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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
閑話
32/133

命題 【+広域地図】


「では、今日でお別れだ。身体を厭うのだぞ。睡眠と食事の大切さを忘れるな」

「はい。グラジェフ様も」


 感情を抑えてごく短い返事にとどめたのに、嗄れ声がさらにかすれて揺れた。エリアスは瞬きしてごまかし、ぎゅっと唇を噛む。泣くな女々しい、と己を叱咤して、強引に平気な態度を装った。


「どちらに向かわれるのですか?」

「エリュデ王国だ。都を拠点に、東部方面の巡回を受け持つことになった」

「……遠いですね」

「うむ。ちょうど欠員が出たものでな。エリュデとジェマインの間では小競り合いが絶えん。それに巻き込まれたらしい」


 やれやれ、とグラジェフがため息をつく。憂鬱を閉じ込めた白い靄が生じ、ゆっくり流れ去る。エリアスは不安と恐れをぎりぎり隠して瞳を揺らした。


「また、……お会いできるよう、祈っています」

「主のお導きがあるように」


 答えたグラジェフの声に、荘厳な鐘の音が重なる。大聖堂の敷地内だけで大小いくつもの鐘楼があり、それぞれが割り振られた時刻に鐘を鳴らすのだ。幸い遠くの小さな鐘楼だったので、エリアスは師の言葉を聞き取ることができた。

 もっとも、どんな言葉であっても涙を止める役には立たなかったろう。鐘の音が決別を宣告するように感じられて、とうとう瞼の熱がこぼれ落ちた。

 慌てて顔を伏せると同時に、力強い両腕に引き寄せられた。我慢できずに抱きついたエリアスを、グラジェフもまたがっしりと抱擁する。


「短い間だが、そなたは良い弟子だった」

 ささやいた声が湿っている。エリアスはそれが可笑しくて嬉しくて、こっそり微笑んだ。

「あなたは私の、かけがえのない師です。ご恩は決して忘れません」

「恩など構わぬから、教えを忘れんでくれ」


 ふっ、とグラジェフが失笑し、エリアスも苦笑する。師の頼もしさ温かさを最後に確かめてから、彼は心を決めて腕を緩めた。そっと身を離し、半歩下がって祝福のしるしを切る。

「主が常に汝の傍らにあり、お護りくださるように。あらゆる刃と穂先、鏃を、主の御手が防ぎたまわんことを」

 戦に赴く者に対する加護の祈り。いつぞやとは逆になった立場に、グラジェフはにやりとした。

「これで私も無敵になれそうだ。そなたにも主のご加護を。……達者でな、エリアス」

 祝福を返すと、さっと背を向けて歩きだす。それきり、彼は振り返らなかった。


 いつまでも見送るのは不吉だと言われているのに、エリアスは師の姿が雑踏に紛れて見えなくなるまで、なってからも、そこを動けなかった。

 グラジェフと共に旅している間に、もう一人の恩師ニィバは楽園に旅立った。かなりの高齢だったから覚悟はしていたが、これからはもう、誰も近くで見守ってはくれない。足下の穴を教え、迷った時に行き先を指示し、動けなくなれば手を差し伸べてくれる守護者はいないのだ。


 ぞくりと震えた直後、己を叱咤する。

(名実ともに独り立ちしたということだ、しゃんとしろ!)

 唇をきゅっと結び、根を生やしていた足を引き抜く。ぐずぐずしている余裕などない。また悪魔を殺しに行かなければならないし、その前にやるべき課題があるのだ――




 数日後。

 エリアスは大聖堂の奥深く、特に入り組んだ場所にある一枚の扉を前にしていた。鈍い黄金色にきらめく、全体がひとつながりの金属で出来ているとしか思われない、ずっしりした扉。大樹が全面に描かれ、複雑に絡み合った紋様に縁取られている。把手はない。

 高さはエリアスの頭上に拳ふたつぶんほど余裕があるだけで、上背のある者なら屈まないとくぐれないだろう。横幅も、片手を水平に伸ばしたらつっかえるぐらいだ。わざと通りにくいように造られているに違いない。


「司祭エリアス本人に間違いありませんな」

 銀環を確かめ、青白い顔の司祭が陰気で厳しいまなざしをくれる。エリアスがはいと答えると、彼は眉をひそめてつぶやいた。

「グラジェフ殿の弟子か」


 じろじろ検分されて、エリアスは不快と不安に身じろぎした。銀環を相手に握られているのが心許ない。

「……何か」

 黙って待っていられず聞き返すと、書庫の管理者はふいと視線を外して、預かった銀環を専用の小箱にしまった。掛け金を下ろして施錠し、鍵だけを差し出す。エリアスがそれを腰の帯紐に結わえると、管理者は脅しつけるような口調で説明した。


「かの御仁は変わり者ですからな。この書庫についてどうお聞きになっているか存じませんが、禁止事項をお伝えします。ひとつ、いかなる筆記具もここへ持ち込んではならない。ひとつ、この書庫において知り得た事柄をみだりに口外してはならない。……禁忌の知識であることは言うまでもありませんな。ひとつ、筆写そのほかいかなる手段によっても蔵書を複製してはならない。ひとつ、蔵書を持ち出し、あるいは毀損・汚損してはならない。すべての蔵書には護りの術が施されております。規則を破れば即こちらの知るところとなり、銀環を没収いたしますゆえ、ゆめ、お忘れなきよう」


 はい、とエリアスは神妙に答え、手振りで促されるまま扉の前に立った。

 管理者が小箱を置いた台のところで、こちらには聞こえないように何かを唱えると、黄金の大樹が瞬いた。無数の星が根から幹、枝から葉へと流れ、扉全体に広がってゆく。白い輝きが一面を覆い、ふっと消えた時、そこにはただ長方形の穴が開いていた。


 中はかなり暗い。完全な闇ではなく、床や天井らしき辺りにぽつぽつと明かりが置かれているが、どれもぼんやりとした弱い光だ。書庫全体が藍色の海に沈んでいる。


「これを」

 すっ、と手元に小さなランプが差し出された。書庫の光景に見入っていたエリアスは我に返り、急いで受け取る。不思議な、外の世界では一度も見かけたことのないものだった。

 金属の把手と受け皿は普通の手燭と似ているが、皿に立っているのは蝋燭ではない。極めて薄い磁器の円柱で、中に何を収めてあるのか、暖かく柔らかな光を放っている。揺れも瞬きもしない。秘術を用いた道具であるのは確かだ。看破の術をかけていなくても、独特の気配が微かに感じ取れる。


「その明かりが、向こう側から出るための鍵になります。……では、叡智の海に溺れぬようお気を付けて」


 陰気な決まり文句に送られて、エリアスは敷居をまたいだ。無事に通り過ぎてほっと息をついた瞬間、背後でチッと舌打ちが聞こえた。エリアスは思わずにやりとする。だが振り返って嫌味たらしく一礼してやろうとした時には、もう扉は閉ざされていた。

 残念、と彼は小さく肩を竦めた。管理者は警告しないが、実はこの扉は、文字を感知し焼き尽くす仕組みになっているのだ。


 ――やや複雑な調べ物をする機会があってな。忘れぬよう書き付けを持って入ろうとしたら、いきなり燃え上がって、火傷させられた。


 師の苦々しい声が脳裏によみがえる。筆記具はむろん銀環まで取り上げても、針で皮膚に文字や図を刻みつけるなど、あの手この手で秘密を持ち出そうとする輩が絶えないため、数百年前に大司教が数人がかりで仕込んだ術だとか。


 ――あの扉が通す知識は記憶のみだ。よってエリアス、そなたにこれから授ける課題も、記憶に刻みつけよ。そして焼き捨ててしまえ。


 師は一枚の紙を渡し、弟子は命じられた通りにした。目を瞑ると、まなうらにくっきりと文面が映る。力強く癖のある文字で記された、ふたつの命題。



『悪魔とは何か』

 一般司祭が説き人々が信じる通り、奈落から生じる邪悪の化身であるのならば、なぜ彼らは哀れみや蔑みといった感情を見せるのか。ダンカから祓った悪魔が女の声で泣いたように、人格を持つのはなぜか? 人を騙して取り入るための、いわば舞台衣装なのか。別な理由があるのか。


『世界における霊魂の総量は変化するか』

 外道は人の霊を食らう。悪魔もまた魂を奪い、かつ彼らは互いに共食いをもする。最後に我々が彼ら魔のものを滅した時、食われた人の霊魂はどこへ行くのか? 諸共にこの世界から消え去るとすれば、世界に存在する霊魂は次第に減少してゆくはず。主はそれを補われるのか、あるいは円環の断裂により叶わないのか。そもそもこの世界は本当に聖典に記された通り、楽園・地上・霊界・地獄の四層構造をしているのか?



 初めてそれを目にした時の言いしれない興奮がよみがえり、背筋にぞくりと不穏な疼きが走った。知らず、エリアスの唇は弧を描く。

 これは《聖き道》の教義そのものに対する重大な疑義、挑戦だ。師が変わり者とみなされ、一部から警戒されている理由。

 驚愕して師の瞳を食い入るように見つめたエリアスに、グラジェフもまた熱を秘めたまなざしを返してささやいた。


 ――考えろ。目を開き耳を澄まして多くを知り、考えるのだ、エリアス。黄金樹の書庫に明確な答えが用意されているわけではない。だが手がかりはあちこちに分散し眠っている。言葉と言葉の間、行からこぼれ落ちた情報、大司教や教皇聖下の説教に。悪魔どものささやきにさえ、真実の欠片は潜んでいる。見落とすな、惑わされるな……


 ああ、この人もやはり教会を信じてはいなかったのだ。そう理解した瞬間のあの歓喜を、何にたとえたら良いだろう。甘くきらめく蜂蜜酒の海に呑まれたような、輝く幸福と死の闇で織りあげた素晴らしい柔布に包まれたような。


 ほう、と息をつき、エリアスは興奮を静めた。

(溺れるな。グラジェフ様はそれでも主に祈り、救いを探し求めることを諦めていない。私とは違う。ただ……教会という存在そのものに、重大な疑いをお持ちなのだ。その究明に私を加えて下さった)

 心を凍らせ、理性を呼び戻すと現在に集中する。

 聖都で待機休息していられる期間は長くない。出立したら次に戻れるのがいつになるかもわからない。機会を逃さず有効に使わねば。


 青暗い闇に並ぶ書架の光景は、いつか訪れたどこかの迷宮を思わせた。この沈黙の底に真実がある。眠らず曇らず、息を潜めて身を隠し、誰かに掬い上げられるのを待ちながら。

 エリアスは明かりを手に、ゆっくりと書架の間へ踏み込んでいった。



 ――さあ行け、我が弟子よ。これからそなたは真に世界を知るのだ。



(終)






【広域地図】


挿絵(By みてみん)


1500年前の『円環の断裂』によって地形も大変動したため、でたらめな地形が各地にある。


大峡谷や断崖の印は数千メートル級の凄まじい絶壁で、通行は不可能。

森林は奥に入ると生還不可能なほど生い茂り、植生も異常になっていくため、こちらも突っ切って行くことはできない。(規模の小さい場所はなんとかなる)


現在砂漠になっている地域はかつて大河流域であり普通に人々が暮らしていた。

右下(東南)の大河源流は巨大な湖(淡水)。

大河は左上(北西)にもう少し進んでから外洋に注ぐ。

セイレア北端~シデュラ山脈をつなぐ線より北は断裂の影響をあまり受けていないが、元から寒冷な気候で居住困難であり、人口は非常に少ない。国らしいまとまりもあるが、言語も異なりあまり交流はない。


丘陵地帯や砂漠の周縁には国家をもたない遊牧の民が暮らし、あるいは貧しい人々の集落がある。(塩湖の干上がった岸で塩を採れば収入になるため)


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