に余るものを掴み取ろうとしないこと。傲慢は人の目を曇らせ足取りを乱し、《聖き道》を踏み外させる。


 カスヴァは改めて友人に向かい合い、心を込めて頭を下げた。

「感謝する、ユウェイン」

「どういたしまして。お役に立てて何よりだ」

 返事はどこまでも親切で、温かかった。


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