終-1
終章
「……では、ベルタ殿。もしダンカが目を覚ましたら、悪魔に唆されて犯した罪は通常の法では裁かれない、と教えて安心させてやりなさい。すべてが帳消しにはならぬが、決して先行きに絶望することはない、とな」
しばしの後、術の後始末を終えたグラジェフは、家主と地元司祭にダンカを見ているよう頼み、弟子を促して屋根裏へ上がった。
エリアスは階段梯子を上るにも背中が痛み、歯を食いしばっている。グラジェフは怪我人を気遣って二人分の鞄を運び上げ、急いで中身を探った。
「喉もひどいが、背中が心配だ。見せなさい」
さすがにエリアスはぎょっとなり、慌てて強がった。
「ぶつけただけです、大したことはありません」
「そなたは鏡もなしに自分の背中が見えるのか。どこに第三の目がついているのだ」
グラジェフは不機嫌に唸り、軟膏入れを取り出した。癒やしの術を併用すれば、大抵の外傷を治せる薬だ。司祭にとってはお馴染みの常備薬。エリアスも知っているはずだが、今の彼はまるでそれが猛毒かのように怯んだ顔をしていた。
両者は共に、しばし身じろぎもせず対峙する。ややあってグラジェフは、姿勢を正しておもむろに頭を下げた。
「私の落ち度だ。終わったと思って、よそ事に気を取られていた。新人を守るべき監督官として、あってはならない油断だった。だから、頼む。手当てをさせてくれ」
真摯にそこまで言って顔を上げ、わずかなためらいの後、エリアス、と呼びかける。もうひとつの名を知っていながら、敢えてこちらを選んだのだと伝わるように。
若者は小さく息を飲み、目を伏せた。一呼吸、二呼吸。それから彼はうつむいたままくるりと後ろを向き、恥じらいも躊躇もなく服を脱いで床に座った。
あらわになった背中を見て、グラジェフは思わず呻いた。ごまかしようもなく華奢な女の背。その白い肌に場違いなほどくっきりと痣ができている。強くぶつけた場所は皮膚が裂けて血が滲んでいた。
もし落ちていたのが木切れでなく鋭利なものであったら、あるいはダンカが剣を奪い取るほどの機転を利かせていたら、あの一瞬でこの若者は死んでいたかもしれないのだ。悪魔の言葉に引きずられ、憐れみに気を取られたわずかな隙に。
己の油断を責め、彼は口の中で主に赦しを乞うてから、軟膏を指に取って痣に当てた。
最初の接触だけエリアスは竦んだが、それ以降はじっと動かなかった。グラジェフは静かに、癒やしの聖句を唱えながら痣とその周囲にも軟膏を塗り広げる。薬が浸透するにつれ、少しずつ赤黒い痣は薄れ、裂傷がふさがっていく。
聖句を唱え終えても、彼は指先を離せなかった。痣はまだ残っているし、傷の周囲の皮膚は引き攣れている。完治するには数日かかるだろう。
とうとうたまりかね、彼は両手を若者のこめかみに添えると、頭頂にそっとくちづけを落としてささやいた。
「主が常に汝の傍らにあり、お護りくださるように。あらゆる刃と穂先、鏃を、主の御手が防ぎたまわんことを」
戦に赴く騎士に授ける加護の祈願だが、唱える声はあまりに哀しく痛ましい。ほとんど涙声になりかけている。エリアスが振り向かないまま、ふっと苦笑した。
「そんなに私の背は頼りなく弱々しいですか」
「ああ、そうとも」
グラジェフは瞬きして感情の波を静め、終わりだというしるしに手のひらでぴしゃりと肩を叩いてやった。軟膏を片付けながら、先達としての口調を取り繕って続ける。
「そなたの背は、自分で思っているよりもずっと細く薄く、脆く弱い。背負えるものはわずかだ。いつまでも際限なく重荷を負ったまま歩いて行けると過信するな。……少しずつで良い、荷を下ろせ。そして主にお任せしろ」
エリアスはすぐには答えなかった。無言で服を身に着け、考え深げな表情でこちらに向き直る。そうしてひとまず彼は頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげで痛みが引きました」
「うむ。だがあと二、三日は大事にするのだぞ。喉はどうだ、自分でできるか」
「癒やしの術のおかげでこちらも楽になりました。手当ては必要ないと思います。……グラジェフ様、よそ事に気を取られていたとおっしゃったのは、何にです? 私のやり方があんまり拙かったから、どう説教しようか考えるのに忙しかったのですか」
冗談か皮肉のような言い回しを、それにしては真面目すぎる口調で言い、エリアスは心持ち首を傾げる。判断しかねたグラジェフは眉を上げ、次いで苦笑した。
「いや、そう悪くはなかったぞ。小物が相手とはいえ、地元司祭から充分な情報を得られず、契約者はまともな論が通じず、しかも予想外の闖入者に調子を狂わされたが、そのわりには順当に祓魔の手順を行えたではないか。欲を言えばもう少し準備に時間をかけたかったが、機を逸するよりは良い」
「準備……ですか」
ふむ、とエリアスは考え込む。どうやらさっきの質問は皮肉ではなかったようだ。グラジェフは答えをはぐらかしたことに気付かれなくて安堵しつつ、さて、と立ち上がった。
「反省点については後で報告書を作成しながら検討するとしよう。今はダンカの様子を見に行かねばなるまい」
はい、と素直に応じた弟子を連れ、居間に下りる。ベルタの姿がないのは、仕切りの奥で娘に付き添っているのだろう。ジアラス一人がうろうろしながら待っていた。
「あっ……お二方、その、少しお話が」
声を潜めて呼び、扉を開けて外へと促す。グラジェフは不審に思って眉を寄せたが、女たちは落ち着いている様子だったので、そのままエリアスと共に小屋から出た。およそ何を言い出すかは見当がついている。悪魔に暴露された罪を言い繕い、口止めしようというのだろう。
ジアラスは扉を閉めて小屋の横手にまわり、丸太のベンチを示した。
「どうぞ、お掛け下さい」
「長くなるのですかな? でしたら後ほど、街に下りて教会で伺いましょう」
グラジェフが冷ややかに応対する横で、エリアスも座ろうとせず立っている。ジアラスは鼻白み、そわそわと足踏みした。
「いえ、簡単な話です。その……つまり、悪魔の、あの発言ですが。報告書に記す必要はないと思われませんか?」
やはりな、とグラジェフは醒めた気分で受け止める。エリアスが険しい顔になり、それを見たジアラスはうろたえて早口になった。
「本当に私は何もしていません、あれはただの言いがかりですよ。狼狽したのは確かに修養が足りませんが、私はただ彼女の相談を受けただけで」
「本当に?」
あからさまな苛立ちを込めて反問したのはエリアスだった。グラジェフは止めるべきか迷ったが、無理に黙らせても納得しないだろうし、余計に辛辣な報告書になるだろう。諦めて手綱を放り出し、彼は傍観を決め込むしるしに腕組みした。
その間にもエリアスは鋭く追及していた。
「本当に何もしなかったと、主と聖御子の御名にかけて誓えますか。励ましに見せかけて手を握り、その接触に疚しい妄想をしなかったと? あなたを頼りにして縋る彼女を、己が欲望のままにしたい誘惑に駆られなかったと誓えるか。そうした浅ましさを、目つきにも仕草にも声音にも、いっさいまったく表さなかったと言えるのか?」
厳しく難詰され、最初は怯んで縮こまったジアラスも次第に顔を赤くし、攻撃が止まるや否や語気を荒らげて言い返した。
「うるさい! その若さで特使になった秀才に、凡人の悩み苦しみがわかるか! それとも何か、君は男にしか欲情しない性質かね」
悔し紛れの暴投だ。グラジェフが眉間を押さえ、エリアスはますます嫌悪と軽蔑をあらわにする。ジアラスは失言を悟り、白々しく咳払いして強引に取り繕った。
「とにかく、事実として私は何もしておらんのです。グラジェフ殿、私はこの場にいなかったことにして頂けませんか。それで何も問題はないでしょう。……そうすれば私も、余計なことは聞かなかったことにできます」
苦々しくもふてぶてしく、最後の一言を付け足す。グラジェフは腕組みを解き、前に進み出た。
「何をおっしゃりたいのですかな」
歴戦の浄化特使が放つ威圧感にジアラスは怯んだが、保身の欲が勝った。開き直って鼻を鳴らしさえする。
「あなたは、悪魔に唆されて犯した罪は裁かれないと言った。ダンカの罪を見逃してやろうと。しかしですね、教会の定めと世俗の法は異なるもの。イスクリには王国法を護持する役人と兵士が、まぁ形ばかりとはいえ、常駐しております。自警団もあり、住民には住民の決まり事がある」
えへん、とジアラスは勿体ぶって胸を反らした。グラジェフは険しい顔のまま、内心で呆れる。特使を前にして脅しめいたことを言えるとは、なんたる強心臓か。身動きできない悪魔に嘲られただけで腰を抜かした男が、世俗権力を盾にすればこの通りとは。
(まったく、随分と新人に多くを学ばせてくれることだ)
皮肉な考えは口に出さず、彼は感情を隠して淡泊に応じた。
「ジアラス殿、記録の重要性をご理解頂けておらんようですな。悪魔がどのような点に付け入るか、どういった事柄を攻撃の材料にするか、そして我々司祭はどのように対処すべきか。これらを疎かにしてはならんのです。貴殿の過ちが事実どの程度のことであったか、それは重要ではない。今回の報告を元に貴殿が懲罰を受けることもない。心に疚しいところがないのなら、無用に恐れて大袈裟な反応をなさるな」
一応は丁寧な言葉遣いを保ったが、同じ司祭が相手とあって、いささか手心が足りなかったようだ。安心納得させるどころか、逆に反発を強めてしまった。
ジアラスは耳まで赤く染め、鼻孔を膨らませて、震える指先を特使に突きつけた。
「し、し、失礼だろう!! よくも、人を卑しい虫けらのように……っ! ああ、清く正しく立派な特使様にとっては、ただの司祭なんぞ取るに足らんのだろうとも。想像もつかんのだろう、じ、自分の名前が、不名誉な、悪魔の偽りと共に記されて、保管され……何十年、何百年」
そこで彼は指先をエリアスに向け、憎々しげに唾を飛ばして罵った。
「そいつみたいな若造が何人も、何十人も記録を読み、私の名を、蔑みの目で見る! どれほどの屈辱か、想像もつかんのだろう!!」
卑小な、しかしあまりにも切実な苦しみの叫びだった。
グラジェフはなだめる言葉が見つからず、瞑目する。
考えすぎだ、誰も貴殿を辱めはしないし、そもそも記録を読む者はほぼ確実に貴殿を知らないだろう――そう言ってやることはできるが、受け入れられまい。おまえのちっぽけな自尊心などどうでも良い、との意図だとしてますます憤慨されるだろうし、本音を言えばその通りだから。
(やれやれ、誰が『人の思いに寄り添』えるだと?)
面倒くさいな、という心情が態度に出てしまったらしい。ジアラスが敵意と憤怒を剥き出しにし、一段と声を荒らげた。
「あんたらが、要ると言ったから! 身代わりになるものをくれと頼んだから、持ってきてやったんだぞ!? そのせいで巻き込まれて、ああ、しかも怪我までしたっていうのに、感謝どころか侮辱されるとは! 冗談じゃない、いいか、私の名を記録するな。報告書は私が目を通して修正する。断るならこっちにも」
「そこまでだ」
金切り声の非難を、重く低い一言が断ち切る。グラジェフはずいとジアラスに迫り、胸に光る銀環を掴んで鎖を引っ張った。
「それ以上は言わぬが身のためだ、ジアラス殿。私は緊急措置として他の司祭の銀環を没収する権限がある」
ジアラスがぎょっとなって竦んだ。赤かった顔から見る間に血の気が引く。
そもそも特使はすべて、土地付き司祭を査定する権限がある。年報を届け監査をおこなう巡回特使だけでなく、伝令特使も浄化特使も、訪れた先で聖職者の不正や怠慢があれば聖都に報告することになっている。さらに実績を重ねた特使は、その場で自己判断により司祭の罷免までおこなえるのだ。
グラジェフが手を緩めると、ジアラスは素早く銀環を奪い返して後ずさった。彼は恐怖にわななき、やがて……歯を食いしばり、うつむいてすすり泣き始めた。




