表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第二部 霧の中を彷徨うとも
35/133

1-1 帰郷

   一章



 うららかな陽射しを受けて、緑の草葉がきらめく。珍しく風もさらりと乾いて、青空がまぶしい。

 鬱蒼と茂る深い森さえも、今なら文句なしに安全で心地よい場所のように思える。温められた土からは、春の匂いが立ちのぼっていた。萌え出る新芽、膨らんだ蕾の待ちかねた気配。

 どこかの梢でコマドリが賑やかにさえずっている。


 この世の幸福をあらん限り集めたような風景にあって、のどかな田舎道を辿る人物だけが灰色に煤けていた。

 壮健な身体つきの青年だが、馬の手綱を取る手は力なく、うつむいたままろくに前も見ない。暗い色味の金髪は汚れ、服も、鞍に結わえた荷袋も、塵埃と疲労の影にまみれていた。


 急ぐでもなく、ぽこりぽこりと蹄が鳴る。

 やがて両側に迫っていた森が退き、視界が開けた。馬がためらうように歩みを止めたので、ようやく青年は顔を上げ、悲しげに行く手を見やる。

 牛馬や羊が草を食む牧場が彼を迎えた。その向こうには青い麦畑。茅葺き屋根に土壁の家が点在する道をさらに先へ辿ると、小高い丘を囲んでぐるりと木の柵が並んでいる。


 ――我が家だ。


 青年の口からため息が漏れた。針樅(はりもみ)色の瞳をいったん閉ざし、彼は荷袋のひとつにそっと手を置いてから、心を決めたように馬の腹を蹴った。


「若様! お帰りなさい!」


 畑仕事をしていた村人が気付いて、大きな笑顔で呼ばわる。青年は軽く手を挙げて応じたが、表情は沈んだままだった。

 帰還を歓迎しようと寄ってきた数人が、はたと何かを思い出し、顔を見合わせる。彼らの面に浮かぶ疑念を目にしたくなくて、青年は馬を急がせた。


 緩い坂を上って木柵の門を抜け、領主館の前で手綱を引く。館と言っても、造りは他の民家とそう変わらない。基礎が石壁で二階があり、広さも三軒ぶんほどの規模というだけだ。

 玄関脇に寝そべっていた黒ぶち模様の猟犬が、ぱっと顔を上げて尻尾を振る。鞍から下りた途端、犬にじゃれつかれ、振り切ってきた問いかけにも追い付かれてしまった。


「ようご無事で、カスヴァ様! ……お一人ですか?」

 右足をやや引きながら駆けてきた下男が、連れはいないと見て取った途端、眉を曇らせる。青年――カスヴァは、わずかに顎を引いた。

「ああ」

 たった一言の返答が重い。下男は口をぐっと引き結んで瞑目し、自分を納得させるように厳粛に言った。

「なら、ヴェセリはちゃんと役目を果たしたっちゅうことですな。すぐ皆に知らせます、お疲れでしょう」

 せわしなく身を翻し、「ああそうだ!」ともう半回転してまた向き直る。

「懐かしい人が戻られとりますよ!」


 悪い知らせを相殺するかのようにそれだけ告げると、下男はひょこひょこ館へ戻っていく。カスヴァが犬を撫でてやっている間に、使用人たちが次々と現れた。


「お帰りなさいませ、若様。ハヴェル様は中でお待ちです。さ、お荷物を」

「ありがとう。父上はお変わりないか?」

「はい。新しい司祭様のおかげで、眼の病も快方に向かっております」

「若様! 雪踏みは僕が厩に入れておきます!」

「ああ、すまない。頼む」


 家令である叔父に荷物を、その息子に手綱を、それぞれ委ねると、カスヴァは最も重いものを運ぶべく、出迎えの顔ぶれを見渡した。視線が下女のところで止まる。それだけでもう、女の目に涙が盛り上がった。


「クヴェタ。……ヴェセリは勇ましかった。恥じるところのない最期だったよ。向こうで司祭様が弔ってくれたから、今頃は楽園に迎えられているだろう」


 返事はない。子を喪った母は拳を口に当てて嗚咽を堪え、何度もうなずいた。強いて誇らしげな表情を作ろうとして失敗し、逃げるように館の裏手へ走り去る。

 入れ違いに、九歳ほどの男児を連れた若い女――カスヴァの妻がやって来た。気遣わしげに下女を見送りはしたが、夫を振り向くと安堵の表情になり、両手を広げて抱きつく。


「お帰りなさい! よく無事で」

「ただいま、モーウェンナ」


 暗く沈んでいた瞳にやっと暖かな光を灯し、カスヴァは抱擁を返した。柔らかく波打つ栗茶の髪に顔を埋め、深く息を吐く。帰ってきた。生きて。実感が胸に沁みてゆく。

 妻は強く一度力を込めてから腕をほどき、悪戯っぽく予告した。


「カスヴァ、驚くわよ」

「何が」


 彼はきょとんとしてから、もしやと妻の腹を見下ろした。村を出た半年前から特に変化はない。うずうず順番待ちしている息子に、弟か妹ができるわけではなさそうだ。


「何を隠しているのかな? オドヴァ、知ってるか」

 言いながら彼は一人息子を抱き上げた。途端にオドヴァは歓声を上げ、逞しい腕と肩にかじりつく。相手をしてやっていたカスヴァの目が、息子の丸い頭越しに人影を認めた。


 館の横手にある小さな教会から現れた、司祭の長衣をまとった黒髪の若者。嬉しそうな微笑は柔和で遠慮がちで、古い記憶を刺激する――


 ぽかん、と口が開いた。息子を下ろし、司祭に向かって大きく二歩踏み出したきり、彼は棒立ちになった。

「まさか、ユウェイン?」

 呼びかけに引っ張られるように、司祭が早足になる。そのまま抱きつきそうな勢いで間近まで迫り、ぎりぎりで自制すると、こほんと咳払いして二本指でカスヴァの額に軽く触れて祝福した。


「チェルニュクの若殿様を無事に帰らせたもうた、主のご加護に感謝を。久しぶりだね、カスヴァ」

「本当におまえか! 驚いた、見違えたな。すっかりその……司祭らしくなって」

「らしく、じゃなくて本物の司祭だよ」


 やんわり抗議する苦笑と声音には、少年時代に幾度となく交わした気配が残っていた。カスヴァは幼馴染みの肩を抱き寄せて叩き、再会を祝してから、改めて相手をしげしげ眺めた。


 毛織りの長衣は地味な灰色で何の飾りもなく、胸に下げた銀環だけが鈍く光っている。礼拝の際はもう少しきらびやかな祭服と肩掛けを羽織るが、普段の司祭はこんなものだ。カスヴァが先頃までいた戦場でも、同じように質素ななりの司祭が死者を弔い、魔のものから味方を守っていた。

 荒んだ場に身を置く練達の司祭と違って、ユウェインはいかにも若い無垢さを感じさせる。だがそれでいて、不思議と頼りない印象はなかった。むしろ力強くさえ見える。


「いや、本当に……驚いた。おまえはもっとこう……」

「弱々しかったのに、って? 昔話は後でゆっくりしよう、ほら、モーに世話してもらいなよ。毎日君の無事を祈っていたんだからね」


 ユウェインは言い、カスヴァを妻の方へ押しやった。愛する者の無事を祈っていたのは彼女だけではなかろうに、と思い出し、またカスヴァの眉が曇る。その心の動きを察してか、モーウェンナは強いて明るい声を上げた。


「あなたがこうして帰ってきてくれた、それが何よりの幸いよ。しかもこんな気持ちのいいお天気の日に!」

 言葉尻で笑い、茶化すような目を司祭に向ける。ユウェインはしかめっ面で抗議した。

「いい加減に勘弁しておくれよ。僕の読みが甘かった、認めたろ?」

「向こう十年は語りぐさよ。あんなに皆を怖がらせたんだもの! ねえカスヴァ、信じられる? この人ったら大雨の中を帰ってきたのよ。空は真っ暗、風は唸るし雨は滝のようだし、そんな中をずぶ濡れで歩いてきたんだもの。目にした皆は魔のものが入り込んだのかと震え上がったし、番小屋にいたアヴァンなんて顔が土気色だったわ!」


 名前を出された下男が「面目ねえす」と首を竦め、ちくちく刺された司祭は「ごめんって」と平謝り。笑いのさざ波が起きて、ようやくカスヴァは我が家に迎え入れられた。


 玄関前で靴の泥を落として両開きの扉をくぐると、すぐに石床の広間だ。炉を備えた、村の会合にも使われる場所。富の象徴たる樫の大テーブルもある。

 知らせを受けた館のあるじ、カスヴァの父ハヴェルが、既に上座についていた。金髪は白っぽくなり、右目はしばらく前から患っている病のため眼帯に覆われている。だが健康な左の眼光は鋭く、皺の刻まれた眉間にも口元にも、威厳と力がみなぎっている。彼はにこりともせず口を開き、重々しく我が子を迎えた。


「よう帰った、倅よ」

「ただいま戻りました。……父上、ヴェセリは外道の牙にかかって天に召されました。ノヴァルクのザヤツ様からは弔慰金をいただきましたが、クヴェタとハヴランに充分な手当を出してやってください」

「うむ……そうか、わかった。痛手だな、また若い働き手が失われた。厳しい戦いだったのか」


 沈痛に唸り、問いかける。カスヴァも父そっくりの表情で「はい」とうなずいた。


「魔のものから国境付近の町を守る、との名目で召集されましたが……敵は、外道ばかりでもなく。エリュデとジェマインの対立がさらに深刻になっているのでしょう」

「困ったものだ。我ら人の世すべてが、魔のものに脅かされとるというのに。何人若者を殺せば気が済むのだ」


 ちっ、とハヴェルは舌打ちした。彼が言う『若者』には長男も含まれている。カスヴァは十年余り前に世を去った兄を思い、目を伏せた。


 エリュデはこの村を含む一帯の王国、ジェマインはその西北にある国で、昔から仲が悪い。互いに隙あらば優位を奪い土地をせしめようと、口実をつけては小競り合いを繰り返している。《聖き道》を外れた魔のものがいかに世を跳梁跋扈しようとも、隣人との戦は別問題らしい。


 もっとも、この小さな村に住む人々にとって、そうした大きな国の話は不確かな伝聞でしかなく、実感の伴わないものだった。父子の会話をはたで聞いて不安げなまなざしを交わす使用人らも、知っているのはせいぜい、自分たちの村が西のノヴァルクの庇護下にあることくらいだ。

 ノヴァルクは城壁を構えた大きな町で市が立つ。南にはここと似た様子のモルテュク村。ほかはぐるりと暗き森に取り囲まれている――それが世界のすべて。

 カスヴァは己の過ごした場所だけが戦場ではないと思い出し、気遣わしげに問うた。


「留守中、こちらはいかがでしたか。見る限り、平穏だったようですが」

「主のお恵みに感謝、だな。ユルゲンが逝ってしまってどうなるかと案じたが、幸い外道どもは現れなんだ。ユウェインが来て、おまえも帰ってきた。これで安心だ」


 ハヴェルは声音を和らげ、温かなまなざしを新任の司祭に向けた。カスヴァも安堵の表情になる。


「まさかこいつが村に戻っているなんて、驚きました。八年……九年?」

「八年ちょっとだよ」司祭が答えた。「赤ん坊だったオドヴァがこんなに大きくなっているんだから、早いものだね」

「そうか。道理でおまえも司祭らしくなれたわけだ」

 カスヴァはつい昔の気分になり、軽く揶揄した。途端に渋面で訂正される。

「らしく、じゃなくて本当に司祭だってば」

「だってば、とか言う奴が司祭ぶってもな」

「君に合わせてるんじゃないか。幼馴染みだからってそんな無礼をはたらくのなら、次の礼拝で君だけ祝福を省略するぞ。ほらモー、旦那様を連れてって皮を剥いでやりなよ」


 二人のやりとりに忍び笑いが広がる。モーウェンナは楽しげに唇をほころばせ、ハヴェルに目顔で許しを得てから夫の腕をとった。

「そうね、一枚ぺろんと剥かなきゃ。さあ、あなた」

 汚れきった服と一緒にこびりついた疲れを落とせ、と言うのだろう。カスヴァは感謝を込めてうなずき、広間を出た。去り際に振り返ると、ユウェインが真剣な顔つきになって領主の眼帯を外している。小首を傾げた彼に、モーウェンナがささやいた。


「ユウェインが手当てをしてくれるようになって、随分良くなったのよ。もうじき包帯も外せるらしいわ」

「……へえ、あいつがね。本当に司祭になったんだなぁ」

 当人が聞いたら、いい加減にしろ、と怒りそうな感慨をつぶやく。

「昔から賢かったもの。ユルゲン様も、だからこそ彼を聖都へ行かせたんだし」

「あっちでいろいろ学んだんだろうな。村を離れるのはかなり不安だったが……あいつは間に合ったのか?」


 夫婦の部屋に入って服を脱ぎながら、漠然と問う。モーウェンナは数拍置いて意図を察し、首を振った。


「あなたとヴェセリが発ってしばらくして、少しの間またお元気になられたんだけれど。やっぱり冬は越せなかった。お葬式はノヴァルクまで司祭様を呼びに行ったわ。ユウェインが着いたのはほんの十日ほど前なの」

「そうか。じゃあそれまでは、イトゥカ婆が父上を診ていたんだな」


 カスヴァは村の産婆の名前を出し、確かめた。夫の声音に含まれるものを敏感に察した妻は、困ったような苦笑をこぼして「問題なくね」とごまかした。


 どこの村にも産婆の一人二人は必ずいる。このご時勢、まともな医薬の知識を備えているのは聖職者だけだが、お産は女の領分で男は立ち入れない。規則で女は司祭になれないため、まじない師と薬師を兼ねた存在でもある産婆が欠かせないのだ。

 しかし彼女らの守り伝える知恵とわざは、《聖き道の教会》が認めるものではない。実際にも、怪しげな薬や儀式で人心を惑わし、問題を引き起こしている。やむなく頼りはするものの、できれば村の隅でひっそり静かにしていて欲しい、というのがカスヴァはじめ男たち一般の認識だった。


 三回の出産でイトゥカの世話になったモーウェンナは、絞った手拭いで夫の背中をこすりながら、やんわりとたしなめた。

「婆様はちゃんと診てくださったわよ。ユルゲン様でも治せなかったんだもの。これまで婆様がしてくださった治療が効いてきたところで、たまたまユウェインと交代して上手くいったのかもしれないでしょう」

「だが……」

「帰ったばかりで疲れてるのよ、あまり悪いことを考えないで。ね?」


 言葉は優しいが、声音にはこれ以上を許さない強さがあった。カスヴァはうなずいて引き下がる。

 そうだ、二人目が死産だったのはイトゥカの不手際ではないし、三人目が二歳を迎えず天に召されたのは、それこそ何のかかわりもない。オドヴァはああして元気に育っているのだから。何度も懇々と話し合ってどうにか決着をつけた問題を、気力のない時に蒸し返すものじゃない。

 自分に言い聞かせ、顔をこする。清潔な服に袖を通すと、さらりとした麻の肌触りに心の曇りも晴れた。


「君の言う通りだ。どうも苛立ってるみたいだな。随分……酷い毎日だったから」

「つらい戦いだったのね」

 モーウェンナは同情を込めて夫をいたわった。傷痕が増えた背中や肩をさすり、口づけを落とす。

「チェルニュクは貴重な血を流したわ。もうこれ以上は要求されないはず。ゆっくり休んで、あなた」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ