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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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7-4 悪魔の弾劾

「だから女を殺すのか。貴様とて救いを求める迷い子の一人だろうに、追い詰められて罪を犯した者をさらに崖から突き落とすのか。それともまさか、貴様らがこの女を救えるとでも考えているのではあるまいな? 思い上がりもほどほどにしろ、愚かな盲目の徒どもが」


 悪魔の挑発を受けたエリアスは、危ういと自覚しつつ笑いだしそうになった。

 なんとまぁ、お手本通りの言いぐさであることか! 記録を読み、学び、備えていた、まさにその通りの展開になったのだ。楽しくなってしまうのもやむなしだろう。しかも今は夢の中ではない。自我を保つのも一苦労する、相手に有利な場ではないのだ。


「貴様ら悪魔はつくづくお為ごかしが好きだな」

 応酬する声が、堪えかねた笑いに震えた。ほとんど憐れむかのように、エリアスは悪魔を見下ろして嘲る。

「救ってやる、守ってやる、楽にしてやる。これから捌いて料理する羊に子守歌を聴かせるだけのことを、よくも恩着せがましく言えたものだ。まさか本当に善を施していると信じているのか?」


「賢しらぶった小童が、大口を叩くな」悪魔が憎々しげに唸る。「貴様ら司祭こそ、特権を笠に着ていいように民衆を支配する道具にすぎぬものを、《聖き道》などと称して仰々しく崇めるよう押しつけているではないか。現実には、不幸に苦しむ哀れな女一人さえ助けられないくせに」

「それが何だ」


 エリアスは思わず本心から失笑した。教会が救いにならないことなど、今さら悪魔に教わるまでもない。


「だからとて貴様らが助けになるという道理はない、履き違えるな。問題はどちらが人を救うかではない。貴様らが撒き散らす猛毒の欺瞞を地上世界から排除する、それだけだ」

 冷ややかに言い放ち、守り紐を外して右手に握って突き出す。左手で銀環に触れながら、彼は規定の聖句を唱えた。


「すべて契約を取り交わすものは心せよ。主の御名によらぬ契約は無効である」

 守り紐がぼんやりと熱を帯びる。悪魔が獣のように歯を剥いて唸りだした。

「何人たりとも己が魂を担保にしてはならない。錯誤のもとに交わされた契約は主の御名において破棄される。これなるは契約者ダンカの器、魂の担保に代わるものなり」

 右手に精神を集中し、聖句が銀環を巡り力を紡いで流れ込むのを守る。学院での練習とは異なり、実際に行うとかなりの抵抗を感じた。


「我は去らぬ、我は去らぬ」悪魔が低い声で繰り返している。「契約はなされた、我はこの者の……」

 ぶつぶつ言う声が低く小さくなった。契約内容を知られまいとしてだろう。地を這う唸りの合間に女の涙声が混じる。いやよ、いやいや、放っておいて……嫌い、大嫌い。二人分の声に応じて術を押し返す力が働き、銀光は目的を達せられず、守り紐にまとわりついたまま困惑したように漂った。


「くっ……」

 押し負ける。エリアスが歯噛みした瞬間、悪魔が吼えた。

「《砕けよ(ヴィヤーカ)》!」

 パキン、と薄氷が割れるような音を立て、代償の術が破られる。悪魔は相変わらず四肢を縫いとめられたまま、頭を振ってゲラゲラ笑った。


(くそっ、身代わりだけでは弱いか)

 名を聞き出せていない現状でもエリアス一人で祓える、とグラジェフが判断したのだから、悪魔としては小物だろうに、跳ね返されるとは。足りないのは何だ。己の集中力か、術の強度か、それともまさか信仰心か?

(あり得ないな。心を込めて祈ればむろん意識をより集中させられるが、それだけで術の強さが増すわけじゃない)

 霊力を引き寄せ紡ぐ才能と技術、そして相対的に敵を弱める方法を併用しているかどうかに成否がかかっている。このまま強行しても突破は可能だろうが、恐らくグラジェフに厳しい採点をされるだろう。

 エリアスはいったん気持ちを落ち着かせ、なるべく穏やかな声音をつくって呼びかけた。


「ダンカ。目を覚まして聞いてほしい」

 攻撃的にならぬよう、難詰や弾劾として受け取った相手がさらに頑なにならぬよう。こちらに心を向けてほしいと祈りながら。

「聖霊様が清く美しいものでないのは、もうわかっただろう。罵り、嘲笑し、汚い言葉を吐き散らす悪魔だ。差し出された手は、あなたを守ってくれない。道連れにしようとしているだけだ。振り払わなければ、あなたも一緒に地獄へ堕ちるぞ」


 慎重に、言葉を選んで語りかける。グラジェフと同じにはできなくとも、自分には自分なりの利点があるはずだ。そう、たとえば若くて歳が近いこと。老獪さはなくとも、傷つきやすい繊細な純真をまだ持っている――少なくともそう思わせられる外見であること。


「そうなったら、もう可愛いヤナには二度と会えない。あなたは、あの子に花冠を作ってあげる、と言ったじゃないか」

「ヤナ……あたしの、ヤナ」


 ぽつりとつぶやきがこぼれた。うつむいた顔には乱れた髪が滝のようにかかって、表情が見えにくい。だが少なくとも、笑っていないのは確かだ。

 よし、とエリアスは手応えを感じた。もう一押しすれば悪魔の名を聞き出せるか、あるいは契約破棄の意志を――だがそこで乱れた足音が窓外から迫り、台無しになった。


 ぎょっとなってエリアスとグラジェフが振り返る。扉が押し開かれ、現れたのは、

「ジアラス殿!?」

 額に汗を光らせた街の司祭だった。手には小箱を持っている。

 いくらなんでも早い、とエリアスが状況を飲み込めずにいる間に、ジアラスは荒い息をしながら室内を見回し、どうすべきか判断しかねる様子でグラジェフに歩み寄った。


「間に合った、でしょうか。これを……ダンカの臍の緒です。昨日、お話を伺ってすぐに探したものの見付からず……ですが、今朝、明け方に、倉庫で物音がして。行ってみたら、これが落ちていたんです。一番目立つように。間違いなく主の御意志だと、急いでお届けに」

 息切れしながらそこまで言い、びくついた目でダンカの様子を窺いながら、小箱をグラジェフに押しつけようとする。一刻も早くここから立ち去りたいらしい。

 だが、獲物を逃す悪魔ではなかった。にいっ、と唇が三日月を描く。


「ジアラス」

 絡み付きながら爪を立てて抉るような声音。ひっ、とジアラスが竦み、小箱を取り落とした。

「知っているぞ、この薄汚い司祭め。貴様の本性を知っているぞ」


 嘲る口調に紛れもない怒りが混じっていると感じたのは、間違いだろうか。エリアスは思わず眉をひそめてジアラスを見た。悪魔は嘘つきだと承知しているのに、虚言ではなく実際に断罪されるべき汚点があるのかと疑ってしまう。これは偏見か。悪魔を黙らせるべきなのに。


「やめろ、違う」

 ジアラスが震えながら後ずさり、首を振る。悪魔が昂然と顔を上げ、爛々と目を光らせて牙を剥く。

「下衆めが。貴様はこの女に欲情したな。救いを求め、最後の希望に縋ろうと力を振り絞って教会の扉を叩いた女に、貴様は劣情を抱き舌なめずりした! 呪われろ、屑が!!」

「違う! 違う違う違うぅっ!!」


 駄々っ子じみた悲鳴を上げて否定するが、その態度はむしろ非難を是認するばかりだった。グラジェフが瞑目し、エリアスは小声で罵詈を吐いた。

 だからか。だから彼は、教会に連れて来るなと言ったのか。己の罪が暴かれることを恐れて。だから、ダンカは夫を殺したのか。司祭からさえ劣情を向けられ、夫に無理やり犯され母親にも見捨てられて、もう誰にも自分の声は届かないのだと絶望したから。


「私は何もしていない!」

「そうとも、何もしなかったのだ」悪魔が揚げ足を取る。「女が求めたものを何ひとつ与えず、司祭がなすべきことを何ひとつしなかった! 淫らな妄想をしながら、この身体を目で犯しただけでな!」

「黙れっ、黙れぇ!! 違うぅー!!」


 ジアラスは真っ赤になって泣き出した。エリアスはその情けなさを軽蔑し、同時に悪魔と対峙することの危険を改めて痛感する。罪を犯さぬ人間はいない、だが罪を負ったまま悪魔に捕まれば確実に傷口を抉られる。図太くなる程度では防ぎきれない。


「グラジェフ殿、悪魔の嘘を信じないで下さい! 私は誓って……うわっ!」

 涙ながらにジアラスは自己弁護しようとし、特使に向き直った途端、小箱を踏んで派手に転んだ。古く粗末な箱は簡単に壊れ、中身もろとも司祭の身体の下敷きになる。わざわざ持ってきた『身代わり』を粉々にしてしまい、ジアラスはこの世の終わりかのごとく絶叫した。



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