7-5 憐れむべきもの
エリアスは顔をしかめて耳を塞ぐ。頼りにならないとは思ったが、まさかここまでとは。
せっかくダンカがこちらの呼びかけに反応したのに、ぶち壊しだ。もはや彼女は司祭の言葉になど耳を貸さないだろう。
彼は素早く、しかし焦らず鞄のところへ行って中身を探った。銀鈴樹の精油を取り出し、指先に一滴垂らして悪魔に向き直る。
淫乱な下衆、恥知らず、とジアラスを罵っていた悪魔が、若い司祭の接近に気付いてぎくりとした。その隙にエリアスはさっと手を伸ばし、女の額に精油をつける。
「主の御名において」
「やめろォォ!!」
聖句に悪魔の叫びが重なる。激しく頭を前後左右に振って苦しむ姿に、エリアスはただ不快をおぼえた。悪魔を責め苛んでいるというよりも、ただ無力な女が喚き暴れているだけにしか思えない。悪魔を引き剥がして実体を取らせることができたら、とことん苦しませてやれるのに。
「この者ダンカは清められた。もはや穢れの取り憑くあたわず」
額の精油から白い光がうっすらと広がり、身体を洗うように流れてゆく。ダンカは床に座り込んだままのけぞって天を仰ぎ、石のように硬直した。
エリアスはふっと息を吐き、一歩離れてから改めて代償の術を始めた。強引だが、これ以上長引かせてはダンカの身体がもたない。
右手に守り紐、左手に銀環。聖句を唱えて契約を破棄する。すべて契約を取り交わすものは心せよ……繰り返される聖句を遮るものは、もはやない。
「偽りの契約には、かりそめの器をあてがうべし」
守り紐が白い輝きを放つ。ダンカの魂との契約が『身代わり』に移ったしるしだ。エリアスは神銀の長剣を抜いて床に小さく円を描き、その中に紐を束ねて置いた。
「ああ、あ、あ、」
ダンカが小刻みに震え、切れ切れに喘ぎを漏らす。喉をこするような嗄れ声がしぶとく抵抗した。
「我は去らぬ、我は……知って、いるぞ……貴様の秘密を、知っているぞ……!」
ぎろりと目玉だけが動いてエリアスを射抜いたが、彼はいっさい動じなかった。悪魔がそう言って揺さぶりをかけてくるのは想定済みだ。冷ややかに切り捨てる。
「貴様にそんな力はない」
夢を通じてさえ秘密を暴くことのできなかった悪魔が、衣服に隠された身体を、言葉にされない記憶を、知ることなどあり得ない。彼を浄化特使に育てた老司祭や枢機卿が強く念を押し、無駄に動揺して隙を作るなと教えてくれた。
エリアスは恩師に心中感謝しながら、
「《悪魔よ、主のものから手を離して去れ》!」
退去令と共に、刃を『身代わり』へ振り下ろした。
閃光が弾け白煙が噴き出し、悲痛な叫びが響きわたる。ダンカのものではない、女の悲鳴とむせび泣きが。
《おお……おお、ダンカ……かわいそうな子、かわいそうな……》
かろうじて聞き取れるか聞き取れないか、微かな嘆きが煙と共に吹き散らされる。エリアスが唱える清めの聖句が、哀切の残響を覆い尽くし消し去ってゆく。魔の気配がすっかり消えると同時に、ダンカが床に倒れ伏し、小屋に静寂が戻った。
しばらくして、誰からともなくふうっと深い息をつく。エリアスは剣を鞘におさめ、ちらりとグラジェフを見た。これで終わりですね、と確認するように。
グラジェフは腕組みしたまま何かを堪えるような表情で、わずかに顎を引く程度にうなずいた。エリアスはほっと気を緩め、ひとまずダンカの傍らに膝をつく。息があるかどうか、脈は落ち着いているかを確かめようと手を伸ばしたところで、いきなりダンカが起き上がった。
一瞬のことだった。歯を食いしばって泣きながら、彼女は両手で若者の喉を掴んで突き倒す。
「――っ!」
固い物がまともに背に当たり、エリアスは激痛に喘いだ。その隙にも、細い指がぐいぐい喉を絞めてくる。なぜ、と無意味な問いが、赤黒く染まった視界に瞬いた。
「《眠れ》」
短い言葉がダンカの力を奪った。ぐにゃりとした身体を、グラジェフが素早く支えて抱き上げる。
エリアスは必死で空気を吸い込み、むせそうになった。ごろりと横に転がると、背中を直撃した物が目に入った。折れた椅子の脚だ。こんな所に落ちていたのか。
痛みを堪えてのろのろ立ち上がり、呆然とする。何がどうして殺されかけたのか、理解できない。ダンカを寝床に横たえたグラジェフが心配そうに戻ってきて、エリアスの肩に手を置いた。
「大丈夫か」
「……なんとか。でも、どうして」
「警告すべきだったな。悪魔を引き剥がされた人間は、時に我々を憎むのだ。甘く優しい夢から、むごく厳しい現実に引き戻されたと恨んで。ああ、手当てをせねば」
痛ましげなグラジェフの顔も声も、エリアスはどこか上の空で、他人事のようにとらえていた。
そうだ、知っている。ごく簡潔にだが、祓魔後の経緯について記された例があった。悪魔祓いが成功したからと言って、憑かれた者が元の日常に戻れることは滅多にない。司祭を憎み罵り、攻撃的になった、という記述も一行二行……
(攻撃的、どころか殺しにきたじゃないか。しかも消耗しきっていたはずが、爆発的な勢いで。もっと正確に書いてあれば警戒したのに)
詳細を省いた記録者を恨み、無意識に喉に触れる。これ以上痛めつけられて、声が出なくなったらどうしてくれる。
その時、誰かが扉をそっと叩いた。
床に座り込んだままだったジアラス司祭が、慌てて小箱の残骸をかき集めて袖に隠し、立ち上がる。
恐る恐る隙間から中を覗いたのは、ベルタだった。山道でジアラスと行き合った後、言いつけ通り教会に避難するか、小屋に戻るか迷っていたらしい。不安と恐れに青ざめている母親に、エリアスは苦心して笑みを浮かべて見せた。
「終わりました。ダンカはもう悪魔から解放されて、今は眠っていますよ」
「ああ……!」
感極まった声を上げ、ベルタはよろけながらエリアスに駆け寄ると、両膝をついて彼の手を取って握りしめた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
繰り返し礼を言いながら、司祭の手の甲に額を押し当ててすすり泣く。その姿を見下ろすうち、エリアスの胸中に温かく誇らしい感情が生じた。
(なすべきことをした。私は務めを果たしたのだ)
悪魔を殺すために浄化特使への道を邁進し、五年。初めて今、己が紛れもなく聖職者であるという自覚が芽生えたのだ。彼は自然と微笑み、空いたほうの手をそっとベルタの頭に置いた。
「主のご加護があればこそです。悪魔が去ったことでダンカも正気に返るでしょう。これからは母娘で支え合って、少しずつでも《聖き道》へと歩みを進めなさい」
教え諭すという意識もなく、ただどこからか射す光と共に降ってきた言葉を告げる。ベルタは震えながら何度もうなずいていた。




