終-2
「うっ……く、ぅ……っ」
ぽろぽろと涙が地面に落ちる。情けなくいじましい、ありふれた悲しみ。
「あ、あいつのせいだ……っ! あんな目で、誘惑するから……、あんな、淫らな」
今度は女が悪いと言い出した司祭に、グラジェフは隠しもせずため息をついた。そして不意に、穏やかな声音で語りかける。
「そうだ、誘惑してきたものが悪い。そなたに罪はない、辱めを受けるいわれはない」
急に許されたもので、ジアラスは怪訝と疑念をないまぜにした顔を上げた。疑いの視線の先で、浄化特使は静かに続ける。
「そなたを苦しめるものすべてを遠ざけ、消し去ってやろう。……そう言って誰かが手を差し伸べたら、今の貴殿はそれを取るかも知れんな」
はっ、とジアラスが息を飲む。黙って聞いていたエリアスも身じろぎした。グラジェフは疲れた気分で顔をこすり、小さく首を振る。
「貴殿を追い詰めるつもりはなかった。良かろう、貴殿の名は記すまい」
「…………」
譲歩を引き出したジアラスは、しかし喜びも安堵も見せず唇を噛んで無言だった。
と、その時、小屋の扉が荒々しい音を立てた。
「ダンカ! お待ち、ダンカっ!!」
母親が叫ぶ。グラジェフは「くそっ」と罵り、走り出した。エリアスもすぐに従う。戸口のところで、ベルタが娘を呼び戻そうと声を嗄らしていた。
「あたしが悪かった、戻ってきとくれ! ダンカぁ!! ……ああ、司祭様。言いつけ通り伝えました、あの子もちゃんと理解したみたいだったのに、急に」
言う間にもダンカの姿は小さくなる。斜面を駆け、森とは別の方へどんどん登っていく。あっちは崖が、とベルタが絶望的につぶやいた。
グラジェフはすぐさま後を追った。ダンカは小屋の外で交わされる会話を、断片的に耳にしたに違いない。彼女が誘惑したのだと非難する声を。そして、そんな司祭が罷免されることもなく教会に居座るらしいとわかって、もはや己が主の救いに与る未来はないのだと……
女とは言え山に慣れた足は速い。少しずつ距離は縮まっているが、追いつけない。目指す稜線が妙にくっきりとして、向こう側の景色と断絶がある。あそこが崖になっているのだ。
同じく緑の草地を走る姿でも、悪魔に憑かれて歌い踊っていたほうが良かった。放っておけば良かったのだ!
怒りに満ちた後悔を力に変えて、グラジェフはさらに足を速める。あと少し。あと少しで指が届く――。
ひらり、女が宙に舞った。
間に合わない。届かない。エリアスが崖っぷちに倒れ込んで身を乗り出したが、無駄だった。
グラジェフは伸ばした手を、二本指を揃えて突き出す剣の形に変え、叫んだ。
「ダンカ、《 》!!」
決して聞かれてはならない、見られても知られてもならない、禁忌の最たることば。女を取り巻いて銀光の環が生じる。直後、光は胴体を断ち切るかのように収斂した。
パシン、と見えない何かが弾ける。続けて重く鈍い音が響いた。
息を切らせ、銀環を握った左手を胸に当てて痛みを堪えながら、グラジェフはよろよろとエリアスの傍らに膝をつく。
「間に合った、か……?」
崖の下で、岩に直撃した女の身体がひしゃげていた。そこからすうっと白い影が立ち上がる。人の形をしたそれは、二人の司祭をぼんやりと仰ぎ見たようだった。何を訴えようというのか、それともただ挨拶のつもりなのか、両手を差し伸べる。その動きにつられるように影はふわりと浮き上がり、足下から巻き取られるようにして消えていった。
グラジェフはそれを見届けると、両肘を地面についてうずくまった。まるで自分の命も一緒に削り取られたかのように苦しい。この術を使うといつもこうだ。そのうち本当に共倒れするのではないかと思う。それでも、自ら命を絶つに任せることはできなかった。
「……無事、霊界に旅立てたようですね」
エリアスがささやく。そうだ。自死した者の魂は地上に囚われ、いずれ外道の餌になる。たとえ楽園には入れずとも、せめて霊界に送ってやらねばならない。それが司祭のつとめ。だが。
「救えなかった」
痛苦の呻きが、食いしばった歯の間から漏れた。グラジェフは堪えきれず突っ伏す。
「また、救えなかった……!!」
これで何度目だ。何人死なせた。結局いつも憑かれた者を救えないのなら、祓うことに意味はあるのか。
声にならない慟哭が身を震わせる。息ができない。新人が見ていると意識する余裕もなかった。
そのエリアスが、肩に触れたようだった。ほんの一瞬、指先だけ。すぐに思い直したのか、それきり気配が遠のく。おかげでグラジェフはどうにか、今の自分の立場を思い出した。新人を守り導く監督官でありながら、このつとめの絶望的な面をさらけ出すとは情けない。
拳を握り締め、強いて深く息をする。ようやくのこと身を起こして周囲を見回すと、エリアスは数歩離れたところに立って、遠くの山並みを眺めていた。
(やれやれまったく、すっかり落ちぶれたものだ。こんなに気遣われるとは)
皮肉まじりに思いつつ、グラジェフは用心深く立ち上がる。大丈夫だ、息はできるし胸も痛まない。ほっとして空を仰ぎ、祈りをつぶやく。顔を下ろすと、こちらを見据える若者とまともに目が合った。
たじろいだグラジェフを、エリアスは真正面から見つめ、はっきりと力強く断言した。
「救いなんてどうでもいい。あなたは正しい事をしたのです、グラジェフ様」
「――!」
思いがけない言葉を聞かされ、グラジェフはぽかんとした。凝視されたエリアスは、自分で言っておいて気恥ずかしくなったのか、ふいと視線を逸らしてしまう。
「……ふむ」
グラジェフはつぶやき、相手に言われたことを反芻してみた。
「正しい事、か。なるほどな」
今すぐにそうかと納得できるわけではないが、それでも、「正しい」という言葉は司祭のつとめや主の救いといった枠を越えるものだ。そこに何か抜け道のような、少し楽になれるものが隠れている気がして、彼はそっと微笑んだ。
※ ※ ※
二人の浄化特使は、ダンカの弔いが済むまで町に留まった。憐れな女は悪魔に騙されていたのであり、その死は既に清浄であると住民に示すためだ。
悪魔は完全に祓われ、街にも、生前のダンカと関わりがあった者にも、穢れは残っていない。だから不必要に怯えるな、隣人を疑うな……と。
独りになってしまったベルタは、妹のところへ身を寄せるつもりだと言った。小さなヤナの墓と並んだ新しい墓標の前で肩を落としてうずくまる姿は、今にも壊れそうに見えたが、それを支えるのは地元司祭と親類縁者の仕事だ。グラジェフにもエリアスにも、できることはもうなかった。
滞在中は二人共、教会に寝泊まりし、報告書の作成にも取り組んだ。次に向かう東の町はここより大きく、伝令特使が常駐しているから、聖都に届けるよう頼めるだろう。
ジアラスは結局、報告書の内容を確かめることはしなかった。名を記されても構わないと自ら言い出しはしなかったが、己が悪魔の誘惑に堕ちる際まで行ったと気付かされたことは、それなりの衝撃だったようだ。
それでもグラジェフは約束を守った。今この時期にこの町で教会を守っていたのがどの司祭か、別の記録を調べたら判明するが、そこまでする必要が生じない限り、ジアラスの名が聖都で学徒の目に触れることはないだろう。
そうして諸々の用事を片付けた二人は、再び旅路についた。
降り注ぐ春の陽射しが土を温め、旅人の心を軽くする。
エリアスは振り返って山の斜面を眺め、ぽつんぽつんと点在する小屋の中からベルタの家を見付けようとしていた。グラジェフも急かしはせず足を止める。穏やかな沈黙を風が渡り、遠くから雲雀の声を運んできた。
「……そろそろ、浄化のつとめを退こうかと思う」
何の前置きも脈絡もなく、グラジェフの口からそんな言葉がこぼれた。エリアスは素早く振り向いたが、驚きはしなかった。ただじっと相手を見つめ、続きを待つ。忠実な猟犬のようなその態度に、グラジェフは苦笑を返した。
「むろん、そなたが単独でつとめを果たせると確かめた後で、だがな。さすがに少々疲れたよ」
エリアスは無言で顔を伏せ、表情を隠す。言いたいこと、伝えたい想いは、胸に渦を巻いて溢れそうなのに、一滴すらも言葉にならない。あれこれ迷って悩んで、長らく黙考した末に、彼は顔を上げて訥々と言った。
「ではそれまでに、学べる限りのことを学ばせてください。あなたの意志を受け継げるように。あなたがこれ以上進めないと、足を止めて休むことにした道の、さらに先へと進めるように」
「私の意志など継いでも仕方がないぞ、エリアス。そなたの目的は仇を討つことだろう」
「ええ、そうです。すべての悪魔を滅するのが私の望み。そしてそれは、あなたの目指すところとも重なっていると思いますから」
生真面目に言ったエリアスに、グラジェフは眉を上げる。そうかね、私は悪魔を放っておいたほうが良かったなどと考えたのだぞ――と、自虐まじりの皮肉が表情に浮かぶ。エリアスはそれを間違いなく読み取った。
「すべての悪魔が地上から消えたなら、あなたがそんな風に苦しむこともなくなる。人の欲や醜さ愚かさは変わらなくとも、そこに付け込んで悲劇の種を蒔くものはいなくなる。主の御手が届かないのなら、私が代わってそれを成し遂げようと思うのです」
意気込みというのでもなく、恨みや憎しみに駆られてでもなく。エリアスは自分でも意外なほど平静にそう言ってのけた。
グラジェフが目を丸くして呆れる。さもありなん、司祭になりたての若造が主の代行者を自負するとは!
だがエリアスは真顔で肩を竦めただけで、恥じ入りも訂正もしなかった。
ややあって、先達の口から小さな笑いがこぼれた。嫌味のない、温かな笑いだった。
「ああ……うむ。そうだな。では行こうか」
「はい」
それ以上のやりとりは必要なかった。二人は並んで歩き出す。
空は青く澄み、どうやら雨は降りそうになかった。
(了)




