2-1 悪夢
二章
霧だ。白い霧の海に黒い木の幹がぽつんぽつんと浮かび、茂みや梢の尖った先が、所々で靄に穴を開けている。足元さえよく見えない。
じっとりと冷たく濡れた感触が全身にまとわりつく。靴底が何かぬめるものを踏みつけて滑った。垂れた髪から滴が落ちて首を伝う不快感。
不安に駆られ、せわしなく周囲に目を走らせる。あの音は? 誰だ。誰かいるのか。
「……さまぁ」
細い声が届いた瞬間、彼は思い出した。
これは夢だ。毎夜のごとく見る夢、この先もわかりきった夢。もういい、もうわかっている、だから見せるな!
「若様ぁ……助けて……」
ヴェセリの声が大きくなる。
刹那、視界に炎が爆ぜた。
霧の森は一瞬で消え失せ、彼は集落の中に立っていた。暗がりにうずくまる質素な家、打ち壊された小屋。そこかしこにあかあかと篝火が――否、燃えているのは建物だ。くっきりと落ちた影を縫い止められたように、彼は身じろぎもできなかった。
「この者どもは外道に堕ちた」
背後で司祭が重々しく告げる。止められないとわかっていながら、渾身の力を振り絞って振り返ると、声の主はおらず、ヴェセリが目をぎらつかせていた。
「若様! 見てくださいよ、こいつらこんなに貯めこんで!」
助けを求めていたはずの少年は、狂気じみた興奮に笑っていた。周囲には麦や豆の詰まった大壺が並び、金貨銀貨に宝石が小山をなしている。こんなものは、あの村になかったはずだ。不条理な夢。
「すげえや、これ全部俺たちのもんだ……へへ、ねえ若様、いいんでしょ?」
服を裂かれた女が二人の間に突き転ばされ、地面に倒れた。
――やめろ、どっちが外道だ!
叫びは喉に詰まって凍りつく。
「焼き払え! 一人も生かしておくな! この村は呑まれた。邪悪の巣窟、人類の敵である!」
ノヴァルクのあるじザヤツが吼える。炎が轟々と勢いを増す。
女にまたがって獣のように責め苛むヴェセリの顔が、火明かりを受けて赤く染まり、やがてそれが血の色に変わってゆく――
(助けて)
「……っ!」
もがきながら跳ね起きた。振り回した手が空を掻く。隣で妻が寝返りを打ち、うーん、と眠そうな声を漏らした。それにすらカスヴァはぎくりとし、奇襲を恐れるように身を硬くして息を詰める。ややあって、ここは我が家だと思い出すと、彼は震える唇から細く息を吐いた。
(大丈夫だ。じき忘れる)
もう終わったのだ。いや、エリュデとジェマインの争いは何も終わっていないが、少なくとも来年まで召集はかからないだろう。この村には、もう。
静かに寝床を離れ、外の空気を浴びに出る。東の空は黒い森の梢に遮られて、太陽はまだ見えない。先触れの緋と黄金が、星の消え残る藍を塗り替えながら、荘厳な天の鐘を鳴らした。耳では捉えられない響きが全身を包む。
深く息を吸い込むと、濡れた土と草の匂いが胸に満ちた。どこでも同じようでいて、やはり慣れ親しんだ故郷の朝は特別な味わいだ。
使用人たちも起き出しているらしく、粥の炊ける匂いが漂ってきた。あんな夢の後だというのに、しっかり腹が空くのだから人間とは存外逞しい。カスヴァは己に呆れながら、食事の前にひと働きしようと馬の世話に向かった。
朝食の風景は、以前と変わりなかった。広間の炉ではぐつぐつと大鍋が煮え、どっしりした大テーブルを皆が囲む。あるじの家族だけでなく叔父一家も一緒だ。それに司祭と、末席には使用人も。時によって多少増減はするが、全員合わせても十五人ぐらいで、ほとんど身内のようなものである。
以前は白髪の老司祭が座っていた場所に、今は黒髪の青年がおさまっている。常にいかめしい顔つきを崩さなかった老人と違い、待ちかねたとばかり嬉しそうに。
大麦粥とチーズ、卵。昨夜の宴会の残りの、野菜と牛肉の煮込み。朝からごちそうだ。配膳が済んで全員が着席すると、ユウェインがこほんと咳払いして居住まいを正した。おもむろに合掌し、皆が同じく手を合わせたのを確かめてから、祈りの文句を唱える。
「いと恵み深き主よ、今日の糧に感謝いたします。主の慈しみが地に満ち、御名の尊ばれんことを」
一同が復唱し、食事が始まる。何ということのない日常が、カスヴァの胸に沁みた。
もう随分長く、皆で揃って祈りを捧げる機会などなかった。遠征中の食事はせわしなく素っ気なく、祈りも各自が早口にぼそぼそつぶやくだけ。それすら、終わり頃には聞かれなくなって……
――外道だ!
突然、脳裏に叫びが響いた。カスヴァはびくっと震え、椀を取り落としかける。危ういところで持ち直したが、跳ねた粥が指にかかった。
「熱っ」
小さく呻きを漏らす。隣から妻が慌てて手を伸ばしたが、彼は反射的に払いのけた。
「構うな」
意図せず語気が荒くなり、彼女が竦んだのがわかった。すまない、と急いで取り繕ったものの、いかにも不自然になってしまう。
モーウェンナはぎこちなく微笑み、何もなかったように食事を続ける。だが、誰もが一瞬の出来事に警戒したのが肌で感じられた。粥をすすりながら、卵を頬ばりながら、視線はこちらに向けず彼の動きに神経を尖らせているのが。
(いや……考えすぎだ。皆が俺を猛獣のように扱うはずがない。俺こそがピリピリしているんだ)
些細な失態にこだわるな、と自分に言い聞かせる。すぐにも立ち上がって身を隠したいのを堪え、強いてゆっくり食べる。息子を見やると、両親の不穏に気付いた様子もなく無心にぱくついていたので、カスヴァの頬も緩んだ。
(そうだ、思い過ごしだ。ここには敵などいない、いるのは家族だけなんだから)
肩の力が抜けて、初めて緊張していたと自覚する。やれやれだ。
彼の身を包む空気が和らいだのを受けてか、ハヴェルがおもむろに口を開いた。
「倅よ。食事が済んだら、村をじっくり見て回れ」
言葉は少ないが、多くの意味が込められていた。外で一日羽を伸ばせ、不在の間の変化を子細に把握しろ、そして村人全員に若殿様の健在なるをしかと見せてやれ……と。
カスヴァは父の心遣いを噛みしめながら、うなずいた。
「そうします」
「お供してもいいかな」
申し出たのはユウェインだった。不審顔になったカスヴァに、彼はさりげない口調で付け加える。
「イトゥカ婆様を訪ねる用事があるし、猟師小屋のほうも見回らないといけないからね」
「猟師小屋?」
すぐには意味がわからず、カスヴァは怪訝に問い返す。「聖域だよ」と答えられて、ああと得心した。
森に潜む魔のものから人を守るために、司祭が清めた土地だ。人が踏み入って薪や苺を採り獲物を狩り、豚にドングリを食べさせられる、安全な領域。邪悪はその外に……
カスヴァは瞼に浮かびかけた暗闇を払おうと瞬きし、いささか白々しく友人を見つめて感心した。
「そうか。おまえは司祭だったな」
「まだ言う? さては君、僕が白髪のお爺さんになるまで続けるつもりだろう。故郷で司祭をやるのは意外と難しいぞ、って脅されたけど、意味がよくわかったよ!」
若い司祭が憤慨し、温かな笑いが広がる。カスヴァは感謝を込めて友人に目礼し、やっと心穏やかに食事を平らげた。




