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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第二部 霧の中を彷徨うとも
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2-2 違和感

 ありがたいことに今日も引き続き晴天で、うららかな陽射しが降り注いでいた。

「なんだろうなぁ、このお天気は。僕の時はあんなに手酷い歓迎ぶりだったのに」

 ユウェインが青空を見上げて恨みがましくぼやく。古びた鞄を肩から斜めにかけた姿はいかにも田舎臭く、聖職者というより、手仕事の材料を拾いに行く細工職人のようだ。


(最初の印象はなんだったんだ)

 カスヴァは胡散臭い気分で連れを見やった。あの時は、立派な司祭らしい頼もしさをはっきりと感じたのに、一晩経ってもう慣れてしまったのだろうか。

 失敬な視線を感じてか、ユウェインが振り返ってにこりとした。


「君と連れ立って歩くのも久しぶりだね。さて、チェルニュク探検の旅に出発しようか」


 探検、とカスヴァは口の中で繰り返す。不思議とその言葉は自然に響いた。

 そう、この村は彼の知らない場所になってしまったのかもしれない。麦畑の間の道も、館も、妻も子も父も、すべてが同じようでいて……司祭だけが違う。彼の故郷ときわめてよく似た、別の村に迷い込んでしまったのではないか。


「どこから行きたい?」

 ユウェインが問う。カスヴァは少し考えてから答えた。

「ユルゲン様の墓に挨拶したい」

 出迎えたのが白髪の老司祭だったなら、こんな違和感はなかったろう。だから、彼がもういないとはっきり理解できれば、少しは落ち着けるかもしれない。そう考えたのだ。


 ユウェインは無言でうなずき、先に立って歩きだした。木柵の門をくぐり、坂道をのんびり下る。

 麓の南西斜面に広がる果樹園は館の所有地だが、世話しているのはヴェセリの父と姉弟だ。三人で秋冬の作業は乗り切れたが、これから忙しくなっても、一人少ないままやってゆかねばならない。カスヴァはうっかり彼らの姿を見付けてしまわないよう、うつむきがちに歩を速めた。


 丘の北東側へ回ると墓地が現れた。所狭しと並ぶ墓石の列は、端から少しずつ森に呑まれつつある。

 ここだよ、とユウェインはまだ新しい墓に案内し、邪魔をせぬようそっと下がった。カスヴァは老司祭の名が彫られた石を前にして、現実感がないままひざまずく。右手を胸に当てて頭を垂れ、魂の平穏を祈る文句を唱えたが、期待したような理解も納得も訪れなかった。


 気難しく厳しい老人だった。村を出る前はかなり弱って寝付きがちだったが、それでも峻厳な態度は小ゆるぎもせず、カスヴァが出立する際にはしゃっきり立って加護の祝福を授けてくれたのに。

 もう二度と彼に説教されることもないのだと思うと、どうにも不思議な気分だ。死に目に会えないどころか、死に顔も見られず葬式にも参列できず、弔いの儀式いっさいを経ないままでは、喪失を受け入れられないらしい。


(そういえば、あいつも)

 そこでふと彼は幼馴染みに思い至った。村の池で魚や水鳥を獲る一家だったが、ユウェインが聖都に行った数年後、事故と病で全員が儚くなったのだ。訃報は教会の巡回特使に託したが、一人遺された彼はどんな気持ちで家族の死に対処したのだろう。


 考えながらユウェインに目をやりかけた瞬間、

「――っ!?」

 ぞわっ、とうなじの毛が逆立った。背骨が氷に変じたごとく、冷気と悪寒に貫かれる。反射的に剣の柄を握り、抜き放つつもりで身構え振り返る。墓地の外れで司祭が森に向き合っていた。


 逃げろ、と怒鳴ろうとした。少なくともその瞬間、彼は確かに、森から外道が飛び出して友人を襲うことを恐れたのだ――が、声は喉で石になった。

 違う。

 何が、とは知れず、ただ強烈な違和感。一呼吸の後、カスヴァは愕然とした。今、己の手は、あの司祭の後ろ姿に斬りつけようとしたのだ。頭での考えとはまるで逆に。むろん届く距離ではない、だから幸いした。

(そんな、なぜ俺は)

 自分の反応が信じられなくて呆然としていると、ユウェインがこちらに顔を向けた。その一瞬、カスヴァは炎を幻視した。家を、人を、夜空を焼いて噴き上がる炎。熱が冷気を押し流す。


「そうか。わかるんだね」


 ユウェインが気の毒そうに言った。カスヴァがはっとして瞬きすると、炎のまぼろしは跡形もなく消える。若い司祭は森の方をちらりと振り返ってから、墓石の間をゆっくり歩いてきた。


「外道の気配だ。まだ生き物に取り憑けずに漂っているだけの、影みたいに非力な奴。普通は墓場の近くには寄って来ないんだけどね……来てもほとんどの人間には察せられないぐらい、弱いものだし。大丈夫かい? せっかく我が家に帰ってきたのに、心が休まらないだろう」

「奴らがいたのか」

「たまたま、だと思う。村を狙っている様子じゃなかった。祈りに気合いを込めて追い払っておいたから、もういないよ」


 さらりとユウェインが答える。カスヴァは拍子抜けし、変な顔になって剣から手を離した。


「気合い、っておまえ」

「具体的には言えないんだ」司祭は肩を竦める。「外道を祓う方法は、禁忌すれすれの知識でね。迂闊に一般人には明かせない」

「それは知ってる、戦地で聞いた」


 カスヴァはぶっきらぼうに応じた。外道を祓うには外道を深く知らねばならぬ、それは自らも《聖き道》を踏み外しかねない極めて危険な行いである。ゆえに神のしもべたる誓いを立てた信仰堅き司祭でなくば、その知識に触れてはならない。


「だから俺たち凡夫はただひたすらに主の御力と司祭を信じて、清められた刃で敵を斬り払え。ああ、そう聞かされたとも。しかし……気合い?」

「そんな怪しげな言い方をしなくてもいいじゃないか。熱烈な信仰心でもって主に祈り救いを求め、とでも言えば納得してくれるかい」


 しらけた口調で放たれた言葉は、あまりにも司祭らしからぬものだった。カスヴァは唖然として友人を凝視し、困惑と警戒を面に浮かべる。

「今のは本心か」

 彼の様子を見て、当人もさすがにまずかったと察したらしい。ごまかすようにちょっと頬を掻いて視線をそらせた。


「素朴な信仰心だけでは、司祭はつとまらない。聖都で学んだよ。もちろん、だからと言って捨て鉢になっているわけじゃない。そもそも僕じゃなく君の話だ。自覚がないのだろうけど、君は昨日からずっと、まるで魔の森の奥地にいるか、さもなくば奈落で悪魔に取り囲まれたような顔をしているぞ」

 ユウェインはカスヴァに向き直り、やや厳しい声音になった。

「戦の緊張が簡単に抜けないのはわかっている。聖都には大きな病院もあってね。戦地で傷ついた兵の治療も引き受けていた……身体の傷は癒えても魂が損なわれたままの者を。ひどいものさ」

 舌打ちでもしそうな表情になり、彼は吐き捨てるように言った。しかし瞳に宿るのは嫌悪や侮蔑ではなく、義憤だ。

「僕も病院での奉仕期間を経験した。君より遙かに状態の悪い人を、あの手この手でどうにかなだめて、安らがせて」


「俺はなんともない」

 カスヴァはぴしゃりと遮った。病人扱いなどまっぴらごめんだ。

「いくらかピリピリしているのは認める。だが昨日帰り着いたばかりなんだぞ。もう二、三日様子を見たっていいんじゃないのか」


「うん、そうだね。ごめん。ただ、知らせておきたかったんだ。二、三日、あるいは七日十日と過ぎてもまだぐっすり眠れなかったら、仕方ないとか当然だとか思わないで、教会に来て欲しい。いつでも、どんな話でも聞くし、話せなくても蜂蜜入りの熱い飲み物を用意するぐらいはできるからさ」

 ユウェインは優しい微笑で棘々しい言葉を受け止める。カスヴァがむっつりと答えずにいると、その表情がやや困ったような色をまじえた。

「君は昔から、絶対に人に弱みを見せようとしないよね。強がる時にいつもちょっと、唇の右端がひきつる癖がある」


 見抜かれてカスヴァは身を硬くした。子供の頃なら、何を、と怒ったろうし、強がりなんかじゃない、おまえが弱虫なだけだ、と言い返しもしただろう。だが今はお互いもう大人だ。しかも相手は司祭――人々の罪を裁く権能を備えている。

 彼の緊張を読み取り、幼馴染みの司祭は穏やかに否定した。


「ああ、心配しないで。戒めるべき欺瞞だと言うつもりじゃないよ。君は若殿様なんだから、頼りないところは見せられない。自分が不安でも強がらなきゃならない場面も多いだろう。そうだね……『交渉術』だよ。うん。そういうささやかな技術は、聖都の大司教様や教皇聖下ご自身でさえ必要を認めていらっしゃる」


 うんと声を低め、ユウェインは子供時代の内緒話でもするかのように、悪戯めかした笑みを見せた。安心させようとしたのかもしれないが、むしろカスヴァはたじろぎ、無意識に一歩後ずさっていた。


(こんな手管を使う奴だったか?)


 混乱気味に昔の記憶を探る。どうだったろう。しょっちゅうべそをかいていたのは鮮明に憶えている。ただ、確かにこの年下の友人は機転が利き、大人に怒られてカスヴァが何も言えずにいる時、上手く弁護してくれたことはあった……かもしれない。

 考えるのも嫌になって、カスヴァは無言のままふいと踵を返した。これ以上この問題をつつき回すと、治癒したはずの古傷が開いて禁句の棘を吐き出しそうだ。


 ユウェインも追撃はしなかった。急がず落ち着いて後に従い、ユルゲンの墓を通りすぎがてら一礼する。

「挨拶はできたかい」

 危ういやりとりなどなかったかのように、ユウェインが問いかける。カスヴァは素っ気なく「ああ」と応じただけで、しばらく黙って足を動かした。

墓地の外れまで戻ったところで振り向き、今さらながら、ぎこちなくお悔やみを述べる。


「八年は長かったな。いろいろ……その、残念に思う」


 家族も、師も、不在の間に帰らぬ人となったのだ。カスヴァが思いやりを顔に浮かべると、ユウェインは曖昧に微笑んだ。

「ありがとう。僕は大丈夫だよ、村を出る時に覚悟はしていたから」

 模範的な答えだったが、語尾がわずかに揺れた。ユウェインは咳払いでごまかし、明るい態度を装った。

「さて、次はどこに行く?」

「おまえはイトゥカ婆に用事があるんだろう。さっさと行って済ませてしまおう」

「そうかい? なら、お言葉に甘えようかな」

 ユウェインは悪びれず、カスヴァに並んだ。


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