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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
閑話
27/133

人と人とのかかわりの中で

 通りの両側にぎっしり商店が軒を連ね、色とりどり形も様々な看板が掲げられている。梢のようなその下を行き交う、絶え間ない人の流れ。大市おおいちの期間ではないので混雑はそれほどでもないが、すっかり春爛漫の候とあって人いきれが暑苦しい。

 そんな中、一軒の店先で二人連れの司祭が品物を選んでいた。


「これが一番よく切れる剃刀ですよ。ただそのぶん、手入れもきちんとしていただきませんと」

 あるじがあれこれと説明しながら、剃刀に加えて革砥や収納袋など細々したものも一緒に売りつけようとする。赤毛の若者は余計なことを言ってボロを出さないよう、おとなしく黙って聞いているが、眉間の皺は明らかに「道具の手入れまでしなければならないとはなんたる手間だ」と憤慨していた。


「お客様はまだお若いし、髭も薄い性質のようですが……」

 あるじが客の事情に踏み込んできたので、横にいたグラジェフはぎくりと緊張した。急いで買うだけ買ってしまおうと口を挟みかけたその時、


「エリアス! エリアスじゃないか?」


 天の助けのごとく誰かが大声で呼んだ。見ると、若い司祭が手を挙げ、通りを横切って駆けてくる。

 妙なことに、グラジェフはわずかに不快をおぼえた。これは間違っている、と感じたのだ――弟子の名が喜びと親愛を込めて呼ばれ、知らない誰かが屈託なく朗らかに駆け寄るなんて。


 グラジェフが己の感情に戸惑っている一方で、当のエリアスは瞬く間に心を凍りつかせていた。表情が消え、身にまとう空気が真冬のごとく冷える。

 だがやって来た黒髪の青年司祭は真夏の太陽を背負っているようだった。まったく怯む様子もなく、満面の笑みで銀環に手を添えてグラジェフに一礼し、エリアスに向き合う。


「主に感謝を。久しぶりだな、こんな所で会えるなんて。そうか、無事に浄化特使になれたんだな。元気そうで良かった、ちゃんと食ってるか?」


 相手が露骨に一歩退かなければ、そのまま両手を握ってぶんぶん振るか、肩を抱き寄せて揺さぶりそうな勢いだ。

 まさかエリアスにこうも親しげに接する猛者がいるとは夢にも思わず、グラジェフは面くらってしまう。そんな師に説明するように、弟子は白々しく名を呼んだ。


「お久しぶりです、オリヴェル。あなたも相変わらずのようで何より」

「ああ、東区の教会で副司祭を務めているよ。皆いい人だぞ、泊まるんならこっちに来いよ」


 相変わらず、の言葉に潜む皮肉にはまるで頓着せず、オリヴェルは機嫌良く答えて招待してくれた。


 ちなみに副司祭というのは位階ではなく、所属する教会における役職名である。現在、各地の教会に在住する聖職者はほとんどのところで司祭一人だけで、正副の別はない。手伝いとして見習いを取ったり、侍祭や助祭を修練生として受け入れたりはするが、教会の切り盛りは司祭に任されている。

 だが大きな都市の教会に司祭が一人では手が回らない。というわけで様々な役職が設けられることになる。正・副司祭、書記や会計といった一般的なもののほかにも、その教会の運営事情に応じてあれこれの肩書きがある。


 オリヴェルはエリアスより三歳ほど年長で、先に司祭按手を受けて学院を出ていった。もう早々と副司祭を任されていると聞けばよほど優秀なのかと思うところだが、

「遠慮します。あなたの熱意を押しつけられて辟易している方々から恨まれたくないので」

 実績よりも笑顔と熱意でもって進路を切り拓く人物であると知っているエリアスは、冷ややかにそう応じたのだった。


 すげない対応をされたオリヴェルは不満げな顔をしたものの、やはり大して気にしない様子であっけらかんと言い返す。

「おまえは俺を誤解しているぞ。いや、仮に俺が迷惑をかけているとしても、それでおまえに八つ当たりするような人達じゃない。よそを訪ねる約束があれば仕方ないが、そうじゃないなら是非来てくれ。飯も美味いんだぞ、学院の食堂よりずっと美味い。おまえだっておかわりしたくなること間違いなしだ!」

 だから今すぐ一緒に行こう、とばかり腕に手を伸ばす。途端にエリアスが凍てつく一声を放った。


「触るな。迷惑だ」


 さすがにオリヴェルは怯み、火傷したように手を引っ込める。エリアスは吹雪のような視線に乗せてもう一言、

「買い物の途中ですので。失礼」

 婉曲な『失せろ』を投げつけて背を向けた。


 きっぱりはっきり拒絶され無視されたオリヴェルは、しょんぼりと眉を下げ、行き場のなくなった手で頭を掻く。一連の成り行きを見たグラジェフは苦笑を噛み殺した。

(まるで犬だな)

 喜び勇んで遊ぼうと猫にじゃれつき、鼻面を引っ掻かれてしまったような風情だ。そう考えると最初に感じた不快感が薄らぎ、いくらか寛容になれた。

 エリアスが店主に値段や使い方を確かめている間に、グラジェフは犬青年に話しかけた。


「東区を訪ねる用事はないが、後でなだめてみよう。そなたは学院でエリアスに良くしてくれたようだな」

「すみません、ありがとうございます。良く……と言うか、まぁ、なんとなく放っておけなくて。どうですか、あいつはちゃんとやれてますか? 相変わらず瘦せっぽちだし、あんな無愛想なんじゃ行く先々で苦労してるんじゃありませんか」

「苦労しておるよ」堪え切れずグラジェフは失笑する。「だがそれも修行だ。よく学んでおる。最初は必要最小限の事務的なやりとりしかせなんだが、今はそれなりに交渉や雑談もできるようになった」

「ああ良かった」


 ほっ、と心から安堵した声を出し、オリヴェルは大きな笑みを広げる。珍しいほど邪心のない明るい表情だ。どんな育ち方をしたらこんな青年になるのか、グラジェフは不思議に思いつつしげしげ観察する。当人は気付かず、エリアスの背に目をやった。


「あいつ、学院ではものすごく張り詰めた感じだったんです。ただ座ってるだけであんなにはっきり『近寄るな』と威嚇されてるのがわかるなんて、あいつを見るまで大袈裟な作り話だと思ってました。迂闊に声をかけたらその場で殺されそうなぐらいで」

「だのにわざわざ話しかけたのかね」

「ええ、まあ。だって司祭になろうって奴がそれじゃ、駄目でしょう。……いや、正直に言うとなんにも考えてなかったんですが」

 うーん、とオリヴェルは今さら考え込み、肩を竦めた。

「目の前で崖っぷちから人が落ちそうなら、手を伸ばすのをためらわないでしょう?」

「なるほど。司祭に相応しい精神だな」


 グラジェフは納得するしかなかった。この青年なら相手が誰でも全力で引き戻すだろうし、仮に引きずられて崖から落ちても、残る片手で木の根を掴んで這い上がるだろう。かなわず諸共に死んだなら、魂となった後も手を引いて楽園まで案内してやるに違いない。


 オリヴェルは面映ゆそうな顔をしたが、もう一度エリアスの様子を見て、目元を緩めた。

「浄化特使になるのが目的だと聞いた時は、こんな危なっかしい奴がそんなつとめに就いて大丈夫なのかと心配しました。凄い努力家だから、そりゃ、なれるだろうと思いましたが、悪魔を殺しに自ら奈落まで堕ちていきそうで……でも、大丈夫ですね。今はちゃんと安全なところに立ってる感じがします」


 ちょうどそこで噂の主が支払いを終えて振り向き、まだいたのか、と露骨に嫌そうな顔をした。オリヴェルは気にせず笑顔で歩み寄り、手を差し出した。


「邪魔して悪かったな。でも、会えて良かった。元気そうでほっとしたよ。……本当に、都合がつけばうちの教会に来てくれ。次の機会があるとは限らないから」

 そう言われては、エリアスも邪険にできない。渋々ながら握手し、譲歩した。

「都合がつけば、ええ、そうします。主のご加護がありますように」

「おまえにもな」


 オリヴェルは嬉しそうに答え、握った手にぐっと力を込めた。それじゃあ、と意外にさっぱりした挨拶を残して身を翻し、通りの反対側へ戻っていく。用事の途中だったのを思い出したのか小走りになり、じきにその姿は雑踏に紛れてしまった。


 途端にエリアスが深々とため息をついた。疲れもあらわに肩を落とし、頭を振る。グラジェフはまた最初の不快感が戻って来るのを感じながら、それを押し隠して言った。


「良い友人がいたではないか」

「友人になった覚えはないのですが」

「向こうはそのつもりだぞ」

「……私は苦手です」


 エリアスがげっそり呻く。グラジェフは同情を込めて苦笑しつつ、溜飲が下がるのを自覚した。それでやっと彼は己の内なる醜さを悟り、そっと銀環を握った。

(主よ、お赦しを。私は嫉妬したのか。なんと愚かしい)

 娘に近付く若い男に警戒する父親かのように。あるいは、優秀な弟子が己の与り知らぬ人間関係を結び、そちらに(ほだ)されるのを恐れる支配的な師のように。

(執着するとはこういうことか)

 独占欲や執着心を知らずに育ったわけではない。だが、それらが強いほうではないと思っていた。まさかこんな些細なことで不快になるとは。

 さてそうなると、己の判断は公平かどうか、いささか危うい。彼は弟子の様子を窺い、慎重に問うた。


「では、どうするかね。東区の教会に挨拶ぐらいはするか、それともいっさい近寄らずにおくか」

「近寄りたくありません」

 エリアスは即答し、その後でちょっと考えて、眉を寄せたまま問い返した。

「……行くべきだと思われますか」

「どんな理由で?」

「情報収集に。あるいは同学の(よしみ)で何か……いえ、必要ありませんね」

「そうだな。特段不穏な話も耳にせんし、訪ねても話題は学院の思い出に終始するだろう。そなたの身の上を探られる危険を冒すよりは、近寄らぬが安全だが……良いのかね」

 らしくもなく念を押した師に、エリアスは訝しげな目つきをした。

「私が旧交を温めたがっているとでも? 友人のつもりでいる彼には悪いと思いますが、正直、あの五年は振り返りたくありません。さあ、もう買い物は済みました。次へ行きましょう」


 うむ、と応じてグラジェフはゆっくり歩き出す。弟子が右側のすぐ後ろ、腕が触れそうなほどのそばに付き従う。その近さがくすぐったく嬉しくて、いかんな、とグラジェフは得意になりそうな己を戒めた。


「つくづくそなたには多くを学ばされるよ、エリアス」

「……? 手がかかるという意味ですか」

「そうではない。人とのかかわりの中で己自身を見出せる、という意味だ。弟子を持ったのは初めてだからな、学院で先輩風を吹かせていたのとはまったく違う。自分がどんな人間かを新たな目で見ることになって、良くも悪くも退屈せんよ。いずれそなたも、わかるだろう」


 グラジェフの感慨を、エリアスは神妙に拝聴している。そうですね、と応じた小声には、複雑な色が込められていた。



(終)


オリヴェルは第三部で再登場する予定。ちらりと顔見せ。(果てしなく遠い伏線)

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