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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
閑話
29/133

天の声を聞け(後)

 その日は、グラジェフが村長の家に泊まり、エリアスは教会の司祭室を使うことになった。

 幸い予備のシーツがあったので寝床を整えることはできたが、エリアスはあまりにも故人の気配が濃い部屋で眠る気になれず、礼拝堂の会衆席に座ったままぼんやりしていた。


 祈るでもなく円環を見上げ、物思いに耽る。

 おのれの故郷のこと、師のこと、今までに出会った人々について。

 だんだんと室内が暗くなってゆくのにも、気付いていなかった。薄闇に慣れた目はいつまでもはっきりと円環を映し、時を忘れさせる。


 不意に背後で物音がして、ぼんやりした藍色に沈んでいた世界にくっきりした濃淡が生じた。急に目が見えなくなったように感じてエリアスは瞬きし、振り返る。


「ああ、まだ起きていたのか」


 月明かりを背にして、グラジェフが立っていた。扉を開けたまま彼はすたすたと奥まで進み、祭壇横の灯明台に歩み寄って蝋燭を一本取ると、火を灯して捧げた。


「グラジェフ様こそ、こんな夜更けに」

「なに、まだ深夜というわけではなかろう。今日は落ち着いて祈る時間が取れなかったからな」


 抑えた声でしゃべりながら、グラジェフは祭壇前に両膝をついた。あとはもう弟子に構わず、円環と聖御子を仰いで聖印を切り、頭を垂れる。

 エリアスも邪魔せず、会衆席に座ったまま膝の上で両手を組み、黙祷した。染みついた習慣で祈りの聖句が口をつく。声を出さずに唇だけ動かした。

 深い静寂を、外から流れ込む生温い微風がもったりと撹拌する。虫の音が星屑のように散り、ホゥ、と柔らかな梟の声がそれを掃く。


 長い祈りの後、グラジェフはひとつ息をついて立ち上がった。ゆっくり振り返り、弟子の注視に気付いて眉を上げる。

「部屋では眠れんかね」

「それはいいんです」

 エリアスは首を振り、顔を伏せる。グラジェフは適当な席に腰を下ろし、腕組みして待つ態勢を示した。

 ややあってエリアスは、何を言いたいのか纏まらないまま、訥々と言葉を紡いだ。


「考えていたんです。もしイスクリにいたのがジアラス殿でなかったら。この村のようであったなら、誰も死なずに済んだのではないかと」


 すべての悲劇を防ぐのは無理でも、最悪の事態にならないような環境をつくる、それが司祭の本懐ではないのか……そうした思いつきまでは、口にできなかった。浄化特使になったことを悔いているとか、自分で宣言した使命に迷いを抱いているとは思われたくない。

 グラジェフの答えは意外なものだった。


「さて、分からんぞ」

「え?」

「この村にも、我々の目から隠されているだけで、教会に失望し司祭を憎む者がおるかも知れん。今日ここに着いてから我々が見たのは、積極的に葬儀に参加した村人だけだからな。あるいは、今でこそ慕われているが、かの司祭も若い頃には対応を誤り、誰かを失意や憤激に陥らせ、傷つけ、そのまま世を去らせたかも知れぬ。その時その場を見るだけでは分からんものだよ」


 ぽかん、とエリアスは絶句した。つい今まで、この村こそ地上の楽園、理想郷であると思い込んでいたのが、呆気なく崩れ落ちる。当惑に瞬きしながら、彼はなんとか言葉を押し出した。


「随分……慎重なのですね」

「疑り深くて悲観的、だろう?」

 グラジェフは自虐的に言い直し、辛辣に笑って肩を竦めた。

「悪魔どもを相手にしていたら、嫌でもそうなる。だからそなたは……」


 言いさして、口をつぐむ。ごまかすように顔を背け、彼は円環を見上げた。曖昧な沈黙の中に取り残されたエリアスは、息を詰めて続きを待った。

 私のようにはなるな、と言うのか。それとも、浄化特使などやめて今からでも別の人生を選べと諭すのか。

 だが今度も彼は、予想を外してくれた。


「なぜ司祭になったのか、とそなたは問うたな」

「……はい」

 エリアスは話について行けないまま相槌を打つ。振り向いたグラジェフは、いつもの温かく余裕のある表情をしていた。

「救ってくれた浄化特使が格好良かった、というのは強烈な動機だった。確かにな。だがその時の決意だけで、実際に司祭になるまでの十年以上、揺らがず惑わず過ごせたわけではない。弱気になったことも、別の道が魅力的に思えたことも、自棄を起こしそうになったこともある。何しろ私は、そなたほど優秀ではなかったからな。いや、本当だ」

 あからさまに疑いの目つきをしたエリアスに、皮肉でも冗談でもない、とグラジェフは苦笑する。

「司祭、わけても浄化特使になろうとすれば、あまりに多くが要求される。身体面はともかく、学問がつらくて逃げ出したくなったことは数え切れんよ」


 エリアスは師をまじまじ見つめた。積み重ねた経験と知恵でどっしりと落ち着き、賢明で判断力決断力にすぐれ、教義と秘術に精通している今の姿からは想像もつかない。まさか全部はったりで、まんまと騙されているのか? そんな馬鹿な。

 混乱気味の弟子に、師匠は思いやるまなざしを向けて続けた。


「とはいえ、心底本気で別の道を考えたのは、十八歳の時が初めてだった。十五で立てた堅信の誓いをもう一度、貞潔の誓いと共におこない、侍祭となる前だ。ここを越えたらもう絶対に変更はきかない、人生が決定される、と感じてな。……外道を退けるあの力を手に入れて、今度は自分が誰かを助けるのだと決意してはいたが、それでもやはり惑った。本当に己は司祭になれるのか、浄化特使になれるだけの能力があるのか。力不足で中途半端な聖職者にとどまるぐらいなら、剣術、武術で誰かを守るほうが良いのではないか、そんな風に」


「とても想像できません」

 思わずエリアスがこぼすと、グラジェフはおどけてにやりとした。

「光栄な褒め言葉と取っておこう。だがその頃は若く未熟だった。悩んだ末、一人で礼拝堂に籠もって徹夜で祈ったとも。そうして暁の光が薔薇窓から差し込んだ時、私は間違いなく己が司祭になるのだと(さと)った。そのように告げる天の声が聞こえたのだよ」


 あまりに自然な口調で言われたので、エリアスはすぐに反応できなかった。ぽかんとし、二、三度瞬きしてから「え?」と聞き返す。グラジェフが大仰に厳しいしかめ面をした。


「馬鹿者。そこは司祭らしく主を讃えるべきところだろう。そんな露骨に、正気を疑う顔をするんじゃない」

「申し訳ありま……いや、本当ですか? 主はなんと仰せられたんです?」

「それは教えられんよ」グラジェフは苦笑し、肩を竦めた。「実際、主が迷える子羊を憐れんで導いてくださったのか、それとも偶然そこにいた死者の霊か何かがお節介をしたのか、はたまた徹夜明けの朦朧とした意識が生み出した幻聴だったのか、真実はわからん。どうでも良い。とにかく私はその時、天啓を得たと確信したし、その確信は今に至るまで我が魂を支えている。それがすべてだ」


 穏やかな声音には、まさに言葉通り、揺るがぬ強さが太い背骨のように通っている。

 エリアスはしばし呆然とした。ベドナーシュ家が滅ぶのを黙って見ていた神が、司祭になるかならぬか迷っている少年には目をかけ、言葉を下されたと? それが本当なら、なんという依怙贔屓だろう。主の遠大なる計画などくそくらえだ。

 師の顔を見ていられず、彼はうつむいた。


「エリアス。悩み迷っているなら主に祈れ。いらえがなければ、答えは与えられるものではなく自力でたどり着かねばならぬということ、あるいはどのような選択も自由になすが良いということだ。結果にはそれほど大きな違いはない――個人の人生としては大きくとも、世界にとっては。本当に必要な時には、主は必ず手を差し伸べてくださる。信じろ」

「それでもあなたは、浄化のつとめを続けられないとおっしゃる」


 傷口を抉るだろうかと憚りながらも、エリアスは言わずにおれなくて反撃した。幸いグラジェフは予想していたようで、怯みもせずうなずいた。


「うむ。少し休みたいと祈り訴えても返事がないのでな、勝手に休ませてもらうつもりだ。なに、また主が私を必要となされたなら、否応なくその場に導かれるだろう。……そんな顔をするな。そなたはまだ二十歳で実感があるまいが、人生におけるどのような選択も出来事も、いずれ次の何かに結びつく。無駄や失敗はないのだよ、まさに主の御業のようにな」


「一族が死に絶えるような悲劇でも?」

 エリアスはうつむいたまま、つぶやいた。言った直後に後悔したが、口から出てしまった言葉は取り戻せない。

 慈悲深い沈黙の後、グラジェフがそっと弟子の頭に手を置いた。


「そなたにとっては悲劇でも、私にとっては福音だ。疲れ果て、どこかの路傍でむなしく塵となる前に、意志を受け継いでくれる弟子が現れたのだから。そして恐らく我らの出会いがまた別の苦しみを生み、喜びをもたらすだろう。目的のために犠牲が必要だったというような単純な話ではない。すべてが無限のかかわりの中にあり、そのひとつひとつを主はご存じだ。そういうものだよ、エリアス。自我に囚われず、天の声に耳を傾けなさい。理解できなくともな」


 静かに諭すと、彼は腰を上げ、もう休めとは言わず黙って礼拝堂を出て行った。

 夜風に揺られた扉が低く軋みながら、ゆっくりと閉じる。暗闇に残った蝋燭の火が消えるまで、エリアスはじっと動かなかった。




 明けて翌朝、グラジェフが欠伸を噛み殺しながら井戸へ洗顔に向かうと、驚き呆れたことに赤毛の若者が剣の素振りをしていた。

 こちらに気付いたエリアスは剣を下げ、おはようございます、と一礼する。グラジェフは曖昧な顔で応じた。


「随分早くから励んでおるな。何かお告げでもあったかね」

「いいえ、何も」

 エリアスは淡泊に答え、剣を一振りした。切っ先を睨み、確かめるように同じ動作をゆっくりなぞる。

「しばらく祈ってみましたが、何も聞こえませんし、何もわかりません。ただ、ニィバ様も以前、あなたと同じようなことをおっしゃっていたのを思い出しました。その頃はとても、聞き入れる余裕はありませんでしたが」

「ふむ」


 さもありなん。ぼろぼろに傷付き、怒りと憎しみに牙を剥いて唸る仔狼に対して、諭しの言葉など何の力があろうか。覚えられていただけでも奇蹟だ。

 グラジェフが顔を洗う間、エリアスは黙って素振りを続けた。最後に剣を天に掲げてから鞘に収め、深呼吸する。


「……だから、自然に答えを得られるまで待とうと決めました。歳月を経なければわからないのであれば、今できるのは、それまで死なないようにつとめることだと考えて」

「なるほど。賢明な判断だ」


 グラジェフは微笑んだ。つらい経験で厳しく頑なになってはいるが、根は素直なのだろう。年長者の言うことを頭から否定し反発するのでなく、理解納得はできなくとも、そういう言葉を授かったと胸にしまっておく。

 年寄りに優しい若者だ、などと自虐まじりの感想を抱いたところで、見透かしたかのようにエリアスが問いかけた。


「少なくとも、あなたの歳になるまでは待ちます。今おいくつですか」

「……改めて訊かれると老け込むな。三十七だ」

「では、あと十七年。死なずに生き延びられるように」


 エリアスは真顔で言い、手を銀環に添えて一礼した。グラジェフは今更に歳月の重みを痛感し、怯みそうになる。

 十七年。彼自身が浄化特使をつとめてきた期間よりまだ長い。それを死なずに――


(恐れを見せるな。若者の意志を挫くな)

 己を叱咤し、彼は呼吸を静めて銀環に触れ、祝福のしるしを切った。

「主が常に汝の傍らにあり、お護りくださるように」


 エリアスは畏まってそれを受け、口の端に笑みをのぼせる。何か可笑しいかね、とグラジェフが眉を上げると、素直な弟子は珍しく楽しげな表情を見せた。


「天の声は聞こえませんが、あなたの祝福があれば無敵になれる気がしますよ」


 言うだけ言って、師の反応を確かめもせず、さっさと教会に戻っていく。

 取り残されたグラジェフはぽかんと立ち尽くし、礼拝堂の扉がぱたんと閉まってやっと我に返った。やれやれと頭を振り、苦笑いする。

「天の声より師の言葉、か。未熟者め」

 司祭失格だぞ、とぼやきつつも、頬が緩むのを止められない。結局グラジェフはもう一度、井戸から水を汲んで顔を洗うはめになったのだった。



(終)

余談。特使は死にやすいですが、土地付司祭は一般人よりも概ね長生きです。

医療衛生の知識があり秘術が使えるので、外道の襲撃にでも遭わない限りは高齢になっても元気。


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