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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
閑話
26/133

男/女 は楽でいいな

師弟漫才。飲み物注意。

 露に湿った柔らかな空気を吸い込み、エリアスはうんと伸びをした。気持ちのいい朝だ。

 小さな村は平和で何事もなく、古い教会には奇跡的に宿坊が付属していて、昨夜はぐっすり安眠できた。実に清々しい。

 たっぷりと新鮮な空気を堪能してから、彼は川辺へ向かった。村には井戸もあるが、洗顔ぐらいなら水のきれいな川で充分だ。木立の間をのんびり歩いていると、村から小走りにやって来た少女とぶつかりそうになった。


「あっ……すみません」


 前をよく見ていなかったのだろう。お下げ髪の少女は白い頬を赤らめて謝り、持っていた衣類をそそくさと抱えなおした。洗濯とは珍しい、とエリアスは怪訝に思い、次いで濃い赤褐色の染みが目に入ってああと納得した。礼儀正しく気付かぬふりをして道を譲る。

 少女はぺこりと頭を下げると、耳まで桃色に染めて下流のほうへ走り去った。


(経血がついてしまったんだな)


 自分も何度か侍女の手を煩わせたことを思い出し、微妙にばつが悪いような心地で頭を掻く。エリアスは歩みを再開し、あの苦労がなくなったのは助かるな、などと他人事のように思った。自身の月のものは、五年前から止まったきりだ。毒のせいなのか、命をとりとめた後で極端に痩せてしまったせいなのか、それともあるいは、復讐の決意を主が後押ししてくださったのか。


 川辺に出ると、グラジェフの背中があった。岸に屈んで水を覗き込んでいるようだ。

 おはようございます、とエリアスが声をかけると、ああおはよう、と肩越しにちらりと視線をくれて、手桶に水を汲んだ。


(男女の身体が逆でなくて良かった)


 唐突にそんな考えが降ってきて、エリアスは笑いそうになった。男女の生理が逆で、男に月のものがあったとすれば、司祭になるため性別を偽るのも難しかったに違いない。胸に詰め物だって必要だろう。

 妙な可笑しみをこらえるエリアスの前で、グラジェフは小袋から石鹸を取り出して泡立てると、


(その点、男というのは楽なもので……)


 おもむろに顎まわりに泡を塗り、桶の水面に映る顔を見ながら剃刀を当てた。


(楽な……)


 そう言えば、師の身繕いを近くで見るのは初めてだった。

 眼前の光景を理解するにつれ、血の気が引いていく。愕然としたまま石像のように立ち尽くすエリアスの前で、グラジェフは慎重に剃刀を動かし、ひとすじのきれいな部分をつくると、弟子を見上げて意味ありげな目つきをした。


「単独行動になれば、気にする必要もあるまいが」

 白々しいほど平静に、淡々と事務的な口調を装って忠告する。

「それでも同じ場所に数日留まり、同じ顔ぶれと付き合うことになれば、注意せねばならんぞ。わざわざ見せる必要はないにしてもな」


「……っ」

 エリアスは顔を覆った。なんたる不覚。髭剃りのことなど、完全に失念していた。そんなものの必要など、まったく認識していなかった。共に旅してそろそろ二月になろうというのに、一度も髭を剃らずにすべすべの肌を保てる男がいるものか。

 赤毛を掻きむしりたい悔しさをどうにか堪え、沈痛な面持ちで畏まって師に頭を下げる。

「グラジェフ様、どうぞ……ご教授お願いいたします」

 真剣そのもので頼んだ弟子に、師匠はうっかり大笑いしてしまい、顎を血塗れにしたのだった。




 グラジェフはどうにか髭剃りと傷の手当てを済ませると、痛いのと可笑しいのとでややこしい顔をしながら言った。


「学院ではどうやってごまかしていたのだね。十五歳で入ったのなら、まだ生えてこないというのも通用したろうが、五年の間にはさすがに不自然になったろう」

「そうした事は、あまり……個室をあてがって頂きましたし、ニィバ様の司祭館を自由に訪問できましたから、入浴などもその時に」

 エリアスはもぐもぐ答えて顔を洗う。グラジェフは呆れ声を上げた。

「そなた、随分と贅沢しておったな!」


 私の学院時代の苦労を聞かせてやる、とでも言い出しそうな声音に、エリアスは微苦笑する。この師にも自分や同期の学友たちと同じような年頃があり、同じ場所で同じような日々を過ごしたのだと思うと、なにやら親近感でくすぐったくなった。


「要らぬ詮索をされないよう、ハラヴァ枢機卿とニィバ様が手を回して、私は『さる高貴な御方の落とし胤』なのだという話にされたんですよ。だから特別扱いも、羨まれはしましたが、それなりに納得され認められていました。……まぁ、大司教以上の位で赤毛の方には、いささか災難だったでしょうけれども」

 エリアスが言葉尻で肩を竦めると、グラジェフは愉快げに笑った。

「ハラヴァ枢機卿も、自分に疑いがかかる心配がないからと、はた迷惑なことをなさるものだ」


「ええ。最初はさすがに申し訳なくて肩身が狭い思いでした。もっとも、貞潔の誓いが公然と破られているのを知ってからは、同情しませんでしたがね」

 さらりと冷ややかに言い捨てる。学友らがつるんで娼館に行こうと企てているのに誘われた時は愕然としたし、それが学院で黙認されている伝統と知った時には幻滅もいいところだった。


 弟子のまなざしが急に氷点下に冷えたもので、グラジェフは笑いを飲み込んでたじろいだ。

「いや、待てエリアス。何を見聞きしたか知らぬが、皆が皆そうではないぞ。現に私は誓いを守っておる」

「そうですか? 私は気にしませんよ」

「嘘ではない! そんな目で見るな、本当だ! 神に誓って!」


 グラジェフは赤くなって悲鳴じみた声を上げる。なんだってこんな、浮気を疑われて言い訳するかのような、あるいは思春期の潔癖な娘に「お父さん不潔」だとか言われたかのような、情けない思いをせねばならんのだ!

 うなだれた被疑者に、エリアスが無慈悲な一言をくれた。


「冗談です」

「…………」


 がく、とグラジェフは地面に手をつく。すっかり心を許してくれたのは結構だが、ちょっとばかり親愛の情の表現方法が間違ってないだろうか。

 ため息をつき、清流で手を洗って立ち直る。


「冗談ならそれらしい顔をしてくれ。にやにやするとか」

「あいにく、五年も無表情でいると顔の筋肉がすっかり固まってしまいまして」

「……それも冗談だな?」

 グラジェフが胡乱な目でじろりと睨むと、若者は澄まして受け流した。

「さあ、どうでしょう」

 とぼけたものの、じき堪えきれなくなって唇がほころぶ。エリアスは口元に拳を当て、咳払いしてごまかした。


 やれやれ、とグラジェフは頭を振り、洗面道具を片付ける。女は楽でいいな、などと内心羨みつつ。

「次の町で良く切れる剃刀を買わねばなるまい。持っておらんのだろう?」

 教会に戻るべく歩きだすと、エリアスも横に並んだ。

「はい。ですが実際に使う必要がないのなら、何でも構わないのでは」

「馬鹿者。そなたほど完璧に手入れしている者が、なまくらの剃刀しか持っていないわけがなかろう。切れ味が悪いとやたら痛い上に剃り残しも多くなるぞ」

「なるほど」


 エリアスは至って真面目に思案する。グラジェフはその横顔をちらりと見てから、なんとなく空を仰いだ。

 貞潔の誓いを守り子供のいない身でありながら、息子でなく娘に髭剃りを教えることになろうとは。

「人生とはつくづく、何があるやら分からぬものだな……」

 つい声に出してぼやいた師に、弟子はちょっと眉を上げただけで、質問はしなかった。



(終)

※ニィバ様…五年前にエリシュカを保護した司祭(本編冒頭の按手礼に登場)


グラジェフは流石に毎日髭剃りする暇はないので、うっすら髭面の日が多いです。もじゃもじゃになる前に剃る。

エリアスが注意して見ていたら変化のサイクルに気付いたはずですが、余計な関心を引かないよう相手を見ない癖が学院時代の五年で染みついているため、髭のことなど失念していた……という話。

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